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早川紀代秀死刑囚の文章⑤

『オウムはなぜ消滅しないのか』(中島尚志)を読んで
5.ブッダシャカムニでさえ煩悩がなくなってはいなかったというご指摘について

ブッダにも煩悩があったというご指摘には考えさせられました。
四聖諦の滅諦の「滅」に当たるパーリ語 nīrodha には、コントロールという意味もあるという人もいますし、私自身初めて四聖諦を知ったとき、道諦が滅諦の前ではなく、後にくることに違和感を覚えた口でしたから。また、煩悩がそう簡単にはなくならないことは、修行者の端くれとして身にしみていましたから。しかし、テーラヴァーダでも、大乗仏教でも、ブッダが煩悩を滅尽されていることは当然のこととされていますし、そのブッダが説かれた方法によって、私達も煩悩を滅尽できると説いています。
ただ、伝統仏教では、アラハンやブッダになったと現在公言されている方は見当たりませんし、本当のところはどうなのだろうと思ってしまいます。
いろいろ考えた結果、ブッダシャカムニは真理の言葉の力を知っておられたので、嘘は絶対に語られない、真理のみ語られ、嘘になる可能性のある時には沈黙されたということから出発し、ブッダが直接弟子達に語られたことから判断してみようと思いました。
幸い現在の仏典研究からは、『スッタニパータ』第四章、五章が最古の経典で、ブッダ在世当時、ブッダが説かれていたことが伝えられているとされています。同じ『スッタニパータ』でも、これ以外の章や、古いとされている『ダンマパダ』でさえ、ブッダの亡くなられた後に、弟子達の間でブッダの説として語られていたもののようです。
なので『スッタニパータ』の第四章、第五章のパーリ語の経典を資料として、以下検討しました。
検討方法としては、まず、「ムニとは」とか「真のバラモンとは」とか「清きものは」等という、修行を完成した人はどういう人かをブッダシャカムニ自身が語っておられる部分を抜きだして調べてみました。
次に、涅槃とはなにか? 解脱とはなにか? を説いておられる部分を抜きだし、同様に調べてみました。煩悩について説かれたものがあればそれも調べました。
検討結果を整理すると以下の通りです。
(なお使用した経典は、ダンマパダを学ぶ会発行のパーリ語仏典シリーズ『スッタニパータ』で、文中の番号は偈番号です。『ブッダのことば』(中村元)より六番多くなっています。訳は私訳です。)

〇「ムニは」「真のバラモンは」「清き人は」「聖道に達した人は」等、修行を完成した人は・・・
執着(samuggahītaṁ)がない(natthī)801
執着(pariggahesu)に汚されない(nopalitto)785
執着(pariggahaṁ)を捨てて(hitvā)815
執着(sañgamimaṁ)を捨てている(visajja)1066
欲望(kāmesu)を捨てて(Rittassa)829
欲望(kāmehi )を捨てられ(ritto)850
欲望(kāme)に汚されない(anūpalitto)851
束縛(ganthāni)を捨てて( Vissajja)918
悪い貪り(lobhapāpaṁ)がない(vitare)947
真実(Saccā)から離れることなく(avokkamma)952
自我を捨てて(attañjaho)796
平安を見る(khemadassino)815
期待することがない(anapekkhino)829
寂静(santo)918
真理(Sacco)947
怒りがなく(akkodhano)947
一切を捨てた(paṭinissajja)952
渇愛から離れて(vītataṇho)1066
苦しみなく(anīgho)1066
欲なく(nirāso)1066
欲なく(nirāsa)1084
苦しみなく(anīghā)1084
何ものをも所有せず(akiñcanaṁ)1097

などとなっています。
「滅」と訳されていてもコントロールの意味である nīrodha という語は使われておらず、明らかに「なくなる」としか解しようのない語が多くみられます。
「なくなる」対象は、執着と訳せる語が最も多く、次は欲望の Kāma です。執着と欲望に対しても、特に差はなくどちらにも「捨てる」とか「汚されない」という語意の語が使われています。
その他、「苦しみがない」「怒りがない」という表現もあり、一語で否定形を使った表現となっていますので、他の意味に取りようがありません。
「煩悩」にあたる kilesa という語は使われていませんが、三大煩悩のうち「貪り」「怒り」は直接その存在を否定されており、「無智」については「真理」という言葉でその存在を否定されています。その他、多くの煩悩に含まれるものがムニや聖者には「ない」ということが示されています。

〇涅槃(Nibbāna)とは・・・
欲望と貪欲を除き去ること(chandarāgavinodanaṁ)1092
不死の境地(nibbīnapadamaccutaṁ)1092
寂静(upasantā)
世間(loke)における執着(visattikan)を超えている(tiṇṇā)1093
無一物(Akiñcanaṁ)1100
無執着(anādānaṁ)1100
老死の尽滅(jarāmaccuparikkhayaṁ)
渇愛の捨断(taṇhāya vippahānena)1115

となっています。
欲望と貪欲というまさに煩悩を「除き去る」こと(vinodanaṁ)ということでの vinodanaṁ は「除去」という意味で vinodana が原型ですが、「除去」「除き去ること」以外の意味にはとれません。
(文字通りの意味にとることを「言葉を断片的にとらえてはいけない」とか「ブッダの真意は」とかと理由をつけて批判する人がいますが、そういう人に限って一つの持論(見解)を持っており、それに合わせた解釈しようとするケースが多いです。ブッダはまさに、そのような態度こそいましめられたと思います。私はブッダが言葉の持つ真理の力を失わないように慎重に選んで使われた一言一言を素直に受け取るようにしたいと思います。)

「無執着」(anādānaṁ)という言葉も、an と言う否定語に ādānaṁ(取、執着)がついたもので「執着が無い」か、あるいは「非執着」で「執着でない」と解され、どちも執着は存在しないと受け取れます。
「渇愛の捨断」についても、taṇhāya(渇愛)と、vippahānena(捨断)がひっついた語で、vippahānena は vippahāna を原型とし「放捨、棄捨、捨断」という意味があります。どうみても渇愛がなくなった状態を表わしているといえます。

〇解脱(vimokkha)とは・・・
・欲望(Kāmā)の住することなく(na vasanti)渇愛(taṇhā)も存在せず(na vijjati)諸々の疑惑を越えた(kathaṁ)それ以外にはない。1095
・完全智による解脱( aññāvimokkhaṁ)とは、無明(avijjāya)の破壊(pabhedanaṁ)1113

解脱についても、涅槃と同じく欲望や渇愛がなくなることであり、根本煩悩とされる無明の破壊を意味していることがわかります。

〇煩悩について
漢訳では、煩悩がにじみ出た状態を表わす「漏」と訳される āsava という語は、しばしば「煩悩」と訳されますが、これについては次のような偈があります。

名色(nāmarūpasmiṁ)に対する貪欲から離れた人(vītagedhassa)は、色々な煩悩(āsavāssa)は存在しない(na vijjanti)。1106

ここではっきりと煩悩の存在が否定されています。
ブッダに少しでも煩悩が残っていて、ご自分には煩悩が存在しないという自覚がなかったならば、ブッダは以上のような煩悩のない状態のことを説いたりはされなかったものと思います。

では、ブッダに煩悩がないというなら、『オウムはなぜ消滅しないのか』のなかで指摘されているブッダの特性を表わす「無上調御の人」(p146)というのは、どういうことになるのかという疑問が残ります。
これについては、ブッダご自身を調御するという解釈の他に、ブッダは「他の人を調御する無上の人である」という解釈もありますので、私はこちらの方をとりたいと思います。
また、ブッダやアラハンが瞑想修行を続けられていたことについては、テーラヴァーダでは“法楽”を享受されていたと説明していますが、私はそれだけではなくブッダやアラハンであっても、世間に出て救済活動を続けられるかぎり、接した人々からカルマを受けることは避けられず、時々はおのれ自身を浄化するための瞑想修行が必要であったのではと思っています。この場合のカルマというのは、汚れたエネルギーという意味で、煩悩のエネルギーといってもいいと思います。
もちろん、日々受けた汚れは、即、浄化されていたでしょうし、肉体的な影響は受けられても、精神的にはまったく汚されることはなかったと思いますが、長い期間の間には積もり積もったものを集中的に浄化することも必要であったように思います。そういう意味では、中島先生が述べておられるように「その日その日が『最終解脱』」(p175)であったように思います。

ところで、ブッダシャカムニがよくされていた瞑想というのは、『マッジマ・ニカーヤ』にあるアナパーナ・サティと思います。
これはアナパーナ(呼吸)へのサティ(気づき)という瞑想で、呼吸への気づきをベースに身体への気づき、感覚への気づき、心への気づき、現象(法)への気づきへと順次移っていくものです。呼吸は自然呼吸です。
やり方によっては、第四禅まで入ることができますし、近行定ないし初禅でのヴィパサナとしても使うことができます。
ブッダは、サティ(sati)、漢訳で「念」と訳されていますが、いわゆる「気づき」、英語でいうマインドフルネスを非常に重視され、『スッタニパータ』第四章、第五章のなかでも、いかにして欲望や執着を捨断するかという方法として、このサティを何度もあげておられます。
例をあげると、次の通りです。

774 後半 somaṁ visattikaṁ loke,
この世での執着を、
*sato samativattati.
サティによってのり越える。

777前半 Tasmā jantu sadā *sato
それ故、人は常によくサティして
kāmāni parivajjaye
諸々の欲望を避けよ。
*sato:原語はsata(過去受動分詞)名詞形がsati

1041Yāni sotāni lokasmiṁ, (ajitāti bhagavā)
(世尊はアジタに答えた)世間には諸々の流れがある。
sati tesaṁ nivāraṇaṁ;
それを遮断するのはサティである。
sotānaṁ saṁvaraṁ brūmi
流れは防護されると私は言う。
paññāyete pidhiyyare
智慧によって閉じられると。

これらの場合は、アナパーナ・サティのヴィパサナ型がもちいられ、煩悩に気づき、観察することによって、それを減じ、滅していくというものです。法楽を味わわれるときは、サマタ(サマディ)型のアナパーナ・サティをされて、初禅から二禅、三禅、四禅と楽しまれたことでしょう。
ここでよく、色界禅定や無色界禅定自体を否定する見解にお目にかかったりしますが、私はそうは思いません。ブッダは深いサマディに入られたけれど満足されなかったというシャカムニの伝記等から、そのような見解が出てくるのでしょうけれど、ブッダはこれらのサマディにヴィパサナ型瞑想法を新たに加えられたというのが正解のように思います。
前に検討した『スッタニパータ』第四章、第五章では、ブッダは、ニルヴァーナ、イコール寂静(upasamā)とおっしゃっていましたが、他にも santīti という語で寂静を表わし、やはりそこが涅槃(nibbutiṁ)だと言われています。この upasamā も santīti も、samatha(サマタ)や samāde(サマディ)と同類の語で、このことからも、ブッダがサマディを否定しておられないことがわかります。否定されるどころか、ニルヴァーナだとおっしゃっているのは、寂静である間は煩悩が存在しないからです。
しかし、サンディから出て寂静が崩れると、たちまち煩悩が出てきます。この点をブッダは、不満とされ、どのようにすればサマディから出ても煩悩が捨断できた状態でいられるのかを探求されたものと思います。(もちろんサマディといっても意識が飛んでしまうサマディは寂静とはみなされなかったとは思いますが。)
そして発見されたのが、サティ(気づき)であり、ヴィパサナ(観察)の瞑想であったと思います。このブッダの発見した方法によって、日常生活をしていても、煩悩を捨断した状態が保てるようになり、またこの瞑想に習熟していくと、完全なる智慧が生じる、いったんこの智慧が生じると、もはや煩悩は破壊されたと自覚されるものと思います。
したがって、この状態で静かに一人、山や森で生活されていれば(よくヨーギーがやるように)、何ものにも汚されずに一生を終えられたことでしょう。しかし、ブッダやアラハン達は、そういった生活をせずに、人々に教えを説く道を歩まれました。そのためときには、積もり積もった汚れを浄化するための瞑想が必要であったであろうことは前述した通りです。


2017年06月11日

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  • | 2017-06-11 |   [ 編集 ]

中島説

中島元判事が「ブッダの煩悩は完全には消滅していない」と述べていることについては、ロジックだけ見ても十分な論証がなされておらず、論理が飛躍または詩的な素描にとどまっています。元判事や弁護士と言ってもその言説が論理的とはかぎりません。加えて、中島氏が修行者でないことによる限界があります。
これに対し、早川氏の考察は、拘置所という制限された環境下にありながら重要な文献に当たって熟考吟味されたものです。自分の修行経験を重ねつつも十分論理的で説得的な言説と感じました。早川氏はこのような論理的な考え方をする人なのだなという印象を持ちました。神仙の会のころ、修行の体験談(たしか、功徳によって現象が円滑化するというような現世利益の話)を語っておられたことを思い出しました。
  • | 2017-06-11 | 海神 URL [ 編集 ]

No title

~ パーリ仏典 呼吸による気づきの教え(アーナパーナサティ・スッタ) ~

修行者は森に行き、樹下に行き、あるいは空家に行って、足を組んで坐り、身体をまっすぐに保って、
対象に満遍なく気づきを向け、気をつけて息を吸い、気をつけて息を吐く。

最初の四考察(身体に関する組)

一.息を長く吸っているときには「息を長く吸っている」と知り、
  息を長く吐いているときには「息を長く吐いている」と知る。
二.息を短く吸っているときには「息を短く吸っている」と知り、
  息を短く吐いているときには「息を短く吐いている」と知る。
三.「全身を感知しながら息を吸おう、全身を感知しながら息を吐こう」と訓練する。
四.「身体の動きを静めながら息を吸おう、身体の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。

第二の四考察(感受に関する組)

五.「喜びを感じながら息を吸おう、喜びを感じながら息を吐こう」と訓練する。
六.「安楽を感じながら息を吸おう、安楽を感じながら息を吐こう」と訓練する。
七.「心の動きを感じながら息を吸おう、心の動きを感じながら息を吐こう」と訓練する。
八.「心の動きを静めながら息を吸おう、心の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。

第三の四考察(心に関する組)

九.「心を感じながら息を吸おう、心を感じながら息を吐こう」と訓練する。
十.「心を喜ばせながら息を吸おう、心を喜ばせながら息を吐こう」と訓練する。
十一.「心を集中させながら息を吸おう、心を集中させながら息を吐こう」と訓練する。
十二.「心を解き放ちながら息を吸おう、心を解き放ちながら息を吐こう」と訓練する。

第四の四考察(法則性に関する組)

十三.「無常であることを繰り返し見つめながら息を吸おう、無常であることを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
十四.「色あせてゆくことを繰り返し見つめながら息を吸おう、色あせてゆくことを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
十五.「消滅を繰り返し見つめながら息を吸おう、消滅を繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
十六.「手放すことを繰り返し見つめながら息を吸おう、手放すことを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
  • | 2017-07-11 | 至福 URL [ 編集 ]
      

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