11.信じようが信じまいが

クンダリニーの覚醒は、霊的な道のりのほんの第一歩にすぎない。オウムでは、尾てい骨から背骨にかけて実際に火がついたような強烈な熱を感じたり、座法をしっかり組んでいながら身体がゴムまりのように勝手に飛び跳ねたり、耳の奥で単調な音楽のような不思議な音が鳴り響くようになったり、クンダリニー覚醒にともなう体験が、新人信徒にさえひんぱんに起こっていた。

ある日、私は座法を組んですわっていながら、すわって瞑想している自分自身を、天井あたりから見下ろしていた。
「あれ? ほんとに私? 髪型も服も私だ…」
また、やはり目を閉じてすわっていると、目の前に――いやそれは脳内にということなのだろうが――鬱蒼とした密林があらわれ、正面の豊かな枝ぶりの樹木の下に、同じように座法を組んで瞑想している褐色の男性行者の姿が見えた。彼の背後の木々の間には、鳥やシカやサルやトラといった、ジャングルに棲むさまざまな生き物がいて、穏やかな月夜に映しだされた湖面のように静かな瞳で私を見つめていた。
密林と行者と動物たちは、完全な調和のなかに織り込まれたあざやかなマンダラのようだった。

このような体験は、オウムに入る直前から起こりはじめた。オウムに出会う前はもちろん、出会ってからも、それどころか後に出家してからでさえ、私は一度もオウムを全面的に信じたことはない。信徒のなかには、オウムを知ったとき、「求めてきたものはこれだ。これこそが真理だ」と、強い確信を抱く人も多くいた。私は宗教を求めてもいなかったし、オウムの世界観や教えに感激することもなかった。
それどころか、いつもどことなく違和感のようなものを抱いていた。
かつて教祖は、教勢を拡大するにあたってこう言ったことがある。
「体験させなさい」
教祖のねらいは正しかった。オウムに接近しただけで体験した私は、強烈な力で引き寄せられ、信じようが信じまいが呑み込まれていったのだと思う。
ただ、私はそれを良しとはしなかった。
「ヨーガを行じれば、だれにでも内的な体験が起こるなら、特にオウムに入らなくてもいいのでは?」
そう考えて、オウムに入って間もないとき、私は四谷にあったインド人指導者のいるヨーガ道場を訪ねてみた。
指導者のヨーギーは、アーサナ、呼吸法、瞑想というオウムの修行コースとほとんど変わらない内容のレッスンをしたあと、参加者から質問をとった。
私は早速手を上げて質問をした。
「ヨーガをやって、クンダリニーは覚醒しますか?」
ヨーギーは、クンダリニーを覚醒させることがいかに危険かを何度も力説した。気が狂った修行者の例もあること、ここでのヨーガにはそんな危険はなく、クンダリニーが覚醒することは「絶対にない」と保証さえしてくれた。
クンダリニーの覚醒なくして霊性の進化はなく、霊性の進化なくしてその達成である解脱もないとして、いかにスピーディーかつ安全にクンダリニーを覚醒させ、霊的な世界を体験させるかを説いていたオウムとは正反対だった。
そのインド人指導者のいる道場に、私が再び行くことはなかった。


2015年03月02日

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