番外編07.水俣

水俣病について、私は教科書に載っている程度のことしか知らなかった。教団を辞めてしばらくたった頃、古書店で『チッソは私であった』(葦書房)という不思議なタイトルの本を手に取った。「なんだろう?」と題名にひかれてページを開いてみると、チッソというのは水俣病の原因である工場廃液を海に流していた企業の名前だった。著者の緒方正人氏は、 網元だった父親を急性劇症型水俣病で亡くし、同じ頃自身も発症する。チッソと国とを相手にした被害補償の闘争のなかで、あるとき緒方氏は、敵対者だと思っていたチッソと自分とが、存在の深みでは地続きだった――「チッソは私であった」という気づきに打たれる。
「憎み、敵対するものが自分だった…か。オウムでいうマハームドラーの悟りみたい…」
そんな興味もあって私は本を買って読んでみた。緒方氏はその後水俣病認定申請を取り下げて訴訟活動からは身を引いていく。この本をきっかけに、私は水俣について書かれたものを何冊か読んでみた。同じ頃、麻原彰晃が水俣病だった可能性があるという書き込みをインターネットで見かけた。

ローカル列車の窓越しに不知火海を見ながら水俣駅に向かい、着いたのは午後三時半をまわっていた。私は駆け足で駅の改札を出ると、一番近くにいたタクシーに乗り込んで「水俣病資料館まで、お願いします」と行き先を告げた。水俣病についてもっと知りたかったし、麻原彰晃が生まれ育った八代に水俣病患者がどれくらい存在するのか、という素朴な疑問があった。
資料館に入ると意外なほどすぐに求めていた答えがあった。展示の一番最初が「水俣病認定患者の発生分布」という図で、八代市の認定患者数は七人となっていた。水俣市の一千十人、水俣周辺の市の三百人以上に比べると僅かで、可能性としては低いけれど、麻原彰晃の視覚障害の原因が水俣病だった可能性はゼロではないことになる。

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水俣病患者の発生分布(2008年2月29日)


水俣病は、人類最初の化学物質による環境汚染が引き起こした公害病だ。チッソが流した工場排水に含まれるメチル水銀が、不知火海沿岸の魚介類に蓄積され、それを食べた多くの生き物、そして人間が犠牲になった。水俣病の発生は一九五三年頃からといわれるが公式に確認されたのは一九五六年、麻原彰晃が生まれた一九五五年とほぼ同じ頃だ。
展示を見ていくと水俣病の全体像がよくわかった。
「チッソって、もともと化学肥料を作ってた会社なんだ…戦後はプラスチック製品に欠かせない可塑剤を作って…海に猛毒を流していたのか…みんな経済的豊かさに向かって突っ走っていたんだなぁ…」
チッソは日本の化学工業の発展を牽引するような企業だったから、水俣病は戦後の経済成長の「影」ともいわれている。(1)作家の藤原新也氏は『黄泉の犬』(文春文庫)で、麻原彰晃の社会に対する憎悪は、彼の視覚障害が水俣病によるものだと考えていたからではないか、という可能性を示唆している。私は、麻原彰晃個人の怨恨が事件の背景だとする説には共感できなかったが、水俣病の原因物質である「水銀」については「あれ?」と思った。東洋でも西洋でも、水銀は「霊的な物質」(霊薬)として神秘主義者や修行者に知られているからだ。(2)

水俣、チッソ、化学肥料、プラスチック、水銀、猛毒、犠牲者、高度経済成長…。
私は重たい気持ちで、閉館時間ぎりぎりまで水俣病の資料を見てまわり、帰りぎわに資料を買った。(3)
「こんなに立派な資料館があるなんて知りませんでした」
そう言って、ボランティアの身分証をつけたショップの女性に代金を手渡すと、こんな答えが返ってきた。
「このあたりはヘドロを埋め立てた上に作られたんですよ、この下、コンクリートで固められたこの下には、今もヘドロがあるんです」
「この下」と言うと同時に女性はドンドンと二度強く足を踏み鳴らした。

水俣病資料館冊子
資料館でいただいた冊子(表紙の写真は資料館)


(1)「チッソは、明治の終わりに水力発電の会社としてスタートしました。その電力を利用してカーバイト工場を水俣に作り、やがて化学肥料の生産を始め、日本にとって重要な化学会社として成長しました。<中略>チッソは化学肥料のほか、酢酸、塩化ビニ-ルやその成形に必要な可塑剤(かそざい)の生産に力を入れ、戦後も日本の高度経済成長を支える企業の一つとなりました。チッソは1932年(昭和7)から1968年(昭和43)まで、酢酸や可塑剤などの原料となるアセトアルデヒドを作るときに触媒として無機水銀を使用し、その過程で副生されたメチル水銀を1966年(昭和41)まで、ほとんど無処理のまま海に流しました」(「水俣病10の知識」より)
「日本窒素肥料株式会社(チッソの前身・引用者注)は、化学肥料会社としても、化学工業会社としても、企業規模だけでなく、技術の高さにおいても、日本の化学会社のトップであったことは間違いないところである」(ドキュメント水俣病事件1873-1995 「二 日本窒素肥料株式会社(6)」より)
化学肥料や農薬の製造法と毒ガスの製造法は似ているといわれている。オウムで毒ガス製造のために大量の化学薬品を所持していたことについて、故・村井秀夫氏は「農業を行う計画があって、化学肥料を作るための薬品だと主張したらいい」と広報部に助言していた。
(2)水銀は、仙道では「丹」とよばれる霊薬の原料として修行に使われ、不老長寿の霊薬とも考えられていた。西洋の錬金術では、水銀はヘルメス(メルクリウス)の象徴であり「変容物質」とされている。錬金術の本質は、現実に金を得ようとするのではなく、魂の変容を求めること(修行)にあった。麻原彰晃は自身を「ヘルメスの系統」と言ったことがある。
(3)水俣市立水俣病資料館の資料はホームページでも見ることができる。


2015年12月01日

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