シヴァ・ビンドゥ04

私はオウムという宗教に出合って、そこで生きることになりました。人生のある長い期間、とんでもないものに巻き込まれていたのだと思います。教団を脱会してからも、私は、あの光とエネルギーにあふれていたオウム世界と、陰惨な一連の事件がどう結びつくのか考えてきました。
神の啓示にしたがってほふられる道を歩む――という教祖の宗教的信念、あるいは妄想によって、一部の弟子たちは取り返しのつかない罪を犯し、多くの罪のない人たちを犠牲にしました。獄中の教祖は十年以上言葉かけにも反応せず、家族とも弁護士とも意思の疎通がなく、狂気のなかにいるようです。自分で用便を足すこともできず、人目をはばからず射精するという教祖の様子をどう考えたらいいのでしょうか。オウムの神は、最後には教祖の意識をも呑み込んでいったのではないでしょうか。シヴァはリンガ(男根)であり、ビンドゥは種子(精子)です。自由を失い、名誉を失い、多くの弟子の信頼を失い、正気をも失い、精神が破壊されてなお、教祖の肉体はこの神の本質をあらわそうとしているようです。

ここでオウムの主宰神である「シヴァ大神」について考えてみます。オウム真理教富士山総本部道場の祭壇は、全国各地の支部道場とは少し違っていました。支部では祭壇にグヤサマジャだけを掲げていましたが、総本部の祭壇には、中央のグヤサマジャは同じでしたが、向かって右側にシヴァ神、左側にビシュヌ神のかなり大きな二枚の絵が置かれていました。この配置については説法などで公式に説明されたことはありません。

fujisaidan.jpg
<富士山総本部道場の祭壇の構図>

富士道場の祭壇の構図を、私は不思議に思って見ることがありました。
「グヤサマジャの隣に、なぜシヴァ神があるんだろう…グヤサマジャはシヴァ大神なのに…?」
創造・維持・破壊を司るブラフマン・ビシュヌ・シヴァの三神はひとつの神の三面をあらわしているといいます。では、富士山総本部道場の祭壇では創造神ブラフマンはどこにいるのでしょうか? 
ビシュヌ神とシヴァ神の絵が左右におかれているなら、当然、祭壇中央のグヤサマジャ(シヴァ大神)が「創造」(ブラフマン)をあらわしていると考えられるのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、オウムの主宰神であるシヴァ大神は、破壊神シヴァの名前を持ち、同時に世界を創造するブラフマンが重ねられている――「破壊」と「創造」という対立原理を両立させる神を象徴していることになります。

このような神を内的なグルとしながら、教祖はいつしか徐々に同一化していったのだと思います。それがオウム事件の主たる原因だったのではないでしょうか。左手で悪をなし同時に右手で善をなすような、破壊と創造という対極の両面をもっている神と同化すれば、畏ろしい結果になることは言うまでもありません。
教祖を信じていた弟子は、たとえ「なにか、おかしい?…」という思いがよぎったとしても、歩みを止めることはありませんでした。実行犯の弟子の多くは厳しい取り調べを受けて、はじめて事件の重大さに気づき「はっ」と我にかえったでしょう。そのときのショックはどれほどだったでしょうか。
オウムという宗教団体で実際になにがあったのかを知らない人びとは、「なんてひどいことをする奴らだ」「人間じゃない」「早く殺してしまえ」と糾弾しました。当然のことだと思います。でも、私はよく知っています。ごく普通の社会人や学生だった私たちを、入会してわずか数か月でこの現実から引き離し、高く舞い上げてしまうような圧倒的なエネルギーが、クンダリニーとも、無意識とも、神とも呼ばれる神秘的な力が、あのときたしかにオウムには働いていました。このような力にふれて、神のようなつもりになってしまったことが、オウムの、そして私自身の大きなあやまちでした。
それを認めたうえでなお、あの光あふれるエネルギーのなかで、自分自身を見失わないでいられる人が、はたしてどれくらいいるのだろうか…正直それはとても難しいことではないかと思うのです。


*******

内的な経験は神の「啓示」なのか精神病的「妄想」なのか、という疑問をもたれた方のために以下補足します。
『情報時代のオウム真理教』(春秋社)では、神秘体験と心身症について西部邁氏の質問に教祖が答えていることにふれています。
「(『朝まで生テレビ』の宗教討論のなかで)パネリストとして最初に発言した西部が、修行における異体験と心身症がどう違うのかと問うと、麻原は、宗教者の修行体験も心身症も同じであるとあっさりと認めた。この発言に対し、栗本(慎一郎)は麻原が『現代社会の正常というもの自身について問い直しているということをおっしゃっている』と補足説明し、西部も私が言いたいことはそういうことだと応じた」



2016年03月22日

コメント

感想

>オウムの主宰神であるシヴァ大神は、破壊神シヴァの名前を持ち、同時に世界を創造するブラフマンが重ねられている――「破壊」と「創造」という対立原理を両立させる神を象徴していることになります。

富士道場の祭壇の構図のご提示ありがとうございます。
さて、この2つは確かに対立する概念かとは思いますが、破壊して創造するといったプロセスを考えた場合、(ものごと、社会の)再構築に導く一連の流れのようにも取れるかと思うのですが…。自分の見立てはズレてますでしょうか。
そのために、(オウムソングの一節に有ったように)大きな犠牲が必要だ と。

この事とは別に、ご自身の内的な体験、クンダリニーの覚醒、そういったものは今も維持されておられるのでしょうか。それはそれで宝だとお考えですか。それとも、それをも含めてオウムでの経験と一緒に葬り去りたいとお考えですか?
  • | 2016-03-22 | 匿名 URL [ 編集 ]

No title

>~~自由を失い、名誉を失い、多くの弟子の信頼を失い、正気をも失い、精神が破壊されてなお、教祖の肉体はこの神の本質をあらわそうとしているようです。

凄まじい...。
オウムを真に導いたものは何だったのか?もちろん麻原が最高権威だったのでしょうが、では麻原の思想・信仰の源は?よく言われているように、複雑な生い立ち、コンプレックス、自己顕示欲、霊的な事柄に関する素質才能といった事の絡み合いだけなのか?事件は麻原の狂気に、物質文明のなか心の渇きを抱えた純粋な若い人達が盲従して生じたという理解だけでいいのか?...などと考えるとそれら以外に何か異様な不気味なものの存在を感じていました。

精神医学上では麻原は何らかの人格・精神障害に分類されるのでしょう。しかし現代の精神医学などではおさまりきれない、人間の顕在意識下の領域からくる影響力に麻原自身もやられてしまったようなところがある、というイメージを私は持つようなりました。そのような点で元TD師の一連の記事はとても興味深いです。ありがとうございます。

>~圧倒的なエネルギーが、クンダリニーとも、無意識とも、神とも呼ばれる神秘的な力が、あのときたしかにオウムには働いていました

ところで私も、修行で実際に様々な体験をされた元TD師や他の方々の現在の信仰を知りたいです。
 オウムの犯罪を認める元信者の方々には、オウムでの自身の宗教的・神秘的体験をも否定し、何とか現実社会に適用しようとされてるものなのでしょうか?それともオウムの教義がら離れつつも、なんらかの信仰や内的体験を深めようとされてる方も多いのでしょうか?(ひかりの輪のように?)
  • | 2016-03-23 | カルマ URL [ 編集 ]

No title

帰依、すべてをゆだねるとしたら、それは何に対してゆだねるのか?
古神道の教えは、「祓いに始まり、祓いに終わる」そうです。
そして、すべてを祓うとは自分自身ですら祓うと。
すべてを祓った後に現われるものが空であるとすると
空とは?
チベット密教で説かれる空と慈悲とは?
そして、オウムの教えで最終地点であると説かれたマハー・ボーディ・ニルヴァーナとは?
  • | 2016-03-23 | U URL [ 編集 ]

Re: 感想

> さて、この2つは確かに対立する概念かとは思いますが、破壊して創造するといったプロセスを考えた場合、(ものごと、社会の)再構築に導く一連の流れのようにも取れるかと思うのですが…。自分の見立てはズレてますでしょうか。

時間の流れのなかあってはそのように考えるのが普通です。意識はそのように処理するしかありません。
でも、ここで私が言っていることは、両極が「同時に在る」ということです。それは言葉では「破壊と同時に創造」とか「破壊・創造」としか書けないのです。そして、そう書くと「破壊があって創造というものがある」という「理解」をしてしまうのが普通です。「同時に在る」ということを、時間の流れ、プロセスに変換しているのです。
わかりやすい例をあげます。ある人を熱烈に好きだったとします。好きで好きでしょうがなく、その人がいなければ生きていけないと思うほどの情熱です。私が言っているのは、その人を好きだ愛していると思うと同時に、その人をズタズタ傷つけたい破滅させたいと思う、ということについてです。愛着がやがて嫌悪に変わるプロセスではなく、その瞬間の認識としての話です。
オウムにふさわしい例をあげましょう。オウムでは「グルは絶対」とよく言いました。ところが一方で「グルさえも幻影」とも言います。「絶対」と「幻影」という両極を真実としているのです。終末期のオウムではとても多くの弟子が「グルは絶対だ」と口にしていました(あくまでも口にしていただけですけどね)。「グルは絶対、かつ、グルさえも幻影」ということの「幻影」が完全に抜け落ちてしまっていたように思います。
しかし、絶対であり幻影であること、愛していながら憎んでいること、この矛盾に耐えられる者がいるでしょうか?
この両極の間で人は引き裂かれてしまうものなのです。引き裂かれずに耐えるということは、言い換えれば「十字架」にかかって苦しむということです。ですから、私は「シヴァ・ビンドゥ」で「右手で善をなし左手で悪をなす神」についてわずかに書くためにでさえ、私自身のオウムでの修行体験、意識の変容についての長い考察、それに基づいた物語(最初はそれを「ヌミノース」と題しました)を書かなければなりませんでした。そして、私にとってその期間は、苦しみ以外の何ものでもありませんでした。


> この事とは別に、ご自身の内的な体験、クンダリニーの覚醒、そういったものは今も維持されておられるのでしょうか。それはそれで宝だとお考えですか。それとも、それをも含めてオウムでの経験と一緒に葬り去りたいとお考えですか?

以前のコメントにも書きましたが、クンダリニーの覚醒が個人に起こるものだと思っている人が多いようですけれど、クンダリニーとはそういうものではありません。ですから、私が自分の宝だと保有したり、葬り去ったりすることはできない性質のものです。

  • | 2016-03-24 | 元TD URL [ 編集 ]

Re: No title

カルマさん、感想をありがとうございます。
感想を読んで、大切なことが伝わっているように感じられ、とてもうれしく思いました。

> ところで私も、修行で実際に様々な体験をされた元TD師や他の方々の現在の信仰を知りたいです。

私はオウムでの体験をかなり詳しく書きましたが、それはあくまでもオウムという宗教を明らかにしたいという目的で書いたものです。
オウムをやめてからの内的な体験――それがオウムから引き続いているものであっても、どうとらえていくかは私個人のことになります。単純に個人的なことは書くつもりがありませんのでご容赦ください。

  • | 2016-03-24 | 元TD URL [ 編集 ]

No title

第7サティアンの意味は 天地創造
  • | 2016-03-25 | 三橋 URL [ 編集 ]

発信希望

その後発信が止まってしまっている様子ですので案じております。まさかとは思いますが、これで終了ということなのでしょうか。何らかの発信をしていて欲しいです。自分にとって、いい刺激になっています。是非お願いします。
  • | 2016-04-04 | 匿名 URL [ 編集 ]
      

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