44.チベットの誘惑

「出家の素晴らしさをテーマに記事を書いてもらいたいんだけど」
月刊誌『マハーヤーナ』の編集長が言った。
「ちょうど今、ラマ・ガウアンが来ているから、西洋人の彼が出家したいきさつを取材して、記事を書いたらいいんじゃない」
「ラマ」はチベット語で僧侶という意味だ。ラマ・ガウアンは、チベット仏教ガギュ派の総帥カル・リンポチェの元に出家した西洋人だった。「チベット密教」「カギュ派」「リンポチェ」といっても、一般の人にはなんのことやらわからないだろう。私も当時「カル・リンポチェ」「カギュ派総帥」と聞いても特になにも思わなかった。今でこそ「ダライ・ラマ法王」といえば、チベット仏教の最高位にあり、ノーベル平和賞を授賞した仏教者ということは広く知られ尊敬されている。ダライ・ラマ法王がチベットの政治的なトップならば、カル・リンポチェは中国共産党がチベットを支配する以前、ヒマラヤ山中で修行したチベット仏教を代表する瞑想家だ。ナーローパやミラレパという大聖者を輩出した「カギュ派」の伝統を受け継ぐ生き仏のような存在として、インド亡命後はヨーロッパやアメリカでチベット仏教を広める活動をしていた。(*)

「ラマ・ガウアンは、なにをしに富士に来ているんですか?」
富士山総本部道場に外部の人が滞在することはほとんどなく、もの珍しさで質問した。
「お、ふ、せ」と編集長は言った。
「カル・リンポチェが亡くなって、ソナダのリンポチェのお寺も厳しいらしいね」
仏教を信奉する教祖は、ダライ・ラマ法王やカル・リンポチェ、また後にはテーラヴァーダ仏教の聖者アーナンダ・マイトリー長老など、仏教の高僧への布施を惜しまなかった。そんなオウムの姿勢をよく知っていたからだろう、一年ほど前にリンポチェが他界して財政が厳しくなった寺は、援助を頼むためにラマ・ガウアンを派遣してきたらしい。私は滞在中のラマ・ガウアンを担当している国際編集(英語経典翻訳チーム)のウッタマー師(村岡達子・元代表代行)に、彼にインタビューができるよう段取りを依頼した。

ラマ・ガウアンはもの静かなカナダ人だった。髪はブラウン、目の色はグレーで、穏やかな話し方をする彼の英語は私でも聞き取れるところが多かった。ウッタマー師の通訳を介して聞く、彼とカル・リンポチェとの出会い、そして出家、修行の話は、オウムでたくさん取材してきた信徒・サマナの「真理との出会い、グルとの出会い」によく似ていた。
「実は、リンポチェに会ってすぐに夢を見たのです。リンポチェが死んでしまう夢で、そのときそこに立っている唯一の白人が私でした。それから十七年後、そのとおりになったのです」
ラマ・ガウアンは、二十歳でチベット仏教カギュ派に出家し、二年後にはフランスのリンポチェの寺で三年三か月のリトリート修行に入った。修行を終えてしばらくすると、リンポチェの指示で再び三年三か月のリトリート修行に入ったという。二度目のリトリートを終えたとき、彼は三十歳を過ぎていた。
「三年三か月のリトリート修行を二回、六年六か月かあ…」
私は、あこがれと尊敬の気持ちで話を聞いていた。
カル・リンポチェはリトリート修行をとても大切にしていたという。この期間は菜食で横になって寝ることはなく瞑想修行をする。リトリート修行と聞くと、なぜかなつかしさがわきあがってくる。オウムの本ではじめて独房修行を知ったときも、外国の本で砂漠でのリトリートのことを読んだときも、とても心ひかれるものがあった。

ひととおり取材が終わると、私はラマ・ガウアンと一緒に記事に使う彼の写真を撮りに出かけた。富士の牧草地でリラックスした姿を数カット撮り、帰りの車でも片言の英語で会話をしているうちに気が合ったのか、彼は私にこんな提案をした。
「カル・リンポチェのフォトブックを作ることになっています。リンポチェが若い頃修行した洞窟の写真も本に入れる予定です。カメラマンとして一緒にチベットに行って協力してくれませんか」
突然の申し出になんと答えていいのかわからなかった。チベットの山奥で洞窟内の写真を撮るなら光源はどうするか、どんな装備で機材はなにを選ぶかなど、すぐに技術的なことが思い浮かんだ。彼は洞窟のある場所について説明していたが、どこであろうと出家修行者である私は教祖の許可なく行くことはできない。
「尊師に聞いてみます」
もしかしたらラマ・ガウアンと一緒にチベットへ行けるかもしれない――少しの期待と希望を抱いて、私はそう言った。

富士に戻って編集長に取材が無事終わったことを報告し、カル・リンポチェの追悼写真集に協力するためにチベットへ行ってもいいか聞いた。もちろん返事は決まっていた。
「尊師にお伺いしてみます」
それから二日間、私はチベットへ撮影に行く妄想に浸った。そこへ連れて行ってくれるのが、異邦人のラマ・ガウアンだということにもわくわくした。そして、もしチベットに行ったら私はもうオウムには戻らないのだろうな、と思った。
はたして教祖は許可するだろうか? 
私は教祖に近い弟子ではないし、私のワークを代わりにやる人も他にいるだろう、熱心な修行者でもない私をチベットに送ることもあるのではないだろうか、そんなことをあれこれ考えていた。これまでも、教祖は私のわがままを容認するようなところがあったから、今回も許可してくれるような気がした。
教祖との編集会議から帰ってくる編集長を待ちかまえて聞いた。
「カル・リンポチェの件どうでしたか?」
「尊師、ダメだって」
「えー」
私のあわい期待と妄想は一瞬にして消えた。
私は複雑な思いだった。チベット行きに許可がでることを望んでいながら、教祖が私を教団に留めたことをどこかほっとしている気持ちもあった。
それからわずか一年後、ラマ・ガウアンは還俗して故国カナダへ帰り結婚したという。
それを聞いた教祖は言った。
「やっぱりなあ、グルがいなくなると、途端にそうなるんだよなあ…」
聞いていた弟子は、自分たちはずっとグルと一緒にいられると信じていたと思う。


(*)教祖とカル・リンポチェ(1905~1989)は特別な縁があった。あるとき教祖の瞑想中に僧のヴィジョンがあらわれ「私はカル・リンポチェというチベット仏教カギュ派のラマ(高僧)である。私はあなたの前生のグルでもある」と語りかけた。その後、リンポチェと教祖は現実に出会い、交流し、1988年の富士山総本部道場開設にあたってはリンポチェが来日して本部と支部を祝福された。その後、教祖の瞑想中に「トージェ・チェ(ありがとう)」というリンポチェの声が聞こえたため、リンポチェが亡くなったのではないかと、瞑想で神々に問いかけると、「リンポチェは死んだ。死んだ。死んだ…」という声がこだました。すぐに教祖はインドへ向かったが、リンポチェは既に亡くなっていた。



2015年04月16日

コメント

ガウアンさん①

ラマ・ガウアン、なつかしいですね。今どうしているでしょうか。
この文にあるように、ラマ・ガウアンの師であったカル・リンポチェがなくなったあと、ガウアンさんはお布施を受け取りに定期的に富士に来て、教祖と会っていました。
あるときストゥーパ(仏教の供養塔)を作るためのお布施を求めてこられたことがありましたが、そのときの教祖とガウアンさんとのやりとりが残っていましたので、ご紹介しますね。
長いので分けて投稿します。
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教祖:先日リンポチェと話しました。(アストラルで会ったという意味)リンポチェが言うには、ストゥーパを作るのは、ギャルツェンさんにやらせなさい。それはオウムの仕事ではない。今のお寺の状況が気にかかる。皆の心が表面的なことに行っている。ガウアンさんを見ていて、今のガウアンさんはデーヴァになっている。菩薩としての心を忘れている。リンポチェが生きていた時には、1.慙愧の念があり、2.心が集中していた。

ガウアン:リンポチェが生きていた時には、リンポチェと心を通じ合わせることができたが、今はそれができない。

教祖:それは心の問題で、通じ合おうという意思があるなら通じ合える。ガウアンさんは七覚支を知っていますか? リンポチェがガウアンさんに翻訳をやらせたかったのは、翻訳は経であり、それを通してリンポチェの意思と通じ合い、自分のステージを高めることができる。ストゥーパを作ることは確かにすばらしいことである。それを見て、信のなかった者が信を持つようになる。しかし、翻訳の仕事は、すでに信のある者が、それによって菩薩としての理解を深め、ステージを上げることができる。わたしは、後者の方が重要であると考える。
  • | 2015-05-12 | 当時のウッタマー師 URL [ 編集 ]

ガウアンさん②

教祖:2年半前、わたしは、アストラルで自分がマイトレーヤの変化身(ニルマーナカーヤ)であることを知った。ダライラマもそれを知っていたが、今は話す時期ではない。時が来たら、話しなさいとおっしゃった。リンポチェもこれを知っていて、わたしたちは家族であるから、もう布施は必要ないとおっしゃった。しかし、今生での自分の修行は布施波羅密の徹底だと思っているので、布施はさせていただく。一生で一つのことを学べばいい。仏教の教えは深遠であるから、一つでも十分。グルと弟子の関係は永遠である。もしガウアンさんがバルドーの経験がすべて済んでいるのだったら、もうすべては終わっているのだから、あとは心の問題である。いかに心を成熟させるかである。

ガウアン:今の自分の状態は突き詰めれば怠惰である。この状態を打破するにはどうしたらよいか?

教祖:1.決意 2.高いステージを保つことである  1日3回 10分ずつ、これについて考える。
1.は自分は菩薩としてここにとどまる。
2.高いステージを保つことによってこそ、救済ができる。これはカギュ派の伝統でもある。瞑想が多いのはそのため。
これをすることによって、瞑想がしやすくなる。
リンポチェはいつも菩薩として真剣勝負していた。

ガウアン:その通りです。死ぬときまで、リラックスしたことはなかった。

教祖:リンポチェは色でもなく、受でもなく、想でもなく、行でもない。識である。いつもそこにいる。コンタクトしようと思えばいつでもできる。ガウアンさんも、バルドの経験が済んでいるのだったら、あとは心の問題で、できるはずである。
  • | 2015-05-12 | 当時のウッタマー師 URL [ 編集 ]

ガウアンさん③

疑いについて - 高い菩薩と低い菩薩の例

教祖:同じことをしてもその意味が違う。
たとえば、食べ物をガツガツ食べたとしても、アストラルで神々を供養している。セックスをしたとしてもアストラル、コーザルで通じ、その人のステージを引き上げている。ステージの低い者は高いステージの者のことはわからない。

ガウアン:リンポチェもよく同じことを言っていた。

教祖:疑いがでるのは、煩悩が出てきた証拠である。リンポチェの光が届かない状態である。その人たちの疑いを取り除いてあげられるのだったら、それは素晴らしいが、巻き込まれてしまうのだったら、話さない方がよい。菩薩として不必要な人に会うことは、瞑想の妨げになる。一方で水をきれいにしながら、一方で泥を入れているようなもの。菩薩と凡夫との差は非常に大きいので、どうしてもエネルギーを取られてしまう。菩薩として他を利するためにベストを尽くしてください。

以上
  • | 2015-05-12 | 当時のウッタマー師 URL [ 編集 ]

Re: ガウアンさん③

当時の貴重な資料をありがとうございます。なんだか、しんみりする内容ですね。
  • | 2015-05-12 | 元TD URL [ 編集 ]

真剣勝負

いつも真剣勝負だったというのが、響きますね。
教祖はほんと妥協がなかったですからね。
教団が原理主義的なのは、やはり、根源(大本)の光を降ろしてきて、照射したからだろうと思います。
それはある意味、その光にあたった人でないと理解できない部分が多いですね。
それを伝えるのは、弟子しかできないと思います。
  • | 2015-05-13 | 当時のウッタマー師 URL [ 編集 ]

Re: 真剣勝負

当時のウッタマー師、コメントありがとうございます。今年は、中島尚志著『なぜオウムは消滅しないのか』(グッドブックス)が出版されて、オウムの宗教的な面についてこれまでとは違う観点が加えられました。オウムについて考え続けてこられた方の本だと思いました。私たち当事者も“あそこでいったい何があったのか”という記録を整理、検討、残していく努力はしたいですね。今後とも資料・お気づきの点などありましたらよろしくお願いいたします。
  • | 2015-05-13 | 元TD URL [ 編集 ]

No title

ガウアンは自分の修行に確信が持てないタイプだね。
元TD師に似てるんじゃないの。(笑)
  • | 2015-05-13 | 元R師 URL [ 編集 ]

Re: No title

似てるかも・・(笑)
  • | 2015-05-13 | 元TD URL [ 編集 ]
      

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