95.進む教団改革

教団改革と並行して、道場では新たな信徒獲得のための模索がはじまった。事件後は、いきなりオウム(アレフ)と言ったらほとんど拒絶されてしまうので、ヨーガなどを教えながら精神的な話をして、信頼関係ができたうえでオウムと言わなければならなかった。
マイトレーヤ正大師は、導きが得意な支部のサマナには導きに役立つ勉強をすることを許可した。サマナは基本的にオウムの本以外を読むことは禁止されていたから、これまでにない思い切ったことだった。心理学、トランスパーソナル、カウンセリング、ヒプノセラピー、ヒーリング、気功、占星術などの講座を受講して、資格を取得したサマナが教団に導くための前段階のさまざまな流れを作ろうとしていた。

その頃、私はオウムと事件について考えるために、「宗教とは何か」「真理とは何か」「霊性とは何か」ということを模索してヨーガの教典を読んでいた。そして、オウムという宗教が至った結末について自分なりに理解するまでは、サマナや信徒の指導はしないと密かに決めていた。
とはいっても、まったく何もしないわけにもいかないので、もっぱら一般向けのヨーガ教室(ダミーサークル)で講義をしていた。オウム用語を一切使わずに、だれにでもわかる言葉で「真理」を伝えたかったので、こつこつ積み上げてきた研究成果をもとにして、二部構成の講義をまとめあげ、関西、中部、東京を中心に延べ百回ほど講義をした。それなりに手応えを感じたが、オウム(アレフ)と明かさないダミーサークルは、結局は相手をだますことだった。興味をもたれるほど素性を偽っていることが重たくなっていった。話を聞いて感動してくれるのはうれしかったが、オウムとわかるとほとんどの人が戸惑い、あるいは恐怖し、そして去っていった。
真理を説いていたオウムが、どうして事件を起こしたのだろうか? 私はいつもこの問題に立ちかえることになった。

マイトレーヤ正大師による教団改革はさらに進んでいった。教祖の影響を隠すために祭壇から教祖の写真をおろした。ただ、もともと事件前のオウムの祭壇に教祖の写真はなかったし、個人的に写真を持っていることまで禁止されなかったので、それほど大きな問題にはならなかった。しかし、教祖との縁を重んじる成就者のなかには、このまま改革が進んでいけば、ゆくゆくは「上祐教」になってしまうことを危惧して教団を去る人もいた。
次はいよいよ正面切っての入信拡大だった。マイトレーヤ正大師を前面に押し出して人を集めるために『覚醒新世紀』と題した本を出版した。これは上祐史浩著となってはいたものの、内容は教祖の初期の著書『生死を超える』を焼き直したものだ。
正大師は『生死を超える』が出た頃のオウムに戻したかったのだろう。救済を掲げた「オウム真理教」ではなく、個人が修行して解脱の体験をすることが主流だった「オウム神仙の会」の時代に――。
そして、サマナ全員が持っていた教典『尊師ファイナルスピーチ』を回収した。公安調査庁に危険だと見なされる教義を削除し、改訂して再配布される予定だったが、教祖の著書『生死を超える』を自分の名前で出版したことや、ファイナルスピーチの改訂作業のなかで、マイトレーヤ正大師が教祖の説法を書き直したことが最上層部で問題になったようだ。
長くオウムの編集にいたからわかるが、教祖の説法に手を入れることはあり得ないことだった。説法はよどみなく論理が流れて、途中で雑談が入ることや話が脱線することはまったくなく、テープ起こしをして語尾などを直せばそのまま印刷できるくらい文章として整っていた。その教祖の説法を一部であっても弟子が書き換えるということは、おそらく編集を統括していたヤソーダラー正大師(教祖の妻)の逆鱗にふれるほどの「大罪」だったのだろう。
神聖不可侵である“グル”に弟子が手を入れる――それはマイトレーヤ正大師に対する反発が強まっていく最大の原因だったのだと思う。


2015年10月15日

コメント

コーチング

高校のころにコーチングをやってたんですけど、被験者のほうが段階が進むにしたがって 自分と趣味趣向がとても似てくるというのは感じていました。グルのコピー?
  • | 2015-10-16 | 三橋 URL [ 編集 ]
      

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