37.過去世とカルマ

編集部のワークは、教祖の説法を忠実に文字に起こし流布することが中心で、自分の考えで書くということは許されず、常に教祖が説く法則にそった記事が求められた。
私は内心「書きたいことが書けないのはつまらない」と思っていた。
社会生活では、自分を表現するのはごく普通のことだが、修行者がそうすることは「エゴだ」と言われ認められなかった。やりきれなくなった私は、ワークをボイコットして車の中にたてこもったこともある。そのまま運転して現世に帰ってしまえばいいのに、泥だらけでぬかるんだ駐車場まで、教祖がわざわざ様子を見にやってくる姿を見たら、いろんな感情が混ざり合って涙が出て止まらなくなった。
サマナとして半年が過ぎて、オウムにも教祖にも特別不満はないのに、帰依することにつまずいたままの私は、どうしようもない息苦しさと居心地の悪さを感じていた。

ところで、『サンデー毎日』の記事以来、オウムウォッチャーと呼ばれる人たちがマスメディアに登場して、オウム批判を繰り広げるようになった。そのなかに江川紹子さんという女性ジャーナリストがいた。週刊誌に掲載されていた江川さんのオウムを批判する発言を読んでいるとき、突然ひらめいたことがあった。
「江川紹子さんが今やっているようなことを、過去世でやっていたのかもしれない…」
オウムと縁はあっても、なかなか帰依できない自分のカルマには、そういう過去世がぴったり当てはまるような気がした。
「私って、過去世で江川紹子のような人だったのかも…」
実は、対象を批判することも称賛することも、対象との縁が深まるという意味では同じなのだ。憎みあった者同士が、来世夫婦になるという転生談はよく聞いていた。もし過去世で私がある宗教を激しく批判したら、その縁によって今生同じような宗教と出合って、素直に信じることができずにあら探しばかりしている、という可能性は十分考えられた。
本当にそう思えたので、編集の師に「過去世で江川紹子だったような気がする…」と言ってみた。オウムウォッチャーたちを天敵のように思っていた上長は、さすがに「そうかもね」と同意はしなかったが、私の顔をじっと見て、それを否定もしなかった。

第一段階のラージャ・ヨーガの修行に入る前、私は大揺れにゆれていた。富士で行われた教祖の説法が終わり、いつもの質問の時間になった。
「どうすれば極厳修行に入れてもらえますか」
説法に関係ない質問をしてしまうほど私は追いつめられていた。
そのとき教祖はこう言った。
「心にさみしさがあるからね。さみしさがあるから、出家も遅れた」
追いつめられていたからか、あるいは教祖の言葉が真実を言い当てたからか、「さみしさ」という言葉が胸に深く突き刺さったように涙があふれ出してきた。自分のこの反応に私は狼狽し、すぐに強く打ち消した。
「だれだって、人はさみしいもの。さみしさを抱えて生きているのは当たり前のこと。たとえ私にさみしさがあったとしても、それは誰もが同じだから、言い当てられたわけじゃない」
私はそう思いたかった。そうではないだろうか? 
しかし、「悲しみがある」でも「憂いがある」でもなく、教祖は私に「さみしさ」という言葉を投げかけた。こみ上げてくる涙は止まらなかった。
修行に入りたいという訴えが功を奏したのか、私は富士道場で行われる七日間の「懺悔(ざんげ)の詞章と蓮華座の極厳修行」に入るように言われた。
このとき修行に入っていなかったら、私はオウムを去っていたと思う。


2015年04月07日

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

コメント

      

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する