27.立位礼拝

立位礼拝は、別名「帰依のムドラー」といわれ、信と帰依がないと自覚していた私には一番嫌な修行だった。最初の一、二時間は問題なくできる。そのうちに、行じながらいろいろな考えがわきあがってくる。
「帰依するって言っても、本当は思っていないんだよね」
「あーあ、こんなシャクトリ虫みたいなことやって、意味あるのかなあ」
口で唱えている詞章とは全然別の思いがどんどん出てくる。
やがて身体のあちこちが痛くなってきて、まったくやる気がなくなり動作が遅くなる。「千尋の谷の修行」は監視する人も励ます人もいなかったので、どうしても気を抜いてしまい、のろのろと行じる立位礼拝はますます辛くなった。苦しくても、大声をあげてさっと投地を繰り返していると、あるとき壁が破られたようにすいすい軽やかにできるようになる。雑念のわいてこないその状態が、「帰依の状態」とされていた。しかし、それは多くの修行をくぐり抜けてきた熟練修行者に訪れる境地で、新人修行者にはどうにかこうにか堪え忍んで続ける苦行だった。
声はかすれ、膝はすりむけ、肩も痛んで腕が上がらなくなる、どういうわけか簡単な詞章を忘れてしまって言葉が出ない。道場の掛け時計の針ばかりが気になり、さっきから何時間経っただろうと見ると、たったの十五分しか経っていなかった。
「うそぉ…。ああ、もうやめて帰ろうか、出家なんて間違っていたんだ…」
隣を見ると、一緒に来た女性二人もふらふらしながら、なんとか礼拝を続けている。
「自分だけやめるわけにはいかない…」
一人だったらとても続かなかったと思う。

立位礼拝はハードな修行でその分効果が高い。すわったまま眠ってしまうこともできる瞑想修行と違って、立位礼拝の身体の動きと、詞章を声に出して唱えることは、ごまかしようがないからだ。面白いのは、呂律がまわらなくなって、わけのわからない言葉が出てきたり、なにも言葉が出てこなくなったりと、詞章が唱えられなくなることだ。これは潜在している「無智」のカルマのせいだと言われた。また、肩がまったく上がらなくなることもあり、これは「闘争」のカルマだと言われた。
苦しみながらも修行を続けていると、ぽっとその状態から抜ける。痛みが嘘のように消えて、身体が軽くなり暗かった意識もチェンジしてしまう。まるで世界が変わるようだった。
「本当にカルマが落ちたんだ」「一つ限界を超えたな」
そう思えるから、また修行に励んだ。
ところで、オウムを取り上げた報道では立位礼拝の修行風景がよく使われる。厳かで粛々とした雰囲気のなかで礼拝するのではなく、ワーワー大声でがなりたててする礼拝はだれがどう見たって狂気じみている。
「あの人たちは洗脳されて、考えることもやめてしまって、かわいそうだなあ」
お茶でも飲みながらテレビを見ていたら私だってそう思う。
立場が違えば、見え方はぜんぜん違うものだ。



2015年03月22日

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