番外編08.盲学校

熊本市内に宿泊した私は、翌日は県立図書館へ行って、八代市の郷土資料や麻原彰晃が学んだ熊本県立盲学校の資料を探した。
昭和二二年から昭和四五年まで、熊本県立盲学校は熊本市出水町九五二番地にあった。資料には「増築増築でつぎはぎだらけの木造校舎で、寄宿舎も学校と同じように古い木造で、南寮、中寮、それに女子寮の三つがあった」と書かれている。
昭和三六年秋頃、一年生の麻原彰晃は金剛小学校から熊本県立盲学校の小学部に転入し、寄宿舎で生活するようになる。左目は生まれつき視力がなく、右目の視力は1.0ほどあったが、いずれ失明するかもしれないと心配した十一歳年上の長兄が、盲学校で専門教育を受けさせたいと後押ししたといわれている。長兄は全盲で盲学校に在学、寄宿舎生活をしていた。
資料によれば、麻原彰晃が転入した昭和三六年の寄宿舎生は、小学部六一名、中学部四〇名、高等科四六名、専攻科一八名、合計一六五名という大所帯だったようだ。昔の記録に「舎室不足で児童・生徒があふれている」と書かれていたというから、手狭だったのだろう。寄宿舎生の数は、昭和三九年の一九〇名から四六年の一七九名あたりをピークに徐々に減少していく。(1)
生徒数の推移は視神経にも影響する水俣病と関連があるという指摘もある。
「…麻原が少年時代に寄宿していた熊本県立盲学校には当時水俣病の小児患者が相当数収容されたはずだ」(2)
盲学校は、小学部、中学部は義務教育なので教科内容は一般の学校と変わらない。高等部になると医学的な知識と人を治療するという技術指導の教科が入ってくる。生徒数が増えて、そういう教科に対応する教室や教材機器の不備があり、新しい学校を建築することになる。昭和四五年九月、麻原彰晃が高等部一年のとき、盲学校は国有地であった健軍自衛隊の演習地の払い下げを受けて、熊本市東区東町(3)に聾学校と合わせて移転した。

麻原彰晃の盲学校時代の記録はほとんどない。
「私が六歳のときの記憶をかんがみると、私は親元を離れて生活していたわけだが、よく泣いていたと。布団に隠れて、寂しいよ寂しいよと泣いてたと」
このように直弟子用説法で少し語られているくらいだ。前出の山折哲雄氏との対談では武術に励んだことを語っている。
「学生時代はエネルギー発散型で、スポーツ、武術を徹底的にやりました。仏教的な言葉では無智のカルマ(業)を積んだというか。激しい運動で疲労するとへそから『幽体離脱』をしました。三歳の頃の経験と比べて明らかに穢(けがれ)。闘争意識状態による恐怖の世界の体験をずっとしていたわけです。」(4)
盲学校の柔道部は昭和三六年頃発足し、昭和四六年には県大会初出場と記録されている。専攻科まで進んだ麻原彰晃は、在学中に講道館二段に認定されている。

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東区東町に移転した盲学校と寄宿舎の見取り図 「創立70周年記念誌」(1981年)より


県立図書館で資料を読み終えた私は、遅い昼食を済ませてから元の盲学校があった水前寺(旧・出水町)あたりを散策した。かつての出水町九五二番地は今は住宅地だった。昔の盲学校の痕跡がなにもないことを確認したあと、東区にある現在の盲学校まで行ってみることにした。
年代ものの市営の路面電車に乗って終点の健軍という駅で降り、スマートフォンを頼りに盲学校まで歩いた。自衛隊の施設、官公庁、高校、大きな団地などを通り過ぎ、駅から二十分ほど歩いただろうか。盲学校は、市街地の雰囲気とはがらりと変わって、人の暮らしや歴史の匂いのあまりない、旧陸軍飛行場跡のやけに区画の大きなのっぺりとした風景のなかにあった。
麻原彰晃は、十五歳から二十歳までここで教育を受け寄宿舎で生活した。盲目の子どもたちのなかで、いずれ見えなくなるかもしれない隻眼(せきがん)の少年として。

熊本盲学校
熊本県立盲学校正門付近(2013年9月撮影)


(1)県立盲学校「創立70周年記念誌」
(2)『黄泉の犬』p54
(3)熊本市東区東町は、旧託麻郡健軍村。熊本市の北東に広がる丘陵地である託麻台地(託麻原)のなかに位置している。このあたりもかつては麻の原が広がっていたのだろうか。
(4)別冊『太陽』77特集「輪廻転生」(1992年)


2015年12月04日

コメント

No title

やっぱり。
盲学校探し出すと思ってたよ。
  • | 2015-12-05 | 元R師 URL [ 編集 ]
      

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