早川紀代秀死刑囚の文章⑤

『オウムはなぜ消滅しないのか』(中島尚志)を読んで
5.ブッダシャカムニでさえ煩悩がなくなってはいなかったというご指摘について

ブッダにも煩悩があったというご指摘には考えさせられました。
四聖諦の滅諦の「滅」に当たるパーリ語 nīrodha には、コントロールという意味もあるという人もいますし、私自身初めて四聖諦を知ったとき、道諦が滅諦の前ではなく、後にくることに違和感を覚えた口でしたから。また、煩悩がそう簡単にはなくならないことは、修行者の端くれとして身にしみていましたから。しかし、テーラヴァーダでも、大乗仏教でも、ブッダが煩悩を滅尽されていることは当然のこととされていますし、そのブッダが説かれた方法によって、私達も煩悩を滅尽できると説いています。
ただ、伝統仏教では、アラハンやブッダになったと現在公言されている方は見当たりませんし、本当のところはどうなのだろうと思ってしまいます。
いろいろ考えた結果、ブッダシャカムニは真理の言葉の力を知っておられたので、嘘は絶対に語られない、真理のみ語られ、嘘になる可能性のある時には沈黙されたということから出発し、ブッダが直接弟子達に語られたことから判断してみようと思いました。
幸い現在の仏典研究からは、『スッタニパータ』第四章、五章が最古の経典で、ブッダ在世当時、ブッダが説かれていたことが伝えられているとされています。同じ『スッタニパータ』でも、これ以外の章や、古いとされている『ダンマパダ』でさえ、ブッダの亡くなられた後に、弟子達の間でブッダの説として語られていたもののようです。
なので『スッタニパータ』の第四章、第五章のパーリ語の経典を資料として、以下検討しました。
検討方法としては、まず、「ムニとは」とか「真のバラモンとは」とか「清きものは」等という、修行を完成した人はどういう人かをブッダシャカムニ自身が語っておられる部分を抜きだして調べてみました。
次に、涅槃とはなにか? 解脱とはなにか? を説いておられる部分を抜きだし、同様に調べてみました。煩悩について説かれたものがあればそれも調べました。
検討結果を整理すると以下の通りです。
(なお使用した経典は、ダンマパダを学ぶ会発行のパーリ語仏典シリーズ『スッタニパータ』で、文中の番号は偈番号です。『ブッダのことば』(中村元)より六番多くなっています。訳は私訳です。)

〇「ムニは」「真のバラモンは」「清き人は」「聖道に達した人は」等、修行を完成した人は・・・
執着(samuggahītaṁ)がない(natthī)801
執着(pariggahesu)に汚されない(nopalitto)785
執着(pariggahaṁ)を捨てて(hitvā)815
執着(sañgamimaṁ)を捨てている(visajja)1066
欲望(kāmesu)を捨てて(Rittassa)829
欲望(kāmehi )を捨てられ(ritto)850
欲望(kāme)に汚されない(anūpalitto)851
束縛(ganthāni)を捨てて( Vissajja)918
悪い貪り(lobhapāpaṁ)がない(vitare)947
真実(Saccā)から離れることなく(avokkamma)952
自我を捨てて(attañjaho)796
平安を見る(khemadassino)815
期待することがない(anapekkhino)829
寂静(santo)918
真理(Sacco)947
怒りがなく(akkodhano)947
一切を捨てた(paṭinissajja)952
渇愛から離れて(vītataṇho)1066
苦しみなく(anīgho)1066
欲なく(nirāso)1066
欲なく(nirāsa)1084
苦しみなく(anīghā)1084
何ものをも所有せず(akiñcanaṁ)1097

などとなっています。
「滅」と訳されていてもコントロールの意味である nīrodha という語は使われておらず、明らかに「なくなる」としか解しようのない語が多くみられます。
「なくなる」対象は、執着と訳せる語が最も多く、次は欲望の Kāma です。執着と欲望に対しても、特に差はなくどちらにも「捨てる」とか「汚されない」という語意の語が使われています。
その他、「苦しみがない」「怒りがない」という表現もあり、一語で否定形を使った表現となっていますので、他の意味に取りようがありません。
「煩悩」にあたる kilesa という語は使われていませんが、三大煩悩のうち「貪り」「怒り」は直接その存在を否定されており、「無智」については「真理」という言葉でその存在を否定されています。その他、多くの煩悩に含まれるものがムニや聖者には「ない」ということが示されています。

〇涅槃(Nibbāna)とは・・・
欲望と貪欲を除き去ること(chandarāgavinodanaṁ)1092
不死の境地(nibbīnapadamaccutaṁ)1092
寂静(upasantā)
世間(loke)における執着(visattikan)を超えている(tiṇṇā)1093
無一物(Akiñcanaṁ)1100
無執着(anādānaṁ)1100
老死の尽滅(jarāmaccuparikkhayaṁ)
渇愛の捨断(taṇhāya vippahānena)1115

となっています。
欲望と貪欲というまさに煩悩を「除き去る」こと(vinodanaṁ)ということでの vinodanaṁ は「除去」という意味で vinodana が原型ですが、「除去」「除き去ること」以外の意味にはとれません。
(文字通りの意味にとることを「言葉を断片的にとらえてはいけない」とか「ブッダの真意は」とかと理由をつけて批判する人がいますが、そういう人に限って一つの持論(見解)を持っており、それに合わせた解釈しようとするケースが多いです。ブッダはまさに、そのような態度こそいましめられたと思います。私はブッダが言葉の持つ真理の力を失わないように慎重に選んで使われた一言一言を素直に受け取るようにしたいと思います。)

「無執着」(anādānaṁ)という言葉も、an と言う否定語に ādānaṁ(取、執着)がついたもので「執着が無い」か、あるいは「非執着」で「執着でない」と解され、どちも執着は存在しないと受け取れます。
「渇愛の捨断」についても、taṇhāya(渇愛)と、vippahānena(捨断)がひっついた語で、vippahānena は vippahāna を原型とし「放捨、棄捨、捨断」という意味があります。どうみても渇愛がなくなった状態を表わしているといえます。

〇解脱(vimokkha)とは・・・
・欲望(Kāmā)の住することなく(na vasanti)渇愛(taṇhā)も存在せず(na vijjati)諸々の疑惑を越えた(kathaṁ)それ以外にはない。1095
・完全智による解脱( aññāvimokkhaṁ)とは、無明(avijjāya)の破壊(pabhedanaṁ)1113

解脱についても、涅槃と同じく欲望や渇愛がなくなることであり、根本煩悩とされる無明の破壊を意味していることがわかります。

〇煩悩について
漢訳では、煩悩がにじみ出た状態を表わす「漏」と訳される āsava という語は、しばしば「煩悩」と訳されますが、これについては次のような偈があります。

名色(nāmarūpasmiṁ)に対する貪欲から離れた人(vītagedhassa)は、色々な煩悩(āsavāssa)は存在しない(na vijjanti)。1106

ここではっきりと煩悩の存在が否定されています。
ブッダに少しでも煩悩が残っていて、ご自分には煩悩が存在しないという自覚がなかったならば、ブッダは以上のような煩悩のない状態のことを説いたりはされなかったものと思います。

では、ブッダに煩悩がないというなら、『オウムはなぜ消滅しないのか』のなかで指摘されているブッダの特性を表わす「無上調御の人」(p146)というのは、どういうことになるのかという疑問が残ります。
これについては、ブッダご自身を調御するという解釈の他に、ブッダは「他の人を調御する無上の人である」という解釈もありますので、私はこちらの方をとりたいと思います。
また、ブッダやアラハンが瞑想修行を続けられていたことについては、テーラヴァーダでは“法楽”を享受されていたと説明していますが、私はそれだけではなくブッダやアラハンであっても、世間に出て救済活動を続けられるかぎり、接した人々からカルマを受けることは避けられず、時々はおのれ自身を浄化するための瞑想修行が必要であったのではと思っています。この場合のカルマというのは、汚れたエネルギーという意味で、煩悩のエネルギーといってもいいと思います。
もちろん、日々受けた汚れは、即、浄化されていたでしょうし、肉体的な影響は受けられても、精神的にはまったく汚されることはなかったと思いますが、長い期間の間には積もり積もったものを集中的に浄化することも必要であったように思います。そういう意味では、中島先生が述べておられるように「その日その日が『最終解脱』」(p175)であったように思います。

ところで、ブッダシャカムニがよくされていた瞑想というのは、『マッジマ・ニカーヤ』にあるアナパーナ・サティと思います。
これはアナパーナ(呼吸)へのサティ(気づき)という瞑想で、呼吸への気づきをベースに身体への気づき、感覚への気づき、心への気づき、現象(法)への気づきへと順次移っていくものです。呼吸は自然呼吸です。
やり方によっては、第四禅まで入ることができますし、近行定ないし初禅でのヴィパサナとしても使うことができます。
ブッダは、サティ(sati)、漢訳で「念」と訳されていますが、いわゆる「気づき」、英語でいうマインドフルネスを非常に重視され、『スッタニパータ』第四章、第五章のなかでも、いかにして欲望や執着を捨断するかという方法として、このサティを何度もあげておられます。
例をあげると、次の通りです。

774 後半 somaṁ visattikaṁ loke,
この世での執着を、
*sato samativattati.
サティによってのり越える。

777前半 Tasmā jantu sadā *sato
それ故、人は常によくサティして
kāmāni parivajjaye
諸々の欲望を避けよ。
*sato:原語はsata(過去受動分詞)名詞形がsati

1041Yāni sotāni lokasmiṁ, (ajitāti bhagavā)
(世尊はアジタに答えた)世間には諸々の流れがある。
sati tesaṁ nivāraṇaṁ;
それを遮断するのはサティである。
sotānaṁ saṁvaraṁ brūmi
流れは防護されると私は言う。
paññāyete pidhiyyare
智慧によって閉じられると。

これらの場合は、アナパーナ・サティのヴィパサナ型がもちいられ、煩悩に気づき、観察することによって、それを減じ、滅していくというものです。法楽を味わわれるときは、サマタ(サマディ)型のアナパーナ・サティをされて、初禅から二禅、三禅、四禅と楽しまれたことでしょう。
ここでよく、色界禅定や無色界禅定自体を否定する見解にお目にかかったりしますが、私はそうは思いません。ブッダは深いサマディに入られたけれど満足されなかったというシャカムニの伝記等から、そのような見解が出てくるのでしょうけれど、ブッダはこれらのサマディにヴィパサナ型瞑想法を新たに加えられたというのが正解のように思います。
前に検討した『スッタニパータ』第四章、第五章では、ブッダは、ニルヴァーナ、イコール寂静(upasamā)とおっしゃっていましたが、他にも santīti という語で寂静を表わし、やはりそこが涅槃(nibbutiṁ)だと言われています。この upasamā も santīti も、samatha(サマタ)や samāde(サマディ)と同類の語で、このことからも、ブッダがサマディを否定しておられないことがわかります。否定されるどころか、ニルヴァーナだとおっしゃっているのは、寂静である間は煩悩が存在しないからです。
しかし、サマディから出て寂静が崩れると、たちまち煩悩が出てきます。この点をブッダは、不満とされ、どのようにすればサマディから出ても煩悩が捨断できた状態でいられるのかを探求されたものと思います。(もちろんサマディといっても意識が飛んでしまうサマディは寂静とはみなされなかったとは思いますが。)
そして発見されたのが、サティ(気づき)であり、ヴィパサナ(観察)の瞑想であったと思います。このブッダの発見した方法によって、日常生活をしていても、煩悩を捨断した状態が保てるようになり、またこの瞑想に習熟していくと、完全なる智慧が生じる、いったんこの智慧が生じると、もはや煩悩は破壊されたと自覚されるものと思います。
したがって、この状態で静かに一人、山や森で生活されていれば(よくヨーギーがやるように)、何ものにも汚されずに一生を終えられたことでしょう。しかし、ブッダやアラハン達は、そういった生活をせずに、人々に教えを説く道を歩まれました。そのためときには、積もり積もった汚れを浄化するための瞑想が必要であったであろうことは前述した通りです。


2017年06月11日

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  • | 2017-06-11 |   [ 編集 ]

中島説

中島元判事が「ブッダの煩悩は完全には消滅していない」と述べていることについては、ロジックだけ見ても十分な論証がなされておらず、論理が飛躍または詩的な素描にとどまっています。元判事や弁護士と言ってもその言説が論理的とはかぎりません。加えて、中島氏が修行者でないことによる限界があります。
これに対し、早川氏の考察は、拘置所という制限された環境下にありながら重要な文献に当たって熟考吟味されたものです。自分の修行経験を重ねつつも十分論理的で説得的な言説と感じました。早川氏はこのような論理的な考え方をする人なのだなという印象を持ちました。神仙の会のころ、修行の体験談(たしか、功徳によって現象が円滑化するというような現世利益の話)を語っておられたことを思い出しました。
  • | 2017-06-11 | 海神 URL [ 編集 ]

No title

~ パーリ仏典 呼吸による気づきの教え(アーナパーナサティ・スッタ) ~

修行者は森に行き、樹下に行き、あるいは空家に行って、足を組んで坐り、身体をまっすぐに保って、
対象に満遍なく気づきを向け、気をつけて息を吸い、気をつけて息を吐く。

最初の四考察(身体に関する組)

一.息を長く吸っているときには「息を長く吸っている」と知り、
  息を長く吐いているときには「息を長く吐いている」と知る。
二.息を短く吸っているときには「息を短く吸っている」と知り、
  息を短く吐いているときには「息を短く吐いている」と知る。
三.「全身を感知しながら息を吸おう、全身を感知しながら息を吐こう」と訓練する。
四.「身体の動きを静めながら息を吸おう、身体の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。

第二の四考察(感受に関する組)

五.「喜びを感じながら息を吸おう、喜びを感じながら息を吐こう」と訓練する。
六.「安楽を感じながら息を吸おう、安楽を感じながら息を吐こう」と訓練する。
七.「心の動きを感じながら息を吸おう、心の動きを感じながら息を吐こう」と訓練する。
八.「心の動きを静めながら息を吸おう、心の動きを静めながら息を吐こう」と訓練する。

第三の四考察(心に関する組)

九.「心を感じながら息を吸おう、心を感じながら息を吐こう」と訓練する。
十.「心を喜ばせながら息を吸おう、心を喜ばせながら息を吐こう」と訓練する。
十一.「心を集中させながら息を吸おう、心を集中させながら息を吐こう」と訓練する。
十二.「心を解き放ちながら息を吸おう、心を解き放ちながら息を吐こう」と訓練する。

第四の四考察(法則性に関する組)

十三.「無常であることを繰り返し見つめながら息を吸おう、無常であることを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
十四.「色あせてゆくことを繰り返し見つめながら息を吸おう、色あせてゆくことを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
十五.「消滅を繰り返し見つめながら息を吸おう、消滅を繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
十六.「手放すことを繰り返し見つめながら息を吸おう、手放すことを繰り返し見つめながら息を吐こう」と訓練する。
  • | 2017-07-11 | 至福 URL [ 編集 ]

至福さんの引用

上記の引用は、井上ウィマラ氏の『呼吸による気づきの教え パーリ原典「アーナパーナサティ・スッタ」詳解』(佼成出版社 刊)からの引用と思われます。なぜそういえるのかというと、わたくしもこの本を所有しているからです。マッジマ・二カーヤ.No118については、引用の書では省略が多いので、和井恵さんのサイトから以下に全文引用しましたので、ご参照下さい。
中部118 「出入息念経」Anapanasati-Sutta (Majjhima Nikaya No.118)

1  このように私は聞いた―
 あるとき、世尊は、サーヴァッティ―に近い東園のミガーラマータ―殿堂において、多くの、それぞれによく知られている長老弟子たち、すなわち、尊者サーリプッタ、尊者マハーモッガラーナ、尊者マハーカッサパ、尊者マハーカッチャヤーナ、尊者マハーコッティカ、尊者マハーカッピナ、尊者マハーチェンダ、尊者アヌルッダ、尊者レーヴァタ、尊者アーナンダ、またその他のそれぞれによく知られている長老弟子たちとともに住んでおられた。
 ちょうどそのころ、長老弟子たちは新参比丘たちに教示し、教誡していた。ある長老弟子たちは、十人の新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、二十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、三十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、四十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。また彼ら新参比丘も、長老弟子たちに教示され、教誡されて、以前よりもさらに広大な、勝れた境地を了知した。

2 ちょうどそのとき、世尊は、その日、十五日の布薩(ウポーサタ)に、すなわち自恣の満ちている(パワーラナ儀式の行われる)満月の夜に、比丘僧団に囲まれて、露地(野外)に坐っておられた。
 「比丘たちよ、私はこの実践に満ちています。比丘たちよ、私はこの実践に心が満ちています。それゆえ、比丘たちよ、まだ得られていないものを得るために、到達していないものに到達するために、目のあたりに見ていないものを目のあたりに見るために、さらに一層、精進に務めなさい。私はこのサーヴァッティで、雨期の四番目の月のコームディー(白睡蓮)満月を待つことにします」と。
 地方の比丘たちは聞いた。『世尊はそのサーヴァッティで、雨期の四番目の月のコームディー満月を待たれるそうだ』と。かれら地方の比丘たちは、世尊にお目にかかろうと、サーヴァッティに向けて旅立った。
 かれら長老弟子たちは、さらに一層、新参比丘たちを教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、十人の新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、二十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、三十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。ある長老弟子たちは、四十人もの新参比丘たちに教示し、教誡した。また彼ら新参比丘も、長老弟子たちに教示され、教誡されて、以前よりもさらに広大な、勝れた境地を了知した。

3 ちょうどそのとき、世尊は、その日、十五日の布薩に、すなわち雨期の四番目の月のコームディー満月の、満ちている満月の夜に、比丘僧団に囲まれて、露地に坐っておられた。ときに、世尊は、それぞれの沈黙している比丘僧団を見回され、比丘たちに話しかけられた。
 「比丘たちよ、この会衆は饒舌がありません。比丘たちよ、この会衆は饒舌を離れ、純粋であり、真髄のうちに確立されています。
比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち、供養にふさわしいもの、真先の供養にふさわしいもの、信施にふさわしいもの、合掌にふさわしいもの、世間の無上の福田、そのような会衆です。
 比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち、そこに少し施されたものが多くなり、多く施されたものがより多くなる、そのような会衆です。
 比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち世界に見ることが難しい、そのような会衆です。
 比丘たちよ、この比丘僧団はそのようなものです。比丘たちよ、この会衆はそのようなものです。すなわち、数多のヨ―ジャナの距離を、食糧袋を持ってでも会いに行くのにふさわしい、そのような会衆です。

4 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、阿羅漢であり、煩悩が尽き、住み終え、為すべきことを為し、負担を下ろし、自己の目的に達し、生存の束縛を断ち、正しく知って解脱している者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちがいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、五つの下位の束縛の滅尽によって、化生者となり、そこで完全に滅する者として、その世界から還らない者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、三つの束縛の滅尽により、貪・瞋・痴が薄いことにより、一来者となり、ただ一度だけこの世界に戻って来て、苦の終わりを作るはずの者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、三つの束縛の滅尽により、預流者となり、破壊しない者、決定者としてすぐれた覚りに趣く者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、四念処の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、四正勤の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、四神足の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、五根の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、五力の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、七覚支の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、聖なる八支の道の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、慈しみの修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、憐れみの修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、喜びの修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、平静の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、不浄の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、無常想の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
 比丘たちよ、この比丘僧団には、比丘にして、出入息念の修習実践に励み住む者たちがいます。比丘たちよ、この比丘僧団にはこのような比丘たちもいます。
比丘たちよ、出入息念は修習され、復習され、大きな果報、大きな功徳があるものになります。比丘たちよ、出入息念は修習され、復習され、四念処を満たします。四念処は修習され、復習され、七覚支を満たします。七覚支は修習され、復習され、明と解脱を満たします。

5 それでは、比丘たちよ、出入息念は、どのように修習され、どのように復習され、どのように大きな果報、どのように大きな功徳があるものになるのか。
 比丘たちよ、ここに比丘は、森に行くか、樹下に行くか、空屋に行って、結跏し、身を真っ直ぐに保ち、全面に念を凝らして坐ります。
 かれは、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。
長く出息するときは< 私は長く出息する >と知り、あるいは、長く入息するときは< 私は長く入息する >と知ります。
また、短く出息するときは< 私は短く出息する >と知り、あるいは、短く入息するときは< 私は短く入息する >と知ります。
< 私は全身を感知して出息しよう >と学び、< 私は全身を感知して入息しよう >と学びます。
< 私は身行を静めつつ出息しよう >と学び、< 私は身行を静めつつ入息しよう >と学びます。
< 私は喜を感知して出息しよう >と学び、< 私は喜を感知して入息しよう>と学びます。
< 私は楽を感知して出息しよう >と学び、< 私は楽を感知して入息しよう >と学びます。
< 私は心行を感知して出息しよう >と学び、< 私は心行を感知して入息しよう >と学びます。
< 私は心行を静めつつ出息しよう >と学び、< 私は心行を静めつつ入息しよう >と学びます。
< 私は心を感知して出息しよう >と学び、< 私は心を感知して入息しよう >と学びます。
< 私は心を歓喜で充満させつつ出息しよう >と学び、< 私は心を歓喜で充満させつつ入息しよう >と学びます。
< 私は心を一点集中させて出息しよう >と学び、< 私は心を一点集中させて入息しよう >と学びます。
< 私は心を解放させつつ出息しよう >と学び、< 私は心を解放させつつ入息しよう >と学びます。
< 私は無常を観つづけて出息しよう >と学び、< 私は無常を観つづけて入息しよう >と学びます。
< 私は離貪を随観して出息しよう >と学び、< 私は離貪を随観して入息しよう >と学びます。
< 私は滅尽を観つづけて出息しよう >と学び、< 私は滅尽を観つづけて入息しよう >と学びます。
< 私は捨離を観つづけて出息しよう>と学び、< 私は捨離を観つづけて入息しよう >と学びます。
比丘たちよ、出入息念は、このように修習され、このように復習され、大きな果報、大きな功徳があるものになります。

6 比丘たちよ、出入息念は、どのように修習され、どのように復習され、四念処を満たすのか。

 比丘たちよ、比丘は、
― 長く出息するときは< 私は長く出息する >と知り、あるいは、長く入息するときは< 私は長く入息する >と知ります。また、短く出息するときは< 私は短く出息する   >と知り、あるいは、短く入息するときは< 私は短く入息する >と知ります。< 私は全身を感知して出息しよう >と学び、< 私は全身を感知して入息しよう >と学びます。< 私は身行を静めつつ出息しよう >と学び、< 私は身行を静めつつ入息しよう >と学びます。
― そのとき、比丘たちよ、比丘は身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。比丘たちよ、私はこれを、もろもろの身におけるある一つの身、すなわち出入息である、と説きます。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、比丘は身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。(1)

 比丘たちよ、比丘は、
― < 私は喜を感知して出息しよう >と学び、< 私は喜を感知して入息しよう>と学びます。< 私は楽を感知して出息しよう >と学び、< 私は楽を感知して入息しよう >と学びます。< 私は心行を感知して出息しよう >と学び、< 私は心行を感知して入息しよう >と学びます。< 私は心行を静めつつ出息しよう >と学び、< 私は心行を静めつつ入息しよう >と学びます。
― そのとき、比丘たちよ、比丘はもろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。比丘たちよ、私はこれを、もろもろの受におけるある一つの受、すなわちもろもろの出入息についてよく思惟することである、と説きます。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、比丘はもろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。(2)

 比丘たちよ、比丘は、
― < 私は心を感知して出息しよう >と学び、< 私は心を感知して入息しよう >と学びます。< 私は心を歓喜で充満させつつ出息しよう >と学び、< 私は心を歓喜で充満させつつ入息しよう >と学びます。< 私は心を一点集中させて出息しよう >と学び、< 私は心を一点集中させて入息しよう >と学びます。< 私は心を解放させつつ出息しよう >と学び、< 私は心を解放させつつ入息しよう >と学びます。
― そのとき、比丘たちよ、比丘は心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。比丘たちよ、私は失念の者、不正知の者に出入息念を説くことはありません。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、比丘はもろもろの心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。(3)

 比丘たちよ、比丘は、
― < 私は無常を観つづけて出息しよう >と学び、< 私は無常を観つづけて入息しよう >と学びます。< 私は離貪を随観して出息しよう >と学び、< 私は離貪を随観して入息しよう >と学びます。< 私は滅尽を観つづけて出息しよう >と学び、< 私は滅尽を観つづけて入息しよう >と学びます。< 私は捨離を観つづけて出息しよう>と学び、< 私は捨離を観つづけて入息しよう >と学びます。
― そのとき、比丘たちよ、比丘はもろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。かれはその欲貪と憂いの捨断を慧によって観て、よく観察する者になります。それゆえ、比丘たちよ、そのとき、比丘はもろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住みます。(4)

比丘たちよ、出入息念は、このように修習され、このように復習され、四念処を満たします。

7 比丘たちよ、四念処は、どのように修習され、どのように復習され、七覚支を満たすのか。

 比丘たちよ、比丘が身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(1)

 かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(2)

 かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(3)

 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘の精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(4)

 心が喜ぶと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(5)

 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘の身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(6)

 かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(7)

8 比丘たちよ、比丘がもろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(1)

 かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(2)

 かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(3)

 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘の精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(4)

 心が喜ぶと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(5)

 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘の身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(6)

 かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(7)

9 比丘たちよ、比丘が心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(1)

 かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(2)

 かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(3)

 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘の精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(4)

 心が喜ぶと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(5)

 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘の身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(6)

 かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(7)

10 比丘たちよ、比丘がもろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における欲貪と憂いを除いて住むならば、そのとき、かれに念が確立しており、失念していません。比丘たちよ、比丘に念が確立しており、失念していなければ、そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は念というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の念というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(1)

 かれはそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ります。比丘たちよ、比丘がそのように念をそなえて住み、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到るならば、そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の法の吟味というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(2)

 かれが、その法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到ると、不動の精進は開始されたものになります。比丘たちよ、比丘がその法を慧によって吟味し、審慮し、完全な思量に到り、不動の精進が開始されたものになるならば、そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は精進というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の精進というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(3)

 精進が開始されると、無味の喜びが生じます。比丘たちよ、比丘の精進が開始され、無味の喜びが生じるならば、そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の喜びというすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(4)

 心が喜ぶと、心も軽快になります。比丘たちよ、比丘が心喜び、身も軽快になり、心も軽快になるならば、そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の軽快というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(5)

 身が軽快になり、楽になると、心は安定します。比丘たちよ、比丘の身が軽快になり、楽になり、心が安定するならば、そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の禅定というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(6)

 かれは、そのように安定した心をよく観察する者になります。比丘たちよ、比丘がそのように安定した心をよく観察する者になるならば、そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は開始されたものになります。そのとき、比丘は平静というすぐれた悟りの部分を修習します。そのとき、比丘の平静というすぐれた悟りの部分は修習を満たすものになります。(7)

比丘たちよ、四念処は、このように修習され、このように復習され、七覚支を満たします。

11 比丘たちよ、七覚支は、どのように修習され、どのように復習され、明と解脱を満たすのか。
 比丘たちよ、ここに比丘は遠離に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく念というすぐれた悟りの部分を修習します。
 比丘たちよ、ここに比丘は遠離に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく法の吟味というすぐれた悟りの部分を修習します。
 比丘たちよ、ここに比丘は遠離に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく精進というすぐれた悟りの部分を修習します。
 比丘たちよ、ここに比丘は遠離に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく喜びというすぐれた悟りの部分を修習します。
比丘たちよ、ここに比丘は遠離に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく軽快というすぐれた悟りの部分を修習します。
 比丘たちよ、ここに比丘は遠離に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく禅定というすぐれた悟りの部分を修習します。
比丘たちよ、ここに比丘は遠離に基づく、滅尽に基づく、捨棄に基づく平静というすぐれた悟りの部分を修習します。

比丘たちよ、七覚支は、このように修習され、このように復習され、明と解脱を満たします」と。
 このように世尊は言われた。
 かれら比丘は喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。
  • | 2018-05-19 | 匿名希望 URL [ 編集 ]

スッタニパータより引用

スッタニパータの中でも第4章、5章は確かに最も古いといわれてます。この第3章の「ニ様の考察」も大変参考になると思われますので、岩波文庫の中村元訳ではなく、講談社学術文庫の荒牧典俊・本庄良文・榎本文雄訳で引用させて頂きました。この⑬の「何ものかに頼っている人は心が動揺する」はグルイズムの完全否定ともとれなくはありません。四聖諦と十二縁起が何ら変わりないことも歴然としていると思います。
『スッタニパータ〔釈尊のことば〕』より抜粋
全現代語訳(講談社学術文庫) 荒牧典俊・本庄良文・榎本文雄 訳

第1章 蛇
第8経 慈しみの心(P.53~55)
143 静寂のきわみなる真実在〔涅槃〕をいよいよ間近に体得したところで、仏教の真理の妙を知るひとが、必ずや修行しなくてはならないことがある。それを修行し得るには、ひたむきであって、脇目もふらずひたむきであり、やさしい言葉を話し、柔和であり、謙譲でなくてはならない。
144 少欲知足であって、身体を養うわずらいがない。もっとも質素な生活をしているから、煩瑣な雑事も少ない。静寂なるままに認識していて叡知がはたらいている。見栄をはることなく、富裕な家に媚びることもない。
145 他派の識者たちの批判を受けるような矮小な行為は、いかなることも、なしてはならない。〔かくしてそのうえで〕
 「あらゆる生きとし生けるものが安楽であるように、平安であるように、心から安楽であるように。
146 いかなる生命も生き物も、動物であろうと植物であろうとあますところなく、細長いものも、あるいは巨大なものも、中くらいのものも、短小なものも、微細なものも、眼に見える大きさのものも、
147 いまここに現在いるものも、あるいはいないものも、遠くに、あるいは近くに住んでいるものも、過去に存在したものも、あるいは未来に存在しようとしているものも、あらゆる生きとし生けるものが、心から安楽であるように。
148 かれらが、いかなる場合にも、いかなる相手に対しても、お互いに、『相手が劣っている』とおとしめたり、『自分がすぐれている』と高慢になったりしないように。かれらがお互いに他者に対して苦悩を与えようと意図して危害を加えたり、憎悪の心をもつことのないように」と思惟しつつ、
149 あたかも母親がわが子のためとあらば命を捨ててでも一人息子を守護するように、そのようにすべての生き物に対して無量無辺にひろがる慈しみの心をもつように修行するがよい。
150 あらゆる世間的存在に対して、無量無辺にひろがる慈しみの心をもつように修行するがよい。- 上方に向かっても、下方に向かっても、四方八方に向かっても、いかなる限界もなく、いかなる障礙もなく、いかなる対立もないように。
151 立ち止まっているときにも、歩いているときにも、坐っているときにも、横になっているときにも、睡眠に落ちているのでない限りは、このように思惟しつつ、いまここの存在をあるがままに自覚するように一つに専注していくがよい。仏教の教えにおいては、それこそがブラフマンの真理を思惟する定であると教えられている。
152 いかなる宗教的ドグマをもつことなく、正しい戒律を守り、さとりの智慧の直感を完成させ、さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。

第3章 大いなる章
第4経 スンダリカ・バーラドヴァ―ジャ より(P.116~119)
461 〔スンダリカ〕「わたくしは祭祀を好み、祭祀を行いたいのですが、ゴータマ君、どうかわたくしに教えて下さい。わからないことがあるのです。だれに供物の残りを捧げれば、よき果報が得られるのですか。これをわたくしに語って下さい」
 〔ブッダ〕「では、バラモンよ、耳を傾けなさい。あなたにものの道理を説いてあげよう。
462 身分を問うな、行為を問え。棒切れから火がおきる。下賤な家柄の出であっても、毅然とした沈黙の聖者は、廉恥を重んじ身を慎む貴種の人にほかならない。
463 誠実さをもって自己を調え、自制力があり、聖典を極め、禁欲修行(梵行)を実践した人、このような人に供物の残りを適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
464 欲望の対象となるものを振り捨て、出家して行脚し、よく自制して梭(ひ)のように真っ直ぐに生きる人、このような人々に供物の残りを適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
465 熱望を離れ、感官をよく統御し、月食をおこす悪魔ラーフから解放された月のように解脱した人、このような人々に供物の残りを適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
466 わがものとして愛着されているものを捨て、世に執着することなく、常に心して諸方を行脚する人、このような人々に供物の残りを適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
467 欲望の対象となるものを捨て、それらを制しつつ過ごし、生死の果てにある生死を越えた境地をさとり、波静かな湖のように、やすらかそのものであり、冷静である人、このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。
468 とこしえに全きものたちと等しく、ゆがんだものどもから離れ、このような境地にありつつ限りなき智慧を備え、しかもこの世にもあの世にも執着しない人、このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。
469 欺瞞や高慢が心に巣くうことなく、貪欲を離れ、我執もなければ欲求もなく、怒りを心から除き、心安らなる人は真のバラモンであり、憂いという心の汚れを捨て去っている。このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。
470 心からその執着心を除き、何ものも所有することなく、この世のものでもあの世のものでも取り込んで執着することのない人、このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。
471 精神を統一し、輪廻の洪水を渡り、さとりの世界である彼岸に至り、真理を最高の観察力でさとり、煩悩や業が心に漏れ込むことなく、もう二度と生まれ変わることのない人、このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。
472 生に望みをかけたり、逆に辛辣な言葉を語ること、この両者とも振りのけ、消滅させ、無からしめて、聖典に通暁し、あらゆる点にわたって解脱した人、このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。
473 執着を乗り越え、執着することなく、慢心をもちつづけている人々の中にあって慢心をもつことなく、苦しみとその基とを見極めることによって、それから自由になった人、このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。
474 欲求に身をゆだねることなく、迷いのこの世とは別な世界をまのあたりにし、他の人々が説くドグマを超越し、なんらすがりつくものを必要としない人、このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。
475 何から何まであらゆる事物の本質を会得したうえで、それらが振り払われ、消滅し、存在しなくなり、したがって当人は寂静そのものとなり、何ものも取り込んで執着することなく、解脱しきった人、このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。
476 人々の未来を束縛するものが消滅し、二度と生まれ変わることがないという境地をまのあたりにし、熱望の巣となるものを余す所なくうち除き、清らかで咎もなく、けがれもなければ汚点もない人、このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。
477 自我にとらわれて自己を見ることなく、精神を統一して、実直で、気丈で、心が動揺することもなければ、頑なになることもなく、惑うことなき人、このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。
478 心に迷妄が忍び込む隙は全くなく、一切のものを知ってまのあたりにし、二度と生まれ変わることなく、吉祥なる無上のさとりに達すること、これこそが、供物を受けるにふさわしい人が備えるべき清らかさである。このような境地に至った人が祭餅を受けるにふさわしい。」

第5経 マーガ より (P.124~128)
489 マーガは尋ねる。「世尊よ、頼まれればいやと言えない性分で、功徳を求め、功徳を見こして、この世の人々に食べ物や飲み物を布施しつつ、祭祀を行う在家の施主であるわたくしに、布施を受けるにふさわしい人々のことを語って下さい」
490〔ブッダ〕「執着することなく世の諸方を行脚し、何ものも所有することなく、自制して、修行の完成した人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
491 一切の束縛を断ち切り、自由自在ではあるが自己を制し、心がかき乱されることなく、欲求もない、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
492 一切の拘束から解き放たれ、自由自在ではあるが自己を制し、心がかき乱されることなく、欲求もない、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
493 熱望や憎悪や迷妄をうち捨て、煩悩や業が心に漏れ込むことなく、禁欲修行を実践した人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
494 欺瞞や高慢が心に巣くうことなく、貪欲を離れ、我執もなければ、欲求もない人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
495 渇望に身をゆだねることなく、輪廻の洪水を渡り、我執なく世を行脚する人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
496 この世であろうと、あの世であろうと、次々と生まれ変わって行く、いかなる世間のいかなるあり方に対しても渇望をさらさらいだかない人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
497欲望の対象となるものを振り捨て、出家して行脚し、よく自制して梭(ひ)のように真っ直ぐに生きる人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
498熱望を離れ、感官をよく統御し、月食をおこす悪魔ラーフから解放された月のように解脱した人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
499 寂静そのものとなり、熱望を離れ、怒ることなく、この世の修行の結果として死後の再生から離脱し、二度と生まれ変わることがない人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
500 余す所なく生死を捨て去り、どうだこうだという惑いの状態を完全に超越してしまった人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
501 自己を拠り所として何ものも所有することなく、あらゆる点で解脱し世の中を行脚する人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
502 自分自身に関して、『この世がわたくしにとって輪廻の終わりに他ならない。もう二度と生まれ変わることはない』と、あるがままに正しく自覚している人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。
503 聖典に通じ、瞑想を好み、何事にもよく気をつけ、かくて完全なさとりに達して多くの人々に帰依される人、このような人々に供物を適切な時に捧げるがよい、功徳を見こして祭祀を行うバラモンならば。」
504 〔マーガ〕「本当にわたくしは質問のしがいがありました。世尊よ、あなたは、布施を受けるにふさわしい人々のことをわたくしに語って下さった。今、ここでおっしゃったことをあなたはあるがままに正しく知っておられます。なぜなら、あなたは以上の道理をわきまえておられるからです」
505 マーガはまた尋ねた。「頼まれればいやと言えない性分で、功徳を求め、功徳を見こして、この世の人々に食べ物や飲み物を布施しつつ、祭祀を行う在家の施主であるわたくしに、完璧な祭祀とはどんなものか教えて下さい、世尊」
506 世尊は答えた。「マーガよ、祭祀を行うときには、あらゆる場合において祭主は心を清らかにしなさい。祭主は祭祀にすがり、祭祀を拠り所として自己の罪悪を払い捨てることができる。
507 このような祭主は、熱望を離れ、憎悪を除去し、限りなき慈しみの心をおこし、日夜、間断なくたゆみない。かくて、この限りなき慈しみの心をあらゆる方向に充満させる」
508 〔マーガ〕「だれが浄化され、だれが解脱し、だれが束縛されるのですか。いかにして人は自ら梵天の世界へ赴くのですか。沈黙の聖者よ、わたくしはわからないのです。どうかわたくしが尋ねることに答えて下さい。世尊よ、わたくしは、今、梵天をまのあたりにすることができました。なぜなら、あなたは、わたくしにとって梵天同様の方だからです。これはまことのまことです。光輝ある方よ、どうすれば梵天の世界に生まれ変わることができるのですか」
509 世尊は答えた。「わたくしに言わせれば、マーガよ、三つの条件*をみたす完璧な祭祀を行う人、このような人は布施を受けるにふさわしい人々を施物で満足させて、その果報をつかむであろう。このように、頼まれればいやとは言えない性分で、正しく祭祀をなせば、梵天の世界に生まれ変わることができる」
註:三つの条件 『注釈書』によると、布施をする前に喜び、布施しつつある時には心を清らかにし、布施をした後には満足する、以上の三条件をいう。(P.319)

第6経 サビヤ より (P.132~137)
513 サビヤ「何に達した人が真の托鉢の修行者と言われるのですか。
514 世尊は答えた。「サビヤよ、みずから托鉢修行の道を歩み、完全な涅槃に達し、疑惑を超越し、生も滅も放下して、修行を実践し終えて自在の境地に達し、二度と生まれ変わることのない人、この人こそが真の托鉢の修行者である。
513 何をもって真にやさしい人と言われるのですか。
515 何があっても平静で、あらゆることに気を配り、世界中の何ものも傷つけず、世俗を超越し、それに汚されることのない沙門であり、心高ぶることのない人、この人こそが真にやさしい人である。
513 どうすれば、真に自制ある人と言われるのですか。
516 もろもろの感官を、内的にも外的にも、世界中の何に対しても正しくはたらかせ、現世も来世も洞察し、修養して死の時を待つ人、この人こそが真に自制ある人である。
513 どのような人が真にさとった人と呼ばれるのですか。世尊よ、わたくしが尋ねたことに答えて下さい」
517 宇宙の生成・消滅の過程や、人々が生まれ変わり死に変わりする輪廻のさまをあまねく知り、心にけがれなく、汚れなく、清浄で、二度と生まれ変わることのない人、この人こそが真にさとった人と言われる」

 サビヤは、世尊の説法に喝采し、随喜し、心奪われんばかりに喜び、上機嫌に満悦して、世尊にまた尋ねた。

518 サビヤ「何に達した人が真のバラモンと言われるのですか。
519 世尊は答えた。「サビヤよ、あらゆる罪を自己から除き、汚れなく、よく精神を統一し、気丈であり、輪廻を越え、修行が完成して、何ものにもとらわれることのない人、そのような人こそが真のバラモンと呼ばれる。
518 何をもって真の沙門と言われるのですか。
520 冷静で、功徳も罪悪もすべて捨て、けがれなく、現世も来世も知り、生死を超越した人、そのような人はこれらのことゆえに真の沙門と呼ばれる。
518 どのような人が真の沐浴者(修行の完成者)と呼ばれるのですか。
521 内的な罪であろうと、外的な罪であろうと、世界中の一切のものに対するあらゆる罪を洗い清め、神々であるとか、人間であるとかいうように、判別できるものどもの中にあって、何ものであるとも規定できない人、その人こそが真の沐浴者と言われる。
518 どのような人が竜や象のような真の偉人と呼ばれるのですか。世尊よ、わたくしが尋ねたことに答えて下さい。」
522 世の中の何ものに対しても決して罪を犯さず、あらゆる世俗的な人間関係や束縛を振り捨て、何ものにも執着せず、解脱している人、そのような人はこれらのことゆえに竜や象のような真の偉人と呼ばれる」

サビヤは、世尊の説法に喝采し、随喜し、心奪われんばかりに喜び、上機嫌に満悦して、世尊にまた尋ねた。

523 サビヤ「さとった人々は、真に地に精通した人とはだれのことだと説くのですか。
524 世尊は答えた。「サビヤよ、一切の地、すなわち神々の地や人間の地や梵天の地に精通し、あらゆる地に潜む根本的な束縛から解脱した人、そのような人はこれらのことゆえに真に地に精通した人と呼ばれる。
523 何をもって真に巧みな人と言われるのですか。
525 人々を閉じ込めるあらゆる覆い、すなわち神々の覆いや人間の覆いや梵天の覆いを取り除き、あらゆる覆いがもつ根本的な束縛から解脱した人、そのような人はこれらのことゆえに真に巧みな人と呼ばれる。
523 どのような人が真の賢者と呼ばれるのですか。
526 二様の白きもの、すなわち内的な白きものと外的な白きものを考察して、清浄な智慧を備え、黒(悪)も白(善)も超越した人、そのような人はこれらのことゆえに真の賢者と呼ばれる。
523 どのような人が真の沈黙の聖者と呼ばれるのですか。世尊よ、わたくしが尋ねたことに答えて下さい」
527 内的であれ、外的であれ、世界中の悪しきものどもの性質も、善きものどもの性質もすべて知り、神々や人間に敬われつつ、執着という網を突き破った人、この人こそが真の沈黙の聖者である」

サビヤは、世尊の説法に喝采し、随喜し、心奪われんばかりに喜び、上機嫌に満悦して、世尊にまた尋ねた。

528 サビヤ「何を得た人が真に聖典に通じた人と言われるのですか。
529 世尊は答えた。「サビヤよ、沙門たちやバラモンたちが伝える聖典をすべて考察し、聖典はことごとく極めつくしており、他方、何を感受しようと、決して熱望をもつことのない人、この人こそが真に聖典に通じた人である。
528 何をもって物事を看破する人と言われるのですか。
530 名称や形態を備え、言葉で表現することができたり、人を迷わしたりするものは、内的なものであれ、外的なものであれ、病の根本であると看破し、あらゆる病がもつ根本的な束縛から解脱した人、そのような人はこれらのことゆえに物事を看破する人と呼ばれる。
528 どのような人が真に勇敢な人と呼ばれるのですか。
531 この世のあらゆる罪を犯さず、したがって、来世において地獄で苦しみを受けることもなく、奮起して努力の生活を送る勇者、そのような人はこれらのことゆえに真に勇敢な人と呼ばれる。
528 高貴な血筋の人とはどんな人ですか。世尊よ、わたくしが尋ねたことに答えて下さい」
532 血統の良い駿馬というものは綱を切ったりはしないものであろうが、人間の場合、執着の根本である束縛を、内的なものであれ、外的なものであれ、すべて断ち切り、あらゆる執着がもつ根本的な束縛から解脱した人、そのような人はこれらのことゆえに高貴な血筋の人と呼ばれる。

 サビヤは、世尊の説法に喝采し、随喜し、心奪われんばかりに喜び、上機嫌に満悦して、世尊にまた尋ねた。

533 サビヤ「何に達した人が真に聖典を学び終えた人と言われるのですか。
534 世尊は答えた。「サビヤよ、世の中のものはすべて、これは過(とが)あるもの、これは過なきものというように学び、知り、そのうえでそれらを自在に支配し、何事に関してもどうだこうだと惑うことなく、解脱して心がかき乱されることのない人、このような人が真に聖典を学び終えた人と言われる。
533 何をもって真の聖者と言われるのですか。
535 心に漏れ込む煩悩や業の流れも執着も断ち切り、来世において母胎に生をうけることなく、泥のような三種の想い*をうち除き、言葉で規定しようのない知者、そのような人が真の聖者と言われる。
註:三種の想い 『注釈書』によると、欲望・害意・傷害心の三つの想いをいう。(P.320)
533 どのような人が真の修行者と呼ばれるのですか。
536 この世における実践項目に関して、到達すべき目標に達し、巧みで、常に道理をわきまえており、何ものにも執着せず、何ものからも解脱し、何ものにも敵対心をもたない人、このような人が真の修行者である。
533 真の行脚の修行者とはどんな人のことですか。世尊よ、わたくしが尋ねたことに答えて下さい」
537 上方であれ、下方であれ、東西南北の方向であれ、中央であれ、報いとして苦しみをもたらす行為ならなんであれ、さらに欺瞞の心や慢心や貪欲の心や怒りの心に至るまでそれらのものからことごとく遠ざかり、それらの本質を知りつくすことにより、それらを捨て去り、名称や形態を備えた存在として生まれ変わることがなく、到達すべき目標に達した人、このような人が真の行脚の修行者である」

第9経 ヴァ-セッタ より (P.161~165)
620 ただ、バラモンの母胎から生まれただけであり、自分の所有物に執着するようなものを、わたくしは真のバラモンと呼ばない。かれは、『きみと呼びかける人』と名づけるべきである。何ものも所有せず、何ものも取り込まない人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
621 あらゆる束縛を断ち切り、何ものに対しても恐れおののくことなく、執着を離れ、とらわれることのない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
622 馬が革紐や革緒や綱を次々と断ち切り、閂を払いぬけるように、もろもろの束縛を断ち切り、さとりに至った人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
623 どなられても、ぶたれても、縛られても、怒らず耐え忍び、強い軍隊のように、忍耐力を備えた人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
624 怒りっぽくはなく、自ら決意した修行を実践し、戒めを守り、心が高ぶったり、かき乱されたりすることなく、自己をよく調え、輪廻から脱し、もはや二度と生まれ変わることのない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
625 蓮の葉に水が付着しないように、錐の先に芥子粒がとどまらないように、人々の欲望の対象となるものに執着しない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
626 他ならぬこの世において、自己の苦しみの消滅を知り、重荷を下ろし、何ものにもとらわれることのない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
627 賢く、深遠な智慧があり、正しい道とそうでない道を弁別することに巧みで、最高の目標に達した人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
628 在家のものであろうと、出家のものであろうと、いずれのものとも交わらず、家の中で眠ることなく、少欲な人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
629 動物であろうと、植物であろうと、いかなる生き物をも傷つけず、自ら殺生することもなければ、他人に命じて殺生させることもない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
630 いがみ合う人々の中にあって、他人といがみ合うことなく、暴力に訴えようとする人々の中にあって、穏やかな態度を保ち、わがものとしてなんでも取り込もうとする人々の中にあって、なんら取り込むことのない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
631 錐の先から芥子粒が落ちるように、熱望や憎悪や慢心や人を汚辱する心が抜け落ちた人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
632 話をするときには、粗野にならず、内容をきちんと伝え、真実を語り、相手の気にさわるようなことは一言も言わない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
633 長かろうが短かろうが、小さかろうが大きかろうが、美しかろうが醜かろうが、世の中のものは、与えられたものでなければ何ものも取り込まない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
634 現世に対しても、来世に対しても、欲望が全然なく、無欲で、何ものにもとらわれることのない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
635 執着がなく、さとりの智慧をもっており、どうだこうだと惑うことなく、不死という安住の地を得た人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
636 いまここで、功徳であろうが、罪であろうが、執着の対象であるいずれをも越え、悲しむこともなければ、愛着などに染まることもなく、全く清浄な人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
637 雲が全くかかっていない月のように、汚れなく、清浄で、澄みわたり、濁りなく、快楽もなく、それによって生まれ変わることのない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
638 進みがたい障害である、この輪廻の洪水を越え、対岸に渡ることによって完成に達し、瞑想に励みつつ、何ものにも心かき乱されることなく、どうだこうだと思い惑うこともなく、わがものとしてなんら取り込むこともなく、穏やかな人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
639 世の欲望の対象となるものを振り捨て、いずこにも定住のすまいをもつことなく行脚の生活を送り、欲望もなく、それによって生まれ変わることもない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
640 世の渇望を振り捨て、いずこにも定住のすまいをもつことなく行脚の生活を送り、渇望もなく、それによって生まれ変わることもない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
641 人間界において人々を縛りつけているものを捨て、天上界にあって人々を縛りつけるものを越え、一切の束縛から解放された人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
642 快も不快も共に捨て、煩悩の火に焼かれることなく、清涼で、所有物に執着せず、世界中のだれよりも勝れた勇者、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
643 生きとし生けるものたちが、執着をもって、生まれ変わり死に変わりするさまをことごとく知り、執着なく、正しく歩んでさとりを得た人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
644 神々も伎楽神(ガンダッパ)も人間もその人の死後の行方を知らず、煩悩や業が心に漏れ込むことなく、尊敬に値する人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
645 過去にも未来にも現在にもなんら所有することなく、無所有で、何ものも取り込まない人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
646 牡牛のようにずば抜けた勇者であり、偉大な聖仙であり、征服者であり、何ものにも心かき乱されることなく、真の沐浴者として修行が完成し、清浄となり、さとりを得た人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。
647 前世の生涯を知り、天界と地獄をまのあたりに見て、二度と生まれ変わらない境地に至った人、この人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。

第11経 ナーラカ より (P.178~182)
699 〔ナーラカがブッダに問う。〕「アシタ仙のあの予言はまことであったとわかりました。そこで、ゴータマ、一切のことがらを極めつくしたあなたにお尋ねしたい。
700 沈黙の聖者よ、出家生活にはいり、托鉢の修行を求めるわたくしに教えて下さい。沈黙の聖者としての最高のあり方をお尋ねします」
701 世尊は答えた。「わたくし自身の考えに従って、あなたに沈黙の聖者としてのあり方を説いてあげよう。ただし、それは、行いがたく、極めがたいものである。さあ、あなたにそれを語ってあげよう。意志を強靭にし、堅固にしなさい。
702 村にあっては、ののしられようと、称えられようと、同じ態度をしなさい。ののしられれば心の怒りを抑え、称えられれば平静に心高ぶらないようにしなさい。
703 森にあっては、炎のように、次々にさまざまのものが現れ出て来る。女たちもこの沈黙の聖者を誘惑する。しかし、かれはこれらに誘惑されてはならない。
704 性的なことを離れ、人々の欲望の対象となるさまざまなものをかなぐり捨て、動物にも植物にも愛着することなく、かといってそれらと争ったり、それらを傷つけたりすることもないようにしなさい。
705 『このものたちはわたくしと同じであり、わたくしもこのものたちと同じである』と、動植物すべてを自分自身だと考えて、それらを殺さず、また殺させないようにしなさい。
706 凡人がとらわれている欲望や貪欲を捨て、眼力すぐれた人となって修行しなさい。この世の地獄を越えなさい。
707 食事は量を限り、腹八分目にして、少欲で、がつがつしないようにしなさい。まさしく、このような生活を送れば、欲望のままになることなく、無欲で安らかとなる。
708 このような沈黙の聖者は、托鉢をし終われば、森に行きなさい。そして、木の根元に近づいて、座につきなさい。
709 かれは、叡知をもって瞑想に専念し、森の中での生活を楽しみとしなさい。自ら大いに喜びつつ、木の根元で瞑想しなさい。
710 そして、夜が明けると、村に行きなさい。しかし、そこで食事に招待されても、また、村から食べ物をもらってきても、それを喜んではいけない。
711 沈黙の聖者は、村に着いても家々で強引に托鉢を行ってはいけない。話をせず、食べ物を求めていることを示すような言葉をかけてもいけない。
712 托鉢の際には、『食べ物が手にはいってよかった』、『食べ物が手にはいらなかったがそれもよし』と、いずれの場合でも心は平静で、森の木のもとに戻って行く。
713 かれは、鉢を手にし、口が利けないわけではないがそう皆に思われるように諸方を行脚し、たとえ施しがわずかであっても、取るに足らないものと思ってはいけないし、施す人を見下してもいけない。
714 実にさまざまの修行の道を沙門は説き明かした。その道を通って修行すれば彼岸というさとりの世界に到達する。一度そこに達すれば、もう舞い戻ることはなく、再度、さとりを得るべく修行をする破目に陥ることはない。ただし、彼岸に至るまでは修行を何度も重ねねばならない。
715 欲望のままに心は流れるものだが、その流れを断ち切った托鉢の修行者には、渇望が心に蔓延することはない。もろもろの俗事を離れた人には苦悩はない」
716 世尊はさらに語る。「あなたに沈黙の聖者としてのあり方を説こう。外界のものはかみそりの刃の上の蜜のようなものだと思って過ごしなさい。舌を上あごに押し当てて、食事は腹八分目にしなさい。
717 何ものにも心が拘泥することなく、はたまた、あまたのことに心をめぐらすこともないようにしなさい。生ぐさを離れ、何ものにも頓着せず、禁欲修行に邁進しなさい。
718 ただひとりで座禅することや、立派な修行者に師事することにつとめなさい。沈黙の聖者のあり方とは、世間を離れてひとりでいることだと説かれている。
 もし、あなたがひとりで修行することに楽しみを見出すならば、
719 あなたの名声は、あらゆる方向に輝きわたるであろう。瞑想に励み、人々の欲望の対象となるものも捨てきった賢者たちの名声を耳にしたならば、いっそう廉恥の心と自己の修行に対する確信とを強くいだきなさい、わたくしの弟子となるものならば。
720 以上のことは、深い渓谷を流れる谷川を思い浮かべて理解しなさい。渓流は音をたてて流れるが、大河は静かに流れる。
721 足りないものは音を立てる。満ちたりたものは静寂そのものである。愚か者は水が半分はいった瓶のようなものであり、賢者は水を満々とたたえた湖のようなものだ。
722 沙門はあまたのことを語るが、それは意義のある有益なことばかりである。かれは、それが理にかなっていると思えば教えを説き、そうすることが有益だと思えばあまたのことを語る。
723 しかし、そうすべきでないと思えば身を控え、それが無益だと思えば黙して語らない。このような沈黙の聖者こそ真の沈黙の聖者としてふさわしい。このような沈黙の聖者こそ真の沈黙の聖者となった人である」

第12経 二様の考察(P.182~202)
 つぎのようにわたくしは聞いた。
 あるとき、世尊は、サーヴァッティ―の東園にある僧院におられた。その僧院は、ミガーラ長者から母として敬われているヴィサーカー(本当はミガーラ長者の息子の妻)の建てたものだった。
 さて、ウポーサタ(懺悔と禁欲のための聖日)の日である十五夜の満月にあたって、世尊は集まっている比丘たちに囲まれて、屋外に座っておられた。押し黙っている比丘たちを一人一人見回してから、世尊はこう語りかけた。

「比丘たちよ、迷いの世からの出離に導き、完全なさとりに通じ、聖者の知る、善なる種々の真理、およそこれらの真理はなんのために聞いて学ぶのか、と問う者たちがいたならば、つぎのように答えるがよい。『二様の真理をあるがままに正しく理解するためです』と。
 さらに、何を二様の真理と呼ぶのかと言えば、『これが苦しみであり、これが苦しみの生起である』というのが第一の考察である。他方、『これが苦しみの停止であり、これが苦しみの停止に至る道である』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの迷いの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

724「苦しみとはなんであるかを知らず、苦しみの生起も知らず、苦しみがすべてにわたって余す所なく停止する境地も知らず、苦しみを静めるかの道も知らない人々、
725 かれらは、心が解脱することなく、智慧によって解脱することもなく、苦しみに終止符を打つこともできず、生まれ変わっては老いねばならない。
726 苦しみとはなんであるかを知り、苦しみの生起を知り、苦しみがすべてにわたって余す所なく停止する境地を知り、苦しみを静めるかの道も知っている人々、
727 かれらは、心が完全に解脱し、智慧によって完全に解脱して、苦しみに終止符を打ち、二度と生まれ変わって老いることはない」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、人々が執着している所有物が機縁となっている』というのが第一の考察である。他方、『人々が執着している所有物から心が離れることにより、それを余す所なく停止させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。
比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

728 「世の中には実に種々のあり方をした苦しみが存在するが、それらはすべて、人々が執着する所有物を根拠として生じてくる。それにもかかわらず、無知なものはなんらかのものを所有し、愚かにも、繰り返し繰り返し、苦しみを味わうこととなる。それゆえに、以上のことを知り、苦しみが生じる原因を考察しつつ、何ものも所有しないようにしなさい」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、無知(無明)が機縁となっている』というのが第一の考察である。他方、『無知から心が離れることにより、それを余す所なく停止させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

729 「人々がこの世からあの世へと、繰り返し繰り返し、生まれ変わり死に変わりして輪廻して行くのは、ほかならぬ無知の結果である。
730 なぜなら、この無知とは、迷妄の大洪水であり、このためにこの世の人々は永劫の過去以来、輪廻・流転し続けてきたのである。しかし、明知を備えたならば、人々は二度と生まれ変わることがない」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、形成作用(行)が機縁となっている』というのが第一の考察である。他方、『形成作用から心が離れることにより、それを余す所なく停止させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

731 「どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、形成作用が機縁となっている。形成作用が停止すれば、苦しみは生じない。
732 形成作用が機縁となって苦しみが生じるというこのことを災いだと知り、ついで、一切の形成作用がおさまることにより、心中のあれこれの想いも停止し、こうして苦しみが消滅する、という道理をも正しく知り、
733 正しく物事を見、正しく物事を知り、聖典に通暁し賢者である人は、悪魔によって拘束されることなどなく、二度と生まれ変わることはない」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、認識作用(識)が機縁となっている』というのが第一の考察である。他方、『認識作用から心が離れることにより、それを余す所なく停止させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

734 「どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、認識作用が機縁となっている。認識作用が停止すれば、苦しみは生じない。
735 認識作用が機縁となって苦しみが生じるというこのことを患いだと知り、認識作用をおさめることによって、比丘は、欲望なく、完全な安らぎにはいっている」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、何かを体験すること(触)が機縁となっている』というのが第一の考察である。他方、『体験することから心が離れることにより、それを余す所なく停止させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

736 「日々の体験に翻弄され、人生の激流に押し流されて、苦境に陥っている人々には、束縛を消滅させることなどとうてい及びもつかない。
737 日々の体験がいかなる結果をもたらすかを見極めることにより、それから離れ、さとりの智慧をもって、平穏さを楽しみとする人々は、まさしく体験の本質を見抜いているから、欲望なく、完全な安らぎにはいっている」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、感受すること(受)が機縁となっている』というのが第一の考察である。他方、『感受することから心が離れることにより、それを余す所なく停止させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。
738 「楽であろうと、苦であろうと、楽でもなく苦でもないものであろうと、内面的なものであろうと、外面的なものであろうと、感受されるものはなんであれ、すべて、
739 消滅し、虚ろなものとなるものであり、したがって、苦しみ以外の何ものでもないと知り、何かを体験するたびに、それは消滅するものだと見極め、こうしてそれから心が離れる。かくて、感受を消滅させることによって、比丘は、欲望なく、完全な安らぎにはいっている」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、渇望(愛)が機縁となっている』というのが第一の考察である。他方、『渇望から心が離れることにより、それを余す所なく停止させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

740 「渇望を愛妻のように常に抱いている人は、永劫の間、流転し、この世からあの世へと生まれ変わり死に変わりして行く輪廻の流れを越えることができない。
741 渇望から苦しみが生じるというこのことを患いだと知り、渇望を離れ、何ものも取り込まず、比丘は心して行脚するがよい」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、取り込んだり、執着したりすること(取)が機縁となっている』というのが第一の考察である。他方、『取り込んだり、執着したりすることから心が離れることにより、それを余す所なく停止させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

742 「取り込んだり、執着したりすることが機縁となって生まれ変わる。生まれ変われば苦しみを味わう。生まれたものには必ず死がある、これが苦しみの生起である。
743 だから、賢者は、正しく物事を知り、取り込んだり、執着したりすることがなければ、生まれ変わることもないと自ら知り、事実、二度と生まれ変わって来ることはない」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、悪行が機縁となっている』というのが第一の考察である。他方、『悪行から心が離れることにより、それを余す所なく停止させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

744 「どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、悪行が機縁となっている。悪行を停止させれば、苦しみは生じない。
745 悪行が機縁となって苦しみが生じるというこのことを患いだと知り、一切の悪行を一つ一つ捨てて行き、悪行を離れた境地へと解脱し、
746 生まれ変わろうとする渇望を断ち切り、心静かな比丘は、生まれ変わり死に変わりして行く輪廻の流れを渡り、二度と生まれ変わることはない」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、糧を摂取することが機縁となっている』というのが第一の考察である。他方、『糧を摂取することから心が離れることにより、それを余す所なく停止させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

747 「どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、糧を摂取することが機縁となっている。糧の摂取を停止させれば、苦しみは生じない。
748 糧の摂取が機縁となって苦しみが生じるというこのことを患いだと知り、糧の摂取がすべていかなる結果をもたらすかを見極めて、それを絶ち、糧の摂取には一切頓着せず、
749 身体や心に糧などが全く流れ込まなくなれば、身心の病は消えるということを正しく知り、物事もあまねく吟味してから受容し、道理に立脚している聖典の通暁者は、死後、生まれ変わって人間や神々などと呼ばれることはない」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、心の動揺が機縁となっている』というのが第一の考察である。他方、『心の動揺を離れることにより、それを余す所なく停止させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

750 「どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、心の動揺が機縁となっている。心の動揺を停止させれば、苦しみは生じない。
751 心の動揺が機縁となって苦しみが生じるというこのことを患いだと知り、それゆえに心から動揺を追い払い、形成作用を停止させ、動揺なく、何ものも取り込むことなく、心して比丘は行脚するがよい」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、『何ものかに頼っている人は心が動揺する』というのが第一の考察である。他方、『何ものをも頼みとしない人は動揺しない』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

752 「何ものをも頼みとしない人は動じることがない。しかし、何ものかに頼り、それに執着する人は、この世からあの世へと生まれ変わり死に変わりして行く輪廻の流れを越えることができない。
753 何ものかを頼みとすることの中に大きな危険が潜んでいるというこの事実を患いだと知り、何ものをも頼みとせず、何ものにも執着することなく、心して比丘は行脚するがよい」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、比丘たちよ、『形あるものの世界より形なきものの世界のほうが安らかである』というのが第一の考察である。他方、『形なきものの世界より一切のものが停止した世界のほうが安らかである』というのが第二の考察である。比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、たゆみなく、熱心に、自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのように説明した。

754 「形ある世界に係(かかずら)っているものたちや、形なき世界に安住しているものたちは、一切が停止した世界を知らずに、何度も何度も生まれ変わる。
755 しかし、形あるものの本性を見極めることにより、それから離れ、形なき世界にも安住せず、一切が停止した世界へと解脱した人々は死から離脱している」

「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか、と問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、比丘たちよ、神々や悪魔や梵天を含めたこの世のものすべて、さらに沙門やバラモンや神々や人間を含めた生きとし生けるものたちすべてが、『これこそが真実である』と見なしているものを、聖者たちは、『これは虚妄で
  • | 2018-05-19 | 匿名希望 URL [ 編集 ]

Re: スッタニパータより引用

> スッタニパータの中でも第4章、5章は確かに最も古いといわれてます。この第3章の「ニ様の考察」も大変参考になると思われますので、岩波文庫の中村元訳ではなく、講談社学術文庫の荒牧典俊・本庄良文・榎本文雄訳で引用させて頂きました。この⑬の「何ものかに頼っている人は心が動揺する」はグルイズムの完全否定ともとれなくはありません。四聖諦と十二縁起が何ら変わりないことも歴然としていると思います。

経典の引用ありがとうございます。

グルイズムについてはそうだと思います。
後の密教の手法として、「グルは絶対」という観念を利用し、究極的に自我崩壊を促すのかなと想像はしますが…。
  • | 2018-05-19 | 元TD URL [ 編集 ]

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二の矢の譬えとボタンの掛け違い⓵

この記事でアップされている中島氏の主張と元ティローパ正悟師の論調との相違点は、実に興味深く、真理の本質を突いているように思われます。そこで、なぜそういえるのかを、仏典を引用しながら3回に分けて説明させてください。

結論から申しますと、「苦の感受」というものは、仏陀釈迦牟尼といえども、生身の身体をもっている限りは存在する、ということは正しいかもしれません。しかし、中島氏は、
その「苦の感受」=煩悩 であると勝手な思い込みをされているのではないか、と推定されます。このことからボタンの掛け違いが生じているのではないでしょうか。
一方、元ティローパ正悟師は、たとえ「苦の感受」というものが身体的にあろうとも、煩悩という心の働きが消滅する境地がきっとあるはず、という修行者ならではの前提からその証拠を最古層の原始仏典から丹念にピックアップされておられるようです。

まず、最低限おさえておくべき基礎知識が必要です。十二縁起の伝統的解釈では、「感受」の前に「接触」(六処と六境と六識の和合と説明 ⇒ 具体的な体験)が生じるとされています。私たちのこの時の六識は、既に識と名色の相互依存関係ができた状態となっているがゆえに、またあらたな欲望と憂い(欲求の対象が得られない場合の不安、恐怖や、欲求しない対象への怒りなど)という煩悩が生起するのです。ですから「この欲貪と憂い」を四念処の前段階として捨てなさい、捨てなさいと繰り返し仏典では説かれています。「接触」の度に、以前の煩悩性の六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の影響を全く受けることなく、単純に六処(眼・耳・鼻・舌・身・意、という感覚器官)と六境(色・声・香・味・触・法という、それぞれ六処の対象物)が和合して、3種類の感受が生じ、その体験が過去や未来に影響を生じさせない(つまり識と名色の相互依存が消滅している)心の境地が存在するのだ! ということを実際に間近でその体験をご本人からお聞きする、というおそろしくラッキーな体験談がこのブログにも過去にありました(⇒60.言ってみればそれだけのこと2015.6.6)

前ふりはこのくらいにして、最初に『「苦の感受」というものは、仏陀釈迦牟尼といえども、生身の身体をもっている限りは存在する』ことに関する仏典を以下に引用します。
中部140経 「界分別経(要素の解説)」から一部抜粋、和井恵さんのブログ(2011.1.20~3.4)より引用

中部140経 「界分別経(要素の解説)」Dhatu-vibhanga Sutta (MN 140)

{浄信を得て出家したばかりで、まだ釈尊と面識のないプックサーティという修行者が、偶然、釈尊と一夜の宿が一緒となります。それで、その法をお説きになられたのが、釈尊ご自身ということを知らずに、法を聴くという場面から始まります。}

比丘よ、人間というものは、
六つの元素(六界)から成り、
六つの接触の場(六触処)を持ち、
十八の意の考察(十八意行)を持ち、
四つのよりどころ(四住処)を持つ。

その〔四つのよりどころ〕に安住すれば、妄想(歓喜の想い)が起こらない。
妄想が起こらないとき、聖者は寂静と言われる。
それゆえ人は、智慧を怠惰にするべきではない。
真理を護持すべきである。
捨断を修習すべきである。
まさに、寂静を修学すべきである。

これが、『要素の解説(界分別)』の概略である。

さて、比丘よ、『人間というものは、六つの元素(六界)から成る』と言ったが、それは何か。
地の元素、水の元素、火の元素、風の元素、虚空の元素、識の元素である。
(中略)

では比丘よ、虚空の元素とは何か。
虚空の元素は、内部にあるものと外部にあるものとがある。
比丘よ、内部の虚空の元素とは何か。
それは、各自の内にすでに取り入れられている耳孔、鼻腔、口腔であり、人が食べたり、飲んだり、噛んだり、味わったりした物を正しく飲み下させるもの(食道)、人が食べたり、飲んだり、噛んだり、味わったりした物を留めるところ(胃)、人が食べたり、飲んだり、噛んだり、味わったりした物を下方に出させるもの(肛門)である。
また、これ以外でも、各自の内にすでに取り入れられている虚空は何でも、内部の虚空の元素と言われる。
そして、内部であれ外部であれ、それらの元素であるものを、
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の自我ではない』と、
正しい智慧によってあるがままに見て、人はその元素を厭い、その元素への執着から心が離れる。

そのとき、残っているのは意識という元素である。
それは清らかで完全に浄化されている。
その意識によって、人は何を知るのかというと、
『楽である』とか、『苦である』とか、『苦でも楽でもない』と識別するのである。

比丘よ、楽という感じをもたらす接触によって、楽の感受が生じる。
楽の感受を受けると、彼は『私は楽の感受を受けている』と了知する。
そして、まさにその楽という感じをもたらす接触が無くなることから、
『その接触に応じて感じた楽の感受は、消滅し、静まる。
何故ならそれは、楽という感じをもたらす接触によって生じたからである』と了知する。

また比丘よ、苦という感じをもたらす接触によって、苦の感受が生じる。
苦の感受を受けると、彼は『私は苦の感受を受けている』と了知する。
そして、まさにその苦という感じをもたらす接触が無くなることから、
『その接触に応じて感じた苦の感受は、消滅し、静まる。
何故ならそれは、苦という感じをもたらす接触によって生じたからである』と了知する。

また比丘よ、苦でも楽でもないという感じをもたらす接触によって、苦でも楽でもない
感受が生じる。苦でも楽でもない感受を受けると、彼は『私は苦でも楽でもない感受を受けている』と了知する。
そして、まさにその苦でも楽でもない感じをもたらす接触が無くなることから、
『その接触に応じて感じた苦でも楽でもない感受は、消滅し、静まる。
何故ならそれは、苦でも楽でもないという感じをもたらす接触によって生じたからである』と了知する。

比丘よ、例えば、二つの木切れが接触したり擦れ合ったりすることにより、熱が生まれ、光が発生する。
そして、同じその二つの木切れを分離したり捨てたりすることから、接触したり擦れ合ったりすることに応じて生じる熱が、消滅し、静まる。

さらに、残っているのは、心の平静さ(捨心)である。
それは、清らかで完全に浄化され、柔軟で、適応性があり、まばゆく輝くものである。
例えば比丘よ、
熟練した金細工師あるいは金細工師の弟子が、溶炉を準備し、溶炉を準備した後で、
坩堝(るつぼ)に点火し、坩堝に点火した後で、火箸で金をつかんで、坩堝に入れるとしよう。
彼はときどき、それに風を吹き送ったり、水を振りかけたり、それを観察したりするだろう。その金は、よく吹かれ、十分に吹き溶かされて、浄らかな、汚れのない、
不純物の取り除かれた、柔軟で、細工しやすい、まばゆく輝く金となる。
人が欲しいと思う様々な装飾品、例えば、腕輪や、イヤリング、ネックレス、金の花輪など、そのどれを作ろうとしても、よく目的に適う。
ちょうどそのように、比丘よ、残っている心の平静さは、
清らかで完全に浄化され、柔軟で、適応性があり、まばゆく輝くものである。

そして、彼はこのように了知する。

『もし、私が、そのように清らかで完全に浄化されたこの心の平静さを、
空間の無限性を観ずる境地(空無辺処)に集中させ、それにしたがって心を修するならば、
その境地を拠り処とし、それをしっかり捉えて、この心の平静さが、非常に長い時間、私に留まるだろう。

もし、私が、そのように清らかで完全に浄化されたこの心の平静さを、
意識の無限性を観ずる境地(識無辺処)に集中させ、それにしたがって心を修するならば、
その境地を拠り処とし、それをしっかり捉えて、この心の平静さが、非常に長い時間、私に留まるだろう。

もし、私が、そのように清らかで完全に浄化されたこの心の平静さを、
何ものも存在しないという境地(無所有処)に集中させ、それにしたがって心を修するならば、
その境地を拠り処とし、それをしっかり捉えて、この心の平静さが、非常に長い時間、私に留まるだろう。

もし、私が、そのように清らかで完全に浄化されたこの心の平静さを、
想いがあるのでもない、ないのでもない境地(非想非非想処)に集中させ、それにしたがって心を修するならば、
その境地を拠り処とし、それをしっかり捉えて、この心の平静さが、非常に長い時間、私に留まるだろう。』と。

さらに、彼はこのように了知する。

『もし、私が、そのように清らかで完全に浄化されたこの心の平静さを、
空間の無限性を観ずる境地(空無辺処)に集中させ、それにしたがって心を修するならば、
これは作られたもの(有為)である(と了知する)。

もし、私が、そのように清らかで完全に浄化されたこの心の平静さを、
意識の無限性を観ずる境地(識無辺処)に集中させ、それにしたがって心を修するならば、
これは作られたもの(有為)である(と了知する)。

もし、私が、そのように清らかで完全に浄化されたこの心の平静さを、
何ものもないという境地(無所有処)に集中させ、それにしたがって心を修するならば、
これは作られたもの(有為)である(と了知する)。

もし、私が、そのように清らかで完全に浄化されたこの心の平静さを、
想いがあるのでもない、ないのでもないという境地(非想非非想処)に集中させ、それにしたがって心を修するならば、
これは作られたもの(有為)である。』と了知するのである。

そして、彼は
生存すること(有)も、生存を離れること(非有)も構想せず思念しない。
彼は、生存することも、生存を離れることも構想せず思念しないので、世間において何ものにも執着しない。
執着しないので恐れない。
恐れないので自(みずか)らまさに完全な安らぎに入る。
すなわち、『出生は尽きた。清らかな修行(梵行)は完成された。為すべきことは為し終えた。さらに、この世(輪廻の状態)に至ることは無い』と了知する。

そして、彼は、
もし楽の感受を受けたならば、
『それは無常である、それは執着すべきものではない、それは歓喜すべきものではない』と了知する。
もし苦の感受を受けたならば、
『それは無常である、それは執着すべきものではない、それは歓喜すべきものではない』と了知する。
もし苦でも楽でもない感受を受けたならば、
『それは無常である、それは執着すべきものではない、それは歓喜すべきものではない』と了知する。

そして、彼は、
もし楽の感受を受ければ、束縛を離れて、その感受を受ける。
もし苦の感受を受ければ、束縛を離れて、その感受を受ける。
もし苦でも楽でもない感受を受ければ、束縛を離れて、その感受を受ける。

そして、彼は、
身体がある間だけの感受を受けると、『私は、身体がある間だけの感受を受けている』と了知する。
生命がある間だけの感受を受けると、『私は、生命がある間だけの感受を受けている』と了知する。

そして、『身体が破壊し生命が尽きたあと、私が受けた一切の感受は、
その時、歓喜されず、冷たくなるだろう』と了知する。

比丘よ、例えば、油と灯芯とによって灯火は燃える。
その油と灯芯とが尽き、他からの供給がないことから、燃料が無くなって、灯火は消える。
比丘よ、それと同じで、
身体がある間だけの感受を受けると、『私は、身体がある間だけの感受を受けている』と了知する。
生命がある間だけの感受を受けると、『私は、生命がある間だけの感受を受けている』と了知する。
そして、『身体が破壊し生命が尽きたあと、私が受けた一切の感受は、
その時、歓喜されず、冷たくなるだろう』と了知する。

それゆえに、そのように体得した比丘は、この最上の『智慧というよりどころ』を身に付けた者となる。
というのは、比丘よ、最上の聖なる智慧とは、すなわち、一切の苦を滅尽する智慧だからである。

彼のこの解脱は、真実の上に立脚し、不動である。
というのは、比丘よ、虚妄なるものは虚偽であり、虚妄ならざるものニルヴァーナは、真実だからである。

それゆえに、そのように体得した比丘は、この最上の『真実というよりどころ』を身に付けた者となる。
というのは、比丘よ、最上の聖なる真実とは、すなわち、虚妄ならざるものニルヴァーナだからである。

ところで、彼は、かつて愚かだったころ、諸々の生存の素因を得て、それらをしっかり持っていた。
しかし今では、それらを捨断し、あたかも根を切られ幹を失ったターラ樹のように、
存在しないもの、未来に生じないものにしてしまった。

それゆえに、そのように体得した比丘は、この最上の『捨断というよりどころ』を身に付けた者となる。
というのは、比丘よ、最上の聖なる捨断とは、すなわち、あらゆる生存の拠り処を捨断することだからである。

また、彼は、かつて愚かだったころ、貪り(貪)を持っていた。それは激しく求める欲望である。
しかし今では、それらを捨断し、あたかも根を切られ幹を失ったターラ樹のように、
存在しないもの、未来に生じないものとしてしまった。

そして、彼は、かつて愚かだったころ、怒り(瞋)を抱いていた。それは人を害する心や悪意を持つことである。
しかし今では、それらを捨断し、あたかも根を切られ幹を失ったターラ樹のように、
存在しないもの、未来に生じないものとしてしまった。

そして、彼は、かつて愚かだったころ、無知(癡)であった。それは物事の道理が解らず間違いを犯すことである。
しかし今では、それらを捨断し、あたかも根を切られ幹を失ったターラ樹のように、
存在しないもの、未来に生じないものとしてしまった。

それゆえに、そのように体得した比丘は、この最上の『寂静というよりどころ』を身に付けた者となる。
というのは、比丘よ、最上の聖なる寂静とは、すなわち、貪り・怒り・愚かさが寂静となることだからである。

以上のことから、『人は、智慧を怠惰にするべきでない。真理を護持すべきである。捨断を修習すべきである。まさに寂静を修学すべきである』と言ったのである。
(後略)
  • | 2018-05-29 | 匿名希望 URL [ 編集 ]

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二の矢の譬えとボタンの掛け違い⓶

前回⓵では、中部140経の引用中に、捨心(心の平静さ)の境地から4無色定についても言及されていました。粗雑次元の5大エレメントを認識すらできない状態では、この経典にでてくる「苦」「楽」「不苦不楽」の認識は不可能である、といえるでしょう。また、ここでも注意が必要なことがあります。苦・楽、不苦不楽の感受について、和井恵さんは、そのブログで独特の解釈をされています。
不苦不楽とは、修行者の最初の成就で得られる境地であり、しばしば解脱と勘違いされやすい、とのことです。しかも、大乗仏教でいわれる空の境地、まさに非想非非想処(非苦非非苦)といわれるもの、これがそれに当たり、無明と関連し、この不苦不楽が修行者にとっての最大・最強の執着となる、と解説されていました。不苦不楽の境地まで達した修行者はご参考下さい。

では、いよいよ釈尊の二の矢の譬えを引用します。苦の感受が、身と心と別々であることが、明確に説明されています。やはり、和井恵さん(元ナーギタ正師)のブログ(釈尊はなにを教えたのか? 長部経典1「梵網経(聖なる網の教え)」その15 2011.⒒10より)からの引用です。

比丘たちよ、まだ私の教えを聞かない凡夫は、
  苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声を上げて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。
  けだし、彼は 二重の受を感ずるのである。
  すなわち、身における受と、心における受とである。
  比丘たちよ、それは、喩えば、第一の箭(や)をもって人を射て、
  さらに、また、第二の箭をもってその人を射るようなものである。
  比丘たちよ、そのようにすると、その人は、二つの箭の受を感ずるであろう。
  それと同じように、比丘たちよ、まだ私の教えを聞かない凡夫は、
  苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声を上げて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。
  けだし、彼は 二重の受を感ずるのである。
  すなわち、身における受と、心における受とである。
  すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。
  苦なる受に対して瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の随眠(煩悩の種子)が彼を捉える。
  また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。 何故であろうか?
  比丘たちよ、愚かなる凡夫は、欲楽を求める以外には、
  苦なる受から逃れる方法(すべ)を知らないからなのだ。
  そして、欲楽を、喜び願い求めると、眠れる欲貪の随眠が彼を捉える。
  彼はまた、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、
  あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、本当に知ってはいない。
  それらを よく知っていない ことから、苦でもなく楽でもない受を感ずると、
  眠れる無智の随眠が彼を捉えることとなる。
  つまり彼は、もし楽受を感ずれば、それに繋縛(けいばく)させられ、
  もし苦受を感ずれば、それに繋縛させられ、
  またもし非苦非楽なる受を感ずれば、それに繋縛させられる。
  比丘たちよ、このような愚かな凡夫は、
  〈 生により、死により、憂いにより、悲しみにより、
  苦しみにより、嘆きにより、絶望により繋縛させられている。
  つまりそれらは、苦によって繋縛させられている 〉 と私は言う。
  しかるに、比丘たちよ、すでに私の教えを聞いた聖なる弟子は、
  苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、声を上げて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。
  けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。
  すなわち、身における受であって、心における受ではないのである。
  比丘たちよ、それは、喩えば、第一の箭(や)をもって射られたが、
  第二の箭は受けなかったようなものである。
  比丘たちよ、そのようだとすると、その人は、ただ一つの箭の受を感ずるのみであろう。
  それと同じように、比丘たちよ、すでに私の教えを聞いた聖なる弟子は、
  苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、声を上げて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。
  けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。
  すなわち、身における受であって、心における受ではないのである。
  だから、彼は、苦なる受に触れられても、そこで瞋恚(いかり)を感じない。
  苦なる受に触れられても瞋恚を感じないから、眠れる瞋恚の随眠(煩悩の種子)が彼を捉えない。
  また、彼は、苦なる受に触れられても欲楽を求めない。 何故であろうか?
  比丘たちよ、私の教えを聞いた聖なる弟子は、欲楽以外に、苦なる受から逃れる方途を知っているからなのだ。
  そして、欲楽を願わないから、眠れる欲貪の随眠が彼を捉えないのである。

  また、彼は、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、
  あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、よくよく知っている。
  それらのことを よく知っている から、苦でもなく楽でもない受を感ずることから、
  眠れる無智の随眠が彼を捉えるようなことはない。
  つまり彼は、もし楽受を感じても、それに繋縛(けいばく)されることなく、
  もし苦受を感じても、それに繋縛されることなく、またもし非苦非楽なる受を感じても、
  それに繋縛されることなくしてそれを感ずるのである。
  比丘たちよ、このような私の教えを聞いた聖なる弟子は、
  〈 生によっても、死によっても、憂いによっても、悲しみによっても、苦しみによっても、
  嘆きによっても、また絶望によっても繋縛されないのである。
  つまりそれらは、苦によって繋縛されない 〉 と私は言う。
  比丘たちよ、私の教えを聞いた聖なる弟子と、まだ私の教えを聞かない凡夫とは、
  これを特異点となし、これを特質となし、また、これを相違となすのである。

(相応部 受相応 36.6箭 より)

以上のように、釈尊とその弟子たちは、苦受に対する反応がまるで違うので、第1の矢と第2の矢をほぼ同時に体験する普通の人と同じように推測しては、いけないということでしょう。したがって、中島氏が推定されていると思われる「肉体がある限りブッダにも苦の感覚(苦受)がある」=煩悩がある、とはいえないことがはっきりしているといえるのではないでしょうか。中島氏が混同するのも無理もない話しだとは思いますし、このご指摘にはこのコメントを詳述するきっかけとなりましたので、大変感謝しています。
そして、さらに第1の矢といえども、修行が進むと文字どおり瞬間的に消滅する、ということが説明されていると思われる経典もあります。次に引用するのは、原始仏典@和井恵流からです。

1  このように私は聞いた──
 あるとき、世尊は、ガジャンガラーに近いスヴェール林に住んでおられた。
 ときに、パーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ青年バラモンは、世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、世尊と喜びの挨拶を交わし、喜ばしい印象に残る話をとり交わしたあと、一方に坐った。一方に坐ったパーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ青年バラモンに、世尊はこのように言われた。
 「ウッタラよ、パーラーシヴィヤ・バラモンは弟子たちに感官の修習を説いていますか」と。
 「ゴータマ尊よ、ここに、『眼によって色を見ない。耳によって声を聞かない』と、このように、ゴータマ尊よ、パーラーシヴィヤ・バラモンは弟子たちに感官の修習を説いております」
 「ウッタラよ、そうであるとして、パーラーシヴィヤ・バラモンの言葉に従うならば、眼の見えない者が感官の修習者になります。耳の聞こえない者が感官の修習者になります。なぜならば、ウッタラよ、眼の見えない者は目によって色を見ることがなく、耳の聞こえない者は耳によって声を聞くことがないからです」と。
 このように言われると、パーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ青年バラモンは沈黙し、赤面し、肩を落とし、顔を下げ、消沈し、答える術もなく坐っているだけであった。
 そこで世尊は、パーラーシヴィヤの内弟子であるウッタラ青年バラモンが沈黙し、赤面し、肩を落とし、顔を下げ、消沈し、答える術もなくなっているのを知られ、尊者アーナンダに話しかけられた。
 「アーナンダよ、パーラーシヴィヤ・バラモンは確かにある方法をもって弟子たちに感官の修習を説いています。しかし、アーナンダよ、〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 とはおよそ異なっています」と。
 「世尊よ、まさにその時です。善逝よ、まさにその時です。世尊は 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 をお説きくださいますように。世尊からお聞きし、比丘どもは憶持するでありましょう」
 「それでは、アーナンダよ、聞いて、よく考えなさい。話しましょう」
 「かしこまりました、尊師よ」と、尊者アーナンダは世尊に答えた。
 世尊はつぎのように言われた。

 聖者の律における無上の感官の修習

2  「それでは、アーナンダよ、どのようにして 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 になるのか。
 ここに、アーナンダよ、眼によって色を見て、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 たとえば、アーナンダよ、眼をそなえている人は、眼を開けたり眼を閉じたり、眼を開けたり閉じたりすることができます。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 アーナンダよ、これが眼によって識られるもろもろの色に対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。

3  つぎにまた、アーナンダよ、耳によって声を聞き、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 たとえば、アーナンダよ、力をそなえている人は、容易に弾指することができます。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 アーナンダよ、これが耳によって識られるもろもろの声に対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。

4  つぎにまた、アーナンダよ、鼻によって香を嗅ぎ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 たとえば、アーナンダよ、轅(ながえ)のように傾斜している蓮葉に落ちた水滴は動き、止まりません。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 アーナンダよ、これが鼻によって識られるもろもろの香に対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。

5  つぎにまた、アーナンダよ、舌によって味を味わい、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 たとえば、アーナンダよ、力をそなえている人は、舌先に唾団を集め、容易に吐き出すことができます。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 アーナンダよ、これが舌によって識られるもろもろの味に対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。

6  つぎにまた、アーナンダよ、身よって触れられるものに触れ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 たとえば、アーナンダよ、力をそなえている人は、曲げた腕を伸ばしたり、伸ばした腕を曲げたりすることができます。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 アーナンダよ、これが身によって識られるもろもろの触れられるものに対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。

7  つぎにまた、アーナンダよ、意よって法を識り、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれはこのように知ります。『私には、この喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが生じている。しかもそれは作られたもの、粗いもの、縁って生じているものである。この平静、これこそ寂静であり、これこそ勝れたものである』と。かれには、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 たとえば、アーナンダよ、力をそなえている人が、一日中、熱された鉄盤に水を二、三滴、落とします。アーナンダよ、水滴の落下は遅いものですが、たちまち尽きて、消え失せます。ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
 アーナンダよ、これが意によって識られるもろもろの法に対する 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 と言われます。
 アーナンダよ、このようにして 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 になります。

 有学の実践者

8  それでは、アーナンダよ、どのようにして 〈 有学の実践者 〉 になるのか。
 ここに、アーナンダよ、眼によって色を見て、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。
 耳によって声を聞き、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。
 鼻によって香を嗅ぎ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。
 舌によって味を味わい、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。
 身によって触れられるものに触れ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。
 意によって法を識り、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。かれは、その生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものによって、愁え、恥じ、厭います。
 アーナンダよ、このようにして 〈 有学の実践者 〉 になります。

 聖なる感官修習者

9  それでは、アーナンダよ、どのようにして 〈 聖なる感官修習者 〉 になるのか。
 ここに、アーナンダよ、眼によって色を見て、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。
 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。
 つぎにまた、アーナンダよ、耳によって声を聞き、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。
 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。
 つぎにまた、アーナンダよ、鼻によって香を嗅ぎ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。
 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。
 つぎにまた、アーナンダよ、舌によって味を味わい、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。
 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。
 つぎにまた、アーナンダよ、身によってもろもろの触れられるものに触れ、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。
 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。
 つぎにまた、アーナンダよ、意によって法を識り、比丘に、喜ばしいものが生じるとします。喜ばしくないものが生じるとします。喜ばしく喜ばしくないものが生じるとします。
 かれは、もし、『厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆に対して不厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで不厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『不厭逆と厭逆に対して厭逆想をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで厭逆想をそなえて住みます。
 もし、『厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように』と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。
 アーナンダよ、このようにして 〈 聖なる感官修習者 〉 になります。

10  アーナンダよ、以上のように、私によって、 〈 聖者の律における無上の感官の修習 〉 が説かれ、 〈 有学の実践者 〉 が説かれ、 〈 聖なる感官修習者 〉 が説かれています。
 アーナンダよ、師が弟子たちのために利益を願い、憐れみによって、憐れみの心をもってすべきことを、私はそなたたちのためにしています。
 アーナンダよ、これらの樹下があります。これらの空屋があります。
 アーナンダよ、瞑想しなさい。怠ってはなりません。後悔があってはなりません。これがそなたたちに対するわれわれの教誡です」と。
 このように世尊は言われた。
 尊者アーナンダは喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。

(中部152経 感官修習経 より)
  • | 2018-05-29 | 匿名希望 URL [ 編集 ]

No title

二の矢の譬えとボタンの掛け違い⓷
以上、
⓵では解脱しても、煩悩を離れた「苦の感受」があるということ、
⓶では、苦の感受を受けたあとに、どうすれば心の苦しみという二の矢を受けずに済むのかという分かれ目は、真理の法則を知っているかどうかがポイントであるということ
の2点を中心にご紹介しました。そして最後に、感官修習経という興味深い仏典をご紹介しました。この経典には、「有学の実践者」、「聖なる感官修習者」、「聖者の律における無上の感官の修習」なる用語が登場します。この経典に初めて目を通した5年前から、これらの意味するところが自分にはさっぱりわかりませんでした。しかし、ニサルガダッタ・マハラジ(1897~1981)という方の対話録『アイ・アム・ザット 私は在る』(モーリス・フリードマン英訳、福間巖 邦訳、ナチュラルスピリット刊)を最近読んで、その意味するところが何となく理解できた気がしました。下線部は、真我を実現し覚醒を得たあとにも、何らかの修練のようなものが必要である理由が書いてあるように私は受け取りましたが、みなさんはどのように受け取られたでしょうか。

同書より引用
12 個人は実在ではない(p.51~53)
質問者 どのようにしてあなたが真我を実現したのか、話していただけますか?
マハラジ 34歳でグルと出会い、37歳にして実現したのだ。
質問者 何が起こったのでしょう? どのような変化があったのでしょうか?
マハラジ 快楽と苦痛による影響が消え、欲望と恐怖から自由になったのだ。私は満たされ、何も必要ではなくなった。純粋な覚醒の大海のなか、宇宙意識の表層で、世界という現象の無数の波が無始無窮に立ち現れては消えてゆくのを私は見たのだ。意識としては、それらはすべて私自身であり、出来事としては、それらはすべて私のものだ。ある神秘的な力がそれらを維持している。その力が真我、生命、神と呼ばれるものだ。金の宝飾品の基本素材がすべて金であるように、それらは存在するすべてを究極的に維持する土台だ。そして、それはとても親密に私たち自身のものなのだ! 宝飾品から名前と形を取り去れば、金が明白になる。名前と形から、そしてそれらをつくり出す欲望と恐れから自由になりなさい。そうすると何が残るだろう?
質問者 無です。
マハラジ そうだ。虚空が残る。だが、その虚空は完全にすべてを満たしている。意識の永遠の可能性が、永遠の現実となるのだ。
質問者 可能性とは未来を意味しているのでしょうか?
マハラジ 過去、現在、未来のすべて、そしてかぎりなくそれ以上だ。
質問者 しかし、虚空は虚空にすぎず、私たちにはあまり役に立ちません。
マハラジ どうしてそう言えるだろう? 連続性のなかに中断がなくても再誕生は可能だろうか? 死がなければ再生もありえない。眠りにおける暗闇も、新鮮さと活力の回復をもたらす。死がなければ、私たちは永遠の老衰のなかに沈みこんでいることだろう。
質問者 不死というものは存在しないのでしょうか?
マハラジ 生と死がひとつの存在における二つの相として、互いに必須のものと見られたとき、それが不死だ。はじまりのなかに終焉を見、終焉のなかにはじまりを見ることが永遠を示唆している。不死が連続性ではないということは明白だ。変化というプロセスだけが続いていく。永遠に存在するものなど何もない。
質問者 気づきは永続するのでしょうか?
マハラジ 気づきは時間のなかにない。時間は意識のなかにのみ存在する。意識を超えて、どこに時間と空間があるだろう?
質問者 あなたの意識の領域にはあなたの身体も在ります。
マハラジ もちろんだ。しかし、ほかの身体と異なったものとしての「私の身体」という考えはない。私にとってそれは「私の身体」ではなく「ある身体」であって、「私のマインド」ではなく「あるマインド」だ。マインドが身体の面倒を見る。私が干渉する必要はない。為されるべきことは、通常の自然な方法で為される。
 生理的機能に関しては、あなたはまったく意識していないかもしれない。だが、思考や感情、欲望や恐れにいたっては、あなたは自己意識に敏感になる。私にとっては、これらもまた全体として無意識の内にある。私はさほど意識もせずに人びとと話をし、まったく正しく適切に事が運んでいることを見いだすのだ。あたかも私は自発的に、しかも的確に反応し、自動的にこの物質的な目覚めの生を生きているかのようだ。
質問者 この自発的な反応は真我の実現の結果なのでしょうか、それとも訓練によるものでしょうか?
マハラジ その両方だ。真理の探究と、人びとを助けるという目的に捧げられた献身が、あなたに清らかな、秩序ある生をもたらす。そして真我の実現が、欲望や恐れ、そして誤った考えという障害を取り除き、容易に、自然に尊い徳をもたらすのだ。
質問者 あなたにはもはや欲望や恐れはないのでしょうか?
マハラジ 私の運命は素朴な庶民として、わずかばかりの教育を受けた質素な商人となるよう生まれることだった。私の人生は、ごくありふれた欲望や恐れをもった平凡なものだった。私の師への信頼と、彼の言葉への服従を通して、私は真の実在を悟ったのだ。そして人間の性癖に関しては、その運命が尽き果てるまではそれ自身が面倒を見るにまかせておいたのだ。(下線部~)時には古い習慣から、感情的あるいは心理的な反応も起こるが、それらは直ちに気づかれ、捨て去られる。結局は、人として在るという重荷があるかぎり、その性癖や習慣にさらされるものだ。
質問者 あなたは死を恐れていないのですか?
マハラジ 私はすでに死んでいる。
質問者 どういう意味においてですか?
マハラジ 私は二重に死んでいる。身体だけではなく、マインドもまた死んでいる。
質問者 でも、とても死んでいるようには見えません!
マハラジ それはあなたがそう言うだけだ! あなたは私より私の状態をよく知っているようだね!
質問者 すみません。ただ私には理解できないのです。あなたは身体もマインドもない状態だと言いますが、私の目には、あなたはとても生き生きと現前しています。
マハラジ 途方もなく複雑な働きが頭脳と身体のなかでつねに行われているが、あなたはそれを意識しているだろうか? いいや、まったくしていない。それでも外部から見れば、すべては知性的に、目的をもって行われているように見える。人の生全体は、その大部分が意識の境界下に沈んでいながらも、分別をもち、スムーズに流れているということを認めるがいい。
質問者 それは正常なことなのでしょうか?
マハラジ 正常とは何だろう? 欲望と恐怖に取りつかれ、争いと闘いに明け暮れ、無意味で喜びもないあなたの生が正常だというのだろうか? 身体を過敏に意識することが正常だろうか? 感情に引き裂かれ、思考に苦しめられることが正常だろうか? 健康な身体、健康なマインドは、その所有者にはほとんど気づかれずにいるものだ。苦痛と苦しみを通して、それらは注意と洞察を呼び起こす。同じことを生活全体に拡張させればいいのだ。人は何が起ころうと、それを気づきの焦点に合わせなくても、正しく機能し、充分うまく対応できるものなのだ。自己抑制が身につけば、気づきは存在と行為のより深い層に移行する。
質問者 それではロボットになってしまいませんか?
マハラジ 繰り返され、習慣づけられたものが自動化されることに、何の害があるだろう? どちらにしてもそれは自動的なのだ。だが、それが混沌とし、苦痛と苦悩の原因となったとき、注意を呼び起こす。清らかな、秩序ある生を送ることの目的全体は、悲しみを背負い、混沌状態の奴隷となることから解き放たれるためにあるのだ。
質問者 あなたはどうやらコンピュータ化された人生がお好みのようですね。
マハラジ 問題から自由となった人生のどこが間違っているというのかね? 人格とは単なる実在の反映にすぎない。反映がその源に自然と一致するのは当然のことではないだろうか? 個人にそれ自身の意図が必要だろうか? 実在の表現である生が導くだろう。ひとたび個人は単に実在の影にすぎず、実在そのものではないと認識したならば、あなたはいら立つことも、心配することもやめるだろう。あなたは内面から導かれることに同意し、そして生は未知への旅立ちとなるのだ。
  • | 2018-05-29 | 匿名希望 URL [ 編集 ]
      

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