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カルトのたのしさ

テレビや雑誌で「カルト」という言葉がつかわれはじめたのは、平成に入ってからのことだったと思います。私がオウムに出家した頃、「オウム真理教はカルトだ!」という記事が週刊誌に載っていました。今でこそオウムは「破壊的カルト」の代表選手みたいなものですが、当時はまだカルトという言葉はそれほど知られていませんでしたし、オウムもよくわからない新興宗教のひとつにすぎませんでした。
オウムのかけだし編集部員だった私は、週刊誌の記事をざっと読んで、
「オウムのことカルトだって書いてありますよ」
そう言って、編集長に週刊誌を渡しました。
雑誌のカルトの定義を読んだ編集長はこう断言しました。
「オウムはカルトだよ。真理の、カルト教団です」
「真理の」というところを強調して言っていましたが、教団内部ではものごとをけっこうクールにありのまま見ているんだなと、ちょっとびっくりしました。

長年オウムというカルトにいた私は、カルト対策について少し気になることがあります。
よく「カルトは怖い」「おそろしい」から近づいちゃいけないといわれるのですが、カルトのおそろしさばかりを強調すると逆効果の面があります。カルトは外からは怖いものに見えるでしょうが、なかに入ってしまえば「カルトはたのしい」ものです。実際には「カルトはたのしい」だから「おそろしい」のです。
そして、私はカルトのメンバーというのは気持ちのいい人たちではないかと思っています。オウムの人だって、やさしいし、まじめだし、悪口は言わないし、人のためになろうと献身的だから、つき合いやすくて居心地がいい。オウムにいる人たちは、なにかが怖くてオウムから出られないのではなくて、オウムが好きだから、居心地がいいからそこにいるのです。
そういうことを踏まえていないと、ヨガサークルに入っていたら、あとでそこがオウムだったと知ったけれど、みんなびっくりするほど良い人たちだった……ということになれば、オウムの言うとおり「マスコミや世間の情報はまったく信用ならない」と思いかねません。そこから「事件は陰謀だった」「オウムははめられたんだ」と思うに至るまでの距離はそんなに遠くないでしょう。

カルトには現実社会では味わうことのできないある種の心地よさがあって、フィーリングが合って信じてしまうとそこはとても居心地のいい場所になる。カルト対策は、「カルトは怖い」と強調するだけでは片手落ちで、「カルトのたのしさ」と、それが気づかないうちにおそろしい結果につながっていく可能性について、詳しく伝えていくことが大切だと思うのですが。


2016年09月16日

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コメント

No title

伝えるのは無理だよ、誰も聞きに来ないんだから。(笑)
  • | 2016-09-22 | 元R師 URL [ 編集 ]

No title

わたしも長くいましたけど、破壊活動さえしなければ、カルトもいいものだと思います。
あの居心地の良さは何なんでしょうね。
  • | 2016-09-22 | 元サです URL [ 編集 ]

Re: No title

> 伝えるのは無理だよ、誰も聞きに来ないんだから。(笑)

私はむしろオウムの関係者がきちんと言語化しないことが問題だと思っています。
  • | 2016-09-23 | 元TD URL [ 編集 ]

No title

オウムの関係者とは誰?
言語化する媒体は何?
  • | 2016-09-23 | 元R師 URL [ 編集 ]

Re: No title

> オウムの関係者とは誰?
元サマナ。

> 言語化する媒体は何?
自分のパソコン、あるいはノートに書く。
  • | 2016-09-24 | 元TD URL [ 編集 ]

No title

サマナなら誰でもいいって事?

ノートに書いても誰も見ないんじゃないの?
  • | 2016-09-24 | 元R師 URL [ 編集 ]

No title

TD様が述べられているのは、オウムとは、修行とは、出家とは何だったのか、
あるいは、信仰とは、教団とは、教義とはどういうものであったのか、等々を
漠然と「思う」のではなくて、まずは、真摯に「考え」、考えたものをさらに検討し、再考し、熟慮しなおし、また再検討し・・・という過程を経て、尚、こうではないかという思考結果に到った内容こそが、ようやく、「ある程度までであれ、けれども一定の自信をもって」、そのような問いへの自分なりの現時点での解答であるとして、自分にも、他者にも、表現できるのではないか、ということではないでしょうか。

安易に、「思った」ものを、実は相応の経るべきクリティークをふんでない「オウム体験」なるものを語ったとしても、それは実は何も事柄を明らかにする素材にすらなっていないのではないかというTD様の、思いならぬ「思考」があるのではないかと私は考えています。

Rさんは、教団での、スズメバチのこととか、糞尿処理のこととか、その他諸々のdetailsを表現することに意義を何か見出していらっしゃるのかもしれない。
しかしながら、「法友へ」と題されたブログで、本質というより末梢に属するのではないかという疑問がわくのを禁じ得ない事象をほぼランダムに述べられても、Rさんは結局、「法友」に何を伝えたいのか却ってわからない、という疑念をもって、Rさんのブログをまじめに読む気をそがれた関係者も少なくはないのではないでしょうか。

なぜ、教団に属し、なぜ離れるにいたったかーーこの辺りは、単なる一個人の宗教体験記としても、当の表現の価値そのものを左右する可能性が大きいポイントでありましょう。ただ、Rさんのみならず、元サマナさんの方々が、そのあたりを曖昧にしたまま、ただの細部やら、あるいは、特に宗教とも関係のない日常的感想やらをブログとかで、テキトウに垂れ流しているような現状を私は、望ましかったり、悦ばしかったり、美しかったりする事態とか考えておりません。
  • | 2016-09-24 | 榊 URL [ 編集 ]

体験の言語化

私が元R師のコメントに「言語化」という言葉を返したのは、作家・高村薫氏の『空海』(新潮社/2015)にあるオウム評について考えていたからです。引用してみます。
「…残念ながらオウムにはその三昧を正しく言語化する意思も能力もなかった。そう考えると、高知県・室戸岬で『明星来影す』の圧倒的体験をした若き空海とオウム信者たちの違いは、自身の体験を言語化し、それを以て衆生を救済せんとする宗教者としての強固な意思の有無だけだとも言える」
「とまれ、この世の宗教はほぼすべて、夢のお告げ、数々の秘跡、憑依、心霊現象、預言などなど豊富な身体体験を下敷きにして誕生した。言葉の体系がつくられるのはその後である。<中略>こうして言語と三昧の間を行き来するのが本来の宗教者というものだとすれば、オウムの堕落は、身体体験の宗教的純化も言語化も捨てて、総選挙への立候補だの武装化だの、さまざまな現世の夾雑物を宗教に持ち込んだことにあったのは間違いない。」
高村氏には『太陽を曳く馬』というオウムを題材にした小説もあって、元信者としてはいろいろと思うところがあります。
  • | 2016-09-25 | 元TD URL [ 編集 ]

No title

>榊さん
僕のブログに関することは、僕のブログにコメントしてください。
てか、教団でのスズメバチのことって何?(笑)

「明星来影す」はサマディじゃないよ。(笑)
これはオウムでは「太陽が昇る」と言語化している。
ただし、「明星来影す」だけでは成就認定はされない。

オウムは修行者であって宗教者じゃないよ。
「衆生を救済せんとする」は方便であって、救済すべき衆生などいない事を悟る。
これを麻原は「美しい心を作り上げ、そして、そこから離れて」と表現している。

まあ、論点が多すぎるので、とりあえずここまで。(笑)
  • | 2016-09-25 | 元R師 URL [ 編集 ]

Re: No title

> まあ、論点が多すぎるので、とりあえずここまで。(笑)

高村氏のオウムの論評については、私も突っ込みたいところがたくさんあります。
修行をしたことがない高村氏が、修行の階梯や神秘体験の理解が不明なのは仕方がないとは思うのですが…。

ところで、私や元R師がオウムについてあれこれブログに書いても、普通の人の目に止まることはほとんどないと思います。たとえば、高村薫氏の『太陽を曳く馬』(下)について元R師がオウムの教義に基づいて論評してくだされば、聞きに来る人もいると思いますよ。私にはできそうもないですけど、ほんと誰かにしてほしいです。

  • | 2016-09-25 | 元TD URL [ 編集 ]

No title

はい、だから最初に書いた通り、誰も聞きに来ないということです。

『太陽を曳く馬』についても同様で、何を論評しても普通の人の目に留まる事はないだろうね。
普通の人の目に留まる事はない、だから「法友へ」なんだよ。
  • | 2016-09-25 | 元R師 URL [ 編集 ]

高村薫

引用された部分だけを読んでも、高村薫の空海とオウムの比較論評には多々問題点がありますねw
「明星来影す」は岩波文庫で原典が読めますね(空海『聾瞽指帰』)。
元阿含宗なので、なつかしいw 先月、管長が亡くなりました。
救済が方便だというのはまさにそのとおりですね。
『太陽を曳く馬』について論評したら、聞きに来た人は「法友」かも知れませんねw
ノートに書いたら、毎日警察がガサに来て全部マスコミに暴露される、そんな思いが今もします。
オウムは楽しかったです。戻りたいとは思いません。
  • | 2016-09-27 | 海神 URL [ 編集 ]

書かれているカルトの楽しさは本当にそうですね。

私の場合、事件前は元TD師さんの書かれている通り、教団にいた時の居心地の良さは今だに忘れられない経験です。

私は教団にいて楽しかったのは、事件前までで、事件後は脅迫観念のようなものと、他に行き場がないという思いで、ひたすら苦しみでしたね。

私の個人的な感想ですが、元TD師、元R師のブログは、たった数人でも読まれて、その方たちが何か得られるなら、それだけで価値があると思います。


  • | 2016-10-30 | 元信者 URL [ 編集 ]

Re: タイトルなし

> 私は教団にいて楽しかったのは、事件前までで、事件後は脅迫観念のようなものと、他に行き場がないという思いで、ひたすら苦しみでしたね。

みんな大なり小なりオウムの楽しさの裏側も経験させられたんでしょうね。
私は「オウムとはなんだったのか」という問いにとりつかれて、長い間、いっちゃった人のようでした。

> 私の個人的な感想ですが、元TD師、元R師のブログは、たった数人でも読まれて、その方たちが何か得られるなら、それだけで価値があると思います。

ありがとうございます。
元R師と私はずいぶん方向性が違うように思いましたが、最近なんとなく収束点は同じような気がします。
  • | 2016-11-01 | 元TD URL [ 編集 ]
      

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