46.海と死

「今日が本当に最後だ」
私はオウムを去る決心を固めていた。午後に予定していた『えんじょい・はぴねす』という雑誌の撮影を終えたら、だれがなんと言って引きとめようとオウムを出るつもりでほとんどの荷物をまとめていた。
『えんじょい・はぴねす』は信徒さんが気軽に知り合いに渡せるようにとつくられた雑誌だった。教祖はマンジュシュリー・ミトラ正悟師(故村井秀夫)率いるCSI(コスミック・サイエンス・インスティチュート)の科学技術力をアピールするために、ホバークラフト(空中浮揚艇)や飛行船や潜水艇を作らせ、それを雑誌に掲載して理系大学生の入信につなげるつもりだったらしい。
しかし、ホバークラフトは撮影の前に壊れてしまったし、飛行船は何度やってもうまく飛ばないので、仕方なく天井から紐でつるして飛んでいるように見せかけて撮影した。彼らが本気で実用に耐えうるものを作ろうとしていたのかどうかは、取材する私たちにもわからなかった。いや、でき上がってきたものを見る限り、学芸会レベルのような気がしないでもなかった(使ったお金はそうではなかっただろうが)。
その日は「一人乗り潜水艇」の進水実験を撮影するために静岡の港へ出かけた。早朝から準備にかかっているCSIのサマナに遅れて到着した私は、岸壁に止まっているトラックの荷台の「潜水艇」を見て眉をひそめた。金属製の筒型の胴体の上にドーム状の透明なプラスチックがかぶせてあり、もしかするとどこかにスクリューのようなものがついていたかもしれないが、なぜ、どうして、これが潜水艇なのだろうか…と思った。
何人かの男性サマナが忙しく動いていたが、どうやら作業は遅れているらしく準備にはしばらく時間がかかりそうだった。
十二月に入った海の風は冷たく、私は寝不足の疲れた身体を休めたかった。潜水艇を荷台に載せた目の前の大型トラックの運転席は陽があたって暖かそうだった。そこなら風を遮ることができるし準備が整えばすぐにわかるだろうと思って、私は運転席に乗り込んで休んで待つことにした。
そして、トラックのアームで潜水艇を海に下ろしているときに事故は起こった。
潜水艇の重さに耐えかねてバランスを崩したトラックは、傾いたかと思うとスローモーションフィルムのようにゆっくりと岸壁から海に転落していったのだ。

横転していくトラックのなかにいた私には、なにが起きているのかよくわからなかった。
「え!?」
四トントラックが海面に落ちた衝撃で左側のドアガラスは割れ、海水が一気に運転席に入ってきた。トラックは車体の左側を下に右側を上にして海底に沈んだ。勢いよく流れ込んできた海水に私の身体は押し上げられ、上になった右側のドアガラスにへばりつくような格好になった。ガラスの表面に一瞬残った空気の泡を吸おうとしたが、あっという間にかき消されてしまった。運転席は海水で満たされ息をすることはできなかった。
「嘘…」と思って、もがいたがどうすることもできない。意識の大混乱のなかで人生のさまざまな場面がラッシュフィルムを見るように過ぎていった。それを見た瞬間、私の人生には「他のために生きた」場面がなにもないことがわかり、言いようのない苦い後悔が残った。
閉ざされたドアガラスの向こうには、海水をとおして青い空が見えていた。
「私、ここで死ぬの?」
こんな名前も知らない土地で、思いがけない事故で、夢でもなんでもなく本当に私は死ぬのだろうか? だって、この状況で死なないというわけにはいかないじゃない…。
そう思ったとき、心のなかで「おかあさん!」と叫んでいた。
鼻から海水が入ってくる。それを飲み込む。また、飲み込む。こんなことをしてもすぐにおぼれてしまうだろう。絶体絶命のこのときこそ、グルを意識しないでいったい私はいつグルを意識するというのだ。そうだ、今までみんなが言っていたじゃない。グルは絶対だって、グルがすべてだって、グルしかないんだって。だからグルを思念すれば、グルならばこの窮地から私を救ってくれるに違いない。
そして、今まで一度も本気でしたことがなかった「グルを思念する」ということをした。
「尊師、どうか助けて!」
強く思念したまさにそのときだった。
「助けを求めるのは違う」
私のなにかがそう言った。助けを求めても、現実の教祖がスーパーマンのように飛んできて海底の私を救い出してくれはしない。そういうことをグルに求めることも、そういういう力がグルにあると考えることも違う。「グルとはそういうものではないのだ」という、はっきりとした感覚が私のなかにあった。もちろん、そのせっぱ詰まった状況で助けを求めた瞬間「違う!」と強く思っただけだった。死ぬと覚悟を決めるしかない。もがきながら死ぬのは間違っているような気がして、助かろうとする努力を一切やめて、「私は死のう」と思った。

海の底から海水とガラスを通して見える空が、とびきり青く澄んでいた。
「きれいだな」と思いながら、私は全身の力を抜いた。
心臓の鼓動がやけに大きく聞こえていた。
その音に合わせるように鼻から海水がどくどくと流れ込んできたようだった。
すると、私はやわらかな明るい光の中にいた。


2015年04月20日

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