死と象徴

元アナウンサーで、歌舞伎役者・市川海老蔵さんの妻・小林麻央さんが亡くなったと知ったとき、「やっぱり…」という思いと、「まさか、そんな…」という相反する思いがわきあがり、私は自分でも意外なほど大きなショックを受けて、その日は思い出しては何度も涙を流しました。

昨年九月からスタートした小林麻央さんのオフィシャルブログ「KOKORO.」を、私はリアルタイムで読んでいました。もともと芸能界にまったく興味はありませんでしたし、テレビを観ない生活が長かったので、「小林麻央」という名前さえ知らなかったのですが、がんを公表してブログをはじめたニュースを読んで、ステージ4の乳がんの有名人がどんな思いを綴るのだろうという興味本位で、なに気なく feedlyに登録したのです。
ひんぱんに更新される小林麻央さんの文章は、闘病する芸能人という枠をこえて、一人の強くひたむきな女性のいのちの輝きを感じさせるものでした。私はブログを楽しみにするようになり、まだ幼い二人の子どもたちのためにも、麻央さんの病が癒えることを心から祈る気持ちで、「がんばって」と陰ながら応援して読んでいました。

今年の五月末、退院して自宅療養するようになった麻央さんの文章の行間から、実際は厳しい状況なんだろうな、と想像はしていました。でも、病床にあっても他人を思いやり、小さなことにも喜びと感謝を綴る文章は変わらず心に響いてきましたから、私は「麻央さんは、きっと大丈夫」と思うようにしていました。
六月に入って間もない日、「蝶々」という記事がアップされました。
そこには長男勸玄(かんげん)くんとのなにげない日常のひとこまと、麻央さんの好きな詩が載っていたのですが、私はこの記事を読んで胸さわぎがしました。
「もしかすると、麻央さんの死は近いのかもしれない…」
“蝶”というイメージは、人が死んで肉体から魂が離れていくときの魂のイメージとしてよく知られているものです。ブログには、長男の勸玄くんが自分で捕った白い蝶を虫かごに入れてベッドの麻央さんに見せにくる様子が書かれていました。一緒に蝶を見たあと、逃がすために虫かごの扉を開けてベランダに置いておくと、しばらくじっとしていた白い蝶は次の瞬間勢いよく自由な空へ飛び立った――というエピソードでした。まるで肉体という牢獄から魂が解き放たれるような鮮やかなイメージです。
それに続いて、「蝶とバラ」という“変容”をテーマとする乳がん患者についての詩が引用されていました。毛虫から変態する蝶は変容のシンボルの一つで、変容というのは死の別名でもあります。
この日のブログに綴られた事柄を、イメージとして、象徴言語として読むと、“死”が浮かび上がってくるようでした。でも、私は「そんなはずはない!」と強く否定しました。ブログ読者200万人のなかの一読者にすぎない私であっても、ブログから“死”の気配を感じとるだけで、必死に生きようとしている麻央さんの力をそぐような気がしたからです。

数日後、麻央さんのウェディング・ドレスを作ってくれたデザイナーが、娘の麗禾(れいか)ちゃんに白いドレスをプレゼントしてくれたということが、麗禾ちゃんの写真と一緒にアップされていました。それは本当にウェディング・ドレスのような素敵なドレスでした。
象徴言語――すなわち「無意識の言葉」「魂の言葉」では、人が死んで肉体から意識が離れ、再び大いなる源へと還っていくとき、祝福に満ちた「結婚」のイメージがあらわれることがあります。私はこのことをユングの著書で知りました。
こうして麻央さんのブログに蝶や結婚という“死”と重なるイメージが続いてから、六月二十日の更新を最後にして、二十二日麻央さんは旅立っていかれました。

「象徴って、意味深いものだなぁ…」
私はあらためて思いました。「オウムとクンダリニー」の最後「102.グヤサマジャ」では、オウムにあらわれた象徴ついて、それがなにを意味するのか、あるいは無意味なのか…くわしく書きませんでした。あのときの私には、書けなかったというのが正しいのですが、今、もう一度、私なりに言葉にしてみようかと思っています。

(書き終わるまでは公開しませんので、完成するまで気長にお待ちください。)


2017年08月23日

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