早川紀代秀死刑囚の文章⑥

『オウムはなぜ消滅しないのか』(中島尚志)を読んで
6.最終解脱者と自称していたことについて

グル麻原が「最終解脱者」と自称するようになったのは、1988年春頃に発表された七段階のヨーガからなる「レインボー・ステージ」の最終ステージを自称されるようになってからでした。(レインボー・ステージについては「35.ステージ制度」参照)
それまでは「解脱者」と言っていましたが、レインボー・ステージの最初のステージをクリアしていれば「解脱者」ということでしたから、それとの区別のためと、レインボー・ステージでは「最終」ステージという意味からでした。ご本人がこれで修行が完成したので最終解脱者だと言われていたわけではありませんでした。なぜなら、その後「最終完全解脱」と言いだしたのはグル麻原ご本人でしたから。また、拘束されてからも、ブッダの身体を完成させる修行などをされていたようですから。
1988年の春には、「自分は未来際でマイトレーヤ如来となる魂だ」と言われていましたので、そのことからも、今生では修行はまだ完成していないという自覚があったものと思います。しかし、イエスが「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14章9節)と言われたように、グル麻原の心のなかには、常にシヴァ大神が働いているという思いはあったものと思います。
そして、出家教団でのグル麻原は、絶対的な存在としてふるまっていました。それは、オウムの内弟子(出家者)に対してとった修行法がグルイズムだったからです。このことは出家の際の誓約書に表われています。

このグルイズムについては、必ずしも悪いものとは私は思っていません。弟子のエゴを崩壊させる方法として極めて有効なものですし、密教を修行するためには、伝統的にもこのグルイズムがとられるケーズが多いからです。特に、後期インド密教であるチベット密教の場合には、この傾向が強く、「ラマ教」と呼ばれたことはご存知の通りです。
チベット密教では、成就法で本尊を観想しますが、この本尊と指導を受けているラマとは、
「一心同体のもの(bla ma dang gtso bo tha mi dad pa.)として信解し、常にそうした見方ができるように習熟する」(『ツォンカパのチベット密教』p187)ことが求められています。
ラマ(上師)は、本尊の化身ではなく「本尊がラマの化身」なのです。
そして、
「まず最初に絶対者としての本尊を想定し、それと自分との橋渡し程度の役割として上師を位置づけているようでは、どんなに努力して修行しても実を結ぶ見込みはない」(前記書p188)
とまで言われています。

オウムの成就法では、本尊のお顔をグル麻原の顔として観想しますが、これを私は長らくオウム独特のものと思っていました。でも最近、チベット密教でも同様のことを行なうと知って驚いたものです。グルは、ブッダ、本尊であると常に思えるようになってはじめて、密教の成就が可能ということですが、この点だけはオウムは大いに成功していたようです。
しかし、この成功は、グルが殺人を含めた非合法活動を弟子に指示した時点で、大きな悲劇を生むことになってしまったのです。

では、なぜグル麻原は、自分のことを神にも等しい絶対者であるとか、修行を完全になしとげたとは思ってはいないはずなのに、宗教行為として、弟子達に殺人を命じたのでしょうか?
もちろん、オウムの各支部の祭壇の正面にグヤサマジャの絵を祀らせるほど、グヤサマジャ・タントラを重視していたということは、原因の一つにあげられるとは思いますが、普通、経典に説かれているからといって、殺人をそのまま実行はしないものです。チベット密教の現状がそれをよく現わしています。実行する資格が自分にはあるのかと考えて、簡単には実行しないものです。というより、実行できないものです。その一線を、グル麻原はどうして越えてしまったのでしょうか?
一つには、自分は一般の人達とは違って、色々なヨーガを成就しているという認識があり、この認識が殺人を含むヴァジラヤーナを実践してもよいという認識につながった可能性があると思います。
また、救済至上主義というか、救済のためには資格もへったくれもない、すべてを投げ出して行なうのだというような、強力な救済使命というものにつき動かされた、ということも考えられます。これにはハルマゲドン予言というものが深く関わっていたと思います。
そして、もう一つの大きな要因(私はこれが一番の原因ではなかったかと思いますが)、それは、彼の霊的コンタクトにあったと思います。
このことは、あまり話題にはなっていませんが、グル麻原が目に見えない存在を見、その声を聞いていたことは、そばにいたものとしては疑いようのないことでした。それがどのような存在なのか、神なのか仏なのか、はたまた魔なのか邪霊なのか…。あるいは本人がそう思い込んでいるだけの幻覚なのか…。その辺のことはわかりませんが、普通ではない情報のやり取りが行なわれていたことは確かでした。そのようなやり取りのなかで、霊的存在から殺人を含むヴァジラヤーナの実行を示唆されていたがために、宗教的使命感をもって、実行に踏み切ったものと思われます。これを一般には「狂気の沙汰」といいます。



2017年06月12日

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コメント

No title

魚とか動物も生きている。人と同じ要素を持ってる。カルマもあるかもしれない。
  • | 2017-06-13 | 三橋 URL [ 編集 ]

》そして、もう一つの大きな要因(私はこれが一番の原因ではなかったかと思いますが)、それは、彼の霊的コンタクトにあったと思います。
以下略

それは僕も本を読んだりして思いました。

最初の内はきっとスウェーデンボルグ著 霊界日記に有るような
高次元とグル麻原は繋がっていたのではないか。

その後、オウム内でのシャクティーパット、懺悔でカルマを受けたり、日々の活動でキャパオーバーして低次元と繋がってしまったのではないか...と考えております。

松本麗華さん著
止まった時計――麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記には、

グル麻原 『誰もグルを愛してくれない』

全て、父の言いなりで生きて行くのは自己の責任を取らない?だったか そんな様なことが書いてありました。

キャパオーバーしてもおかしくは無いと感じました。
  • | 2017-06-13 | IT URL [ 編集 ]
      

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