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番外編09.怨恨なのか

オウム事件の背景には、麻原彰晃の不幸な生い立ちによる社会に対する怨恨があったと考える人は多い。目が不自由なのは水俣病が原因だったかもしれないこと、幼くして親元から離され寄宿舎生活をしていたこと…その恨みや憎しみによって凶悪な犯罪を犯すようになる、というのは事件の背景として納得しやすいのかもしれない。確かに、麻原彰晃の宗教観は社会の価値観とは決して相容れないものではあったが、オウムにいた私はそこに個人的な怨念のようなものを感じたことはなかった。
宗教学者の島田裕巳氏も異を唱えている。
「麻原彰晃の人生は不幸と挫折のくり返しである。しかしその人生を振り返ってみたとき、麻原が、必ずしも幸福とは言えない自らの境遇に敗北感を感じてしまう人間であったようには見えない。彼には不幸と挫折を乗り越え、社会のなかで成り上がっていこうとする強烈な野心があった。その野心はときに空回りすることはあったものの、彼はその野心をある程度まで満たすことに成功した。麻原はたんなる敗北者だったとはいえない」(1)

麻原彰晃が自身の身体障害や生きづらい人生をどう考えていたのかがわかる説法がある。何度かテープで聴いて印象に残った説法だったが、当時の私にはあまりよく理解できなかった。脱会してから、オウムについて考えるために年代順に説法を読み返して、これが麻原彰晃自身について語られたものであることにようやく気がつき、なにを言おうとしているのか以前よりわかった。説法はこんな問いかけで始まっている。
「ここに二人の者がいたと。一人は大金持ちの息子として、あるいは娘として生まれ、そして顔形もよく成長した。才能にも恵まれていた。そして、修行者になった。もう一人はつんぼであったと。両耳がつんぼであると問題があるわけだが、片耳は完全に聴こえず、片耳もどんどん悪くなる状態であったと。そして、無常を悟り、同じように修行に入っていったと。果たして、この二人はどちらが徳があるだろうかと」
ここで例にあげている「片耳が聴こえず、もう一方の耳もだんだん悪くなる状態」とは、耳を目に置き換えればまさに麻原彰晃自身のことだ。高弟たち一人一人に質問をして、それぞれの答えを聞きながら最後に次のような説明をする。

「実は質問のなかに答えがあったんだよ。耳の聴こえない人について、私ははじめに、耳が全部聴こえない、いや違うと。一方は聴こえなくて、一方は少し聴こえない状況でどんどん聴こえなくなっていくと。なぜ私がその言葉をつけ加えたかというと、まず、修行のスタートは苦を感じること。しかし、その前に無常からくる苦を感じなくてはならないわけだよ」
「五体満足でこの世に生まれ、おおいに徳があって、そして高い世界を知っていて出家する者、これは案外多い。もともと高い世界へ行くための道だということを前生から記憶しているからであると。しかし、五体が不満足で、この現世もなかなか生きづらいと。その状態で解脱を求めると。これは徳の問題からおかしいなと。どうだ。なぜならば一般的には現世がよくなって修行に入っていくわけだから。だとしたら、この者はもともと菩薩の修行をしていて、もともと徳があって、前生において現世的な楽というものをすべて知ったうえで修行し、自己のカルマを滅する、あるいは他のカルマをしょうという修行をしていると考える以外にないんじゃないか」(2)

麻原彰晃自身、幼少期からまったく目の見えない子どもたちと生活を共にし、見える方の右目もやがて見えなくなるという、無常からくる苦しみを感じていただろう。そして、盲学校を卒業して十二年後、徳がないようにみえる恵まれない環境に生まれたとしても、そこから修行の道に入っていくならば、それは徳がないのではなく、前生から菩薩の修行をしているからであって、今生も菩薩として自己のカルマを滅する、あるいは他の苦しみを背負うという修行をする運命にあるからだ、と説いてる。生まれ持った障害や逆境は、積極的かつ宗教的にとらえられている。

オウム事件について、高弟だった早川紀代秀死刑囚が宗教的な動機を見落とさないよう訴えている。
「オウム事件は、どんなに気違いじみたことであっても、それはグルの宗教的動機から起こっていったということ、そしてグルへの絶対的帰依を実践するというグルと弟子の宗教的関係性によって、弟子がグルの具体的指示、命令に従って事件を起こしていったということ。この二点は、二度とこのような事件が起こらないためにも、見誤ることなく、きちんと理解していただけたらと思います」(3)


(1)『オウム真理教事件Ⅰ』(トランスビュー)p42。島田裕巳氏は麻原彰晃と二度対談し、テレビの討論会(「朝まで生テレビ」)にも一緒に出演しているから、実際に会って話した印象も加わっているだろう。
(2)一九八九年五月七日富士山総本部道場説法。この説法の前提には、「人は最も徳のある状態で修行の道に入る」という世界観がある。この年の選挙活動を経て、麻原彰晃はほぼ視力を失ったと言われている。
(3)『私にとってオウムとは何だったのか』(ポプラ社)p216。


2015年12月09日

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コメント

動機

>その恨みや憎しみによって凶悪な犯罪を犯すようになる

それはあまりに短絡的な見方だと思います。通説となっているのがそれなのでしょうか。上祐さんのような高弟だった人も、それに近い見方のようで、困ります。

私は教祖の講話を読んでいた頃に、教祖の宗教活動についての動機について思い巡らせたことがありました。

動機の中心にあったのは、自分こそが救済者だという思い込み、言い換えれば確信にあったと私は思います。だからこそ周りを巻き込む形であれだけの人が信じた。仏教を使ったと言いますか、、仏教を自分の境涯に当て嵌めて、活動の強固な支えにしていたのではないでしょうか。

ルサンチマンからの動機では、あれだけの講話をした教祖について説明し難いように思うのです。
  • | 2015-12-09 | 匿名 URL [ 編集 ]

大事なこと

>グルの宗教的動機から起こっていった
>弟子がグルの具体的指示、命令に従って事件を起こしていった

確かにこの二点は非常に大事なポイントかと思います。オウム問題に関心のある人たちは、あらためて確認しておく必要があると思います。
  • | 2015-12-10 | 匿名 URL [ 編集 ]

No title

グルはよく怒っていた。

祭典の時も、必ず一回は激怒されていた。

では、グルはなぜ怒っていたのか。

果たして、理由があって怒っていたのか?

もちろん、いずれの時も、きっかけとなる事象はあった、と思う。

が、私には、グルが「怒りたいから怒っていた」ようにしか見えなかった。

しかし、それは単なる「非」論理的気まぐれ、突発的感情によるいい加減な物、というのではなく、

いわば「超」論理、あるいは何かしらの大いなるプラーナの流れ、もっと大風呂敷を広げるならシヴァ大神の意思、とでも言うべき物に基づいていたというか……


ま、グルを人間の観念でとらえようとすると、見誤る、というか、

所詮、アージュニアー(観念)では、サハスラーラ(グル)は理解できないのだろう。
  • | 2015-12-11 | 黄帝 URL [ 編集 ]

ゴミをグルとし、ゴミと合一して何がしたいんだ?サハスラーラやら何やらを持ち出すのは構わんが、外界(オウムからすれば下界か?笑)にその論理を持ち出し、実行したから事件に成ったんじゃないのか?糞帝さんよ。
  • | 2015-12-12 | 向煩悩破戒凡夫 URL [ 編集 ]

大事なポイント

このポイントを理解しない限り、オウムの問題は理解できないよね。
宗教的な教義、救済というものが中心にあって、それですべてが動いていたということ。
  • | 2015-12-12 | U URL [ 編集 ]

確信

(教祖の)自分が救済者であることの強い確信については、後に上祐さんも言及されていました。
  • | 2015-12-12 | 匿名 URL [ 編集 ]

Re: 動機

> >その恨みや憎しみによって凶悪な犯罪を犯すようになる
> それはあまりに短絡的な見方だと思います。通説となっているのがそれなのでしょうか。上祐さんのような高弟だった人も、それに近い見方のようで、困ります。

コメントありがとうございます。オウムの宗教性を抜きにして事件を考えた場合、こういう結論(怨恨説)になるだろうと思います。
私の感覚では「宗教しかやっていなかった」ですけど、一般的な見解は「オウムは宗教じゃないテロ集団」でしょう。上祐さんも「ひかりの輪は宗教じゃない」と言ってますから、もう宗教はやめたのではないでしょうか。詳細は明らかではないですが…。

  • | 2015-12-15 | 元TD URL [ 編集 ]

Re: 大事なこと

> 確かにこの二点は非常に大事なポイントかと思います。オウム問題に関心のある人たちは、あらためて確認しておく必要があると思います。

コメントありがとうございます。オウムの宗教性について深く考えることは、現実に世界が「テロの時代」になってしまった今、とても意味があると思います。良い悪いは別にして、オウムが投げかけたものは今日的だったと思います。
  • | 2015-12-15 | 元TD URL [ 編集 ]

Re: No title

> ま、グルを人間の観念でとらえようとすると、見誤る、というか、
> 所詮、アージュニアー(観念)では、サハスラーラ(グル)は理解できないのだろう。

コメントありがとうございます。
「グルには深いお考えがあって…それは弟子にはわからない」として、矛盾や不合理を受け入れて信仰する姿勢は私のあこがれです。残念なことに、私はそういうタイプじゃないので、こうしていろいろ考えています。でも、それはやっぱり哀しいことだな…と思うことはよくありますね。
  • | 2015-12-15 | 元TD URL [ 編集 ]

Re: タイトルなし

> ゴミをグルとし、ゴミと合一して何がしたいんだ?サハスラーラやら何やらを持ち出すのは構わんが、外界(オウムからすれば下界か?笑)にその論理を持ち出し、実行したから事件に成ったんじゃないのか?糞帝さんよ。

事件についてのご指摘は、私もそのとおりだと思います。では、なぜ、外側に持ち出したのか。「突っ込め!」と言って突っ込んだんだと思いますが…。
  • | 2015-12-15 | 元TD URL [ 編集 ]

Re: 大事なポイント

> 宗教的な教義、救済というものが中心にあって、それですべてが動いていたということ。

そういう視点で考えていった場合、最大の難関は「教祖が狂った」ということです。この難関を「陰謀(毒を盛られたなど)」で回避せずに突破できれば、それはたいへんいいと思うんですけどね。
  • | 2015-12-15 | 元TD URL [ 編集 ]

Re: 確信

> (教祖の)自分が救済者であることの強い確信については、後に上祐さんも言及されていました。

教祖が自分を救済者だと思っていた――それはもちろんですとも! 一点の曇りもなく教祖はそう思っていたでしょう!
でなければ、こんなに長いことみんながオウムという迷宮をさまようはめにならないでしょう。ほんとに、とんでもないことなんですよ…。
  • | 2015-12-15 | 元TD URL [ 編集 ]

Re:Re: 大事なこと

>オウムが投げかけたものは今日的だった

ズバリ言うと、オウム事件の考察から、(現代のテロ世界を)考察できるということでしょうかしらね。オウム事件はその種の考察の種を与えてくれたと言えるかもしれませんが、ありがたくはないことでした。言うまでもないですが、反面教師というか、オウムのあの事件を教訓としなければいけないと思います。その為には、事件をしっかり分析すること、、その意味でこうしたブログ記事は非常に役立つと思います。出来れば、(補強として)元幹部の方々からのコメントがいただきたいところです。ご覧になっておられましたら、よろしくどうぞ。
  • | 2015-12-19 | 匿名 URL [ 編集 ]

Re:Re: 確信

>一点の曇りもなく教祖はそう思っていたでしょう!

牢の中で、(幾多の裁判を経て)教祖はそれについて、今どう思っているでしょうか。

グルとの合一を為されていた(成就者の)方々なら、そのあたりが分かりませんでしょうか? どうお考えになりますか。やはり巷流布されているように(精神が)壊れてしまっているとお考えですか? かつての公判で、自分には都合の良い修行環境が得られていると言ったのは、単なる負け惜しみだったのでしょうか?
  • | 2015-12-19 | 匿名 URL [ 編集 ]

No title

>矛盾や不合理を受け入れて信仰する姿勢は私のあこがれです。残念なことに、私はそういうタイプじゃないので

私もそういうタイプじゃありません。ですから、キリスト教の信者にはなれません。

元TD師が、そういうタイプにあこがれるというのはどうしてでしょうか? もしかしたら、そういう信者の有り様を良しとする文言が、オウムの教義にあったかもしれないですが。。あるいはまた、新實死刑囚のことが念頭にあるのでしょうか?

自分は、出土された化石の分析を信用しますので、いわゆる宗教とは距離を置きながら、宗教と関わっています。仮説が多いですが、サイエンス方面からの見解は無視できないと思ってます。特に宇宙の姿については、仏教サイドはサイエンス側と議論はしないでしょう(ある仏教研究者の言)。
  • | 2015-12-19 | 匿名 URL [ 編集 ]

Re: No title

> 元TD師が、そういうタイプにあこがれるというのはどうしてでしょうか? もしかしたら、そういう信者の有り様を良しとする文言が、オウムの教義にあったかもしれないですが。。あるいはまた、新實死刑囚のことが念頭にあるのでしょうか?

あこがれるのは、まだ手の届かない自分の姿だからでしょう。
  • | 2015-12-21 | 元TD URL [ 編集 ]

怨恨説

怨恨説は、オウムの宗教性を全く無視していると思いますね。宗教性を無視したいから持ちだした説なのか、、あるいは、いまさらオウムが宗教であっては困るとか。。そういう勘ぐりも出来そうですが、陰謀論っぽくなりますので、これは私の本意ではありません。ただ、ある時期までは宗教法人として認められていたのですから、少なくとも宗教の条件を満たしていたことは間違いないはずなのですが。。

当時のオウムの書籍が手に入るなら、納得できるはずです。無論、この宗教を信じるかどうかは、あくまで別の話です。
  • | 2015-12-22 | 匿名 URL [ 編集 ]

No title

>矛盾や不合理を受け入れて信仰する姿勢

そうした信仰のあり方は、お釈迦様の教えとは違うでしょう。自燈明法灯明とは違うように自分には思えるのです。
  • | 2015-12-22 | 匿名 URL [ 編集 ]
      

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