99.コインを投げる

とうとう成就者会議で代表派(上祐派)の経理を分離することが議題に上ることになった。経理を分けて活動経費を出さないということは、マイトレーヤ正大師を教団から追い出すということだ。少し前、正大師は「暖簾分けみたいにできないかなぁ…」とつぶやいていたが、最上層部(教祖の家族)の決定には容赦がなかった。
私は分裂を決定する会議に出席した。
「財産を分けろー」「金を出せー」「ずるいー」「ずるいー」
代表派の女性の師たちは、正大師が多額の布施を集めたにもかかわらず、びた一文出さない教団に対して抗議の声を上げた。女性の甲高い叫び声のなか、反代表派は無表情で黙っているだけだった。
「あの人たち、マイトレーヤ正大師の指示でこんな態度をとっているのかなぁ」
彼女たちのとても修行者とは思えない態度に驚いたが、そんなふうに不満をあらわすしかなかったのだろう。それにしても会議とは名ばかりで、とても話し合う場ではなく、ひどくがっかりした。

どちらの派閥からも距離を置く「中間派」といわれていた人たちは嘆いていた。
「いったい四無量心の教えはどこへいったんだ」
「嫌悪しない、悪口を言わないという戒律は、批判しないという教えはどうなった…」
「ステージの高い人を批判するのは、重いカルマになるよ」
しかし、対立する派閥は話し合おうにも話にならなかった。
「まったく話が通じないんだよ」
という言葉をよく相方から聞いた。私も話をして「本当にまったく話が通じない」と思った。お互いに相手が悪いから、相手が聞かないから通じないと思っていたのだろう。
私は代表派ではないという意味では「反代表派」だったが、マイトレーヤ正大師の現実的な教団運営はよく理解できた。正大師を先達として尊敬してもいた。だからこそ、教団の分裂が進むにつれ密かに期待していたことがあった。それは、マイトレーヤ正大師に「クリシュナムルティのようになってほしい」という願いだ。クリシュナムルティは、神智学協会によって設立された教団の長だった。(1)
「宗教組織や組織的活動によって真理に到達することは不可能である」
そう言って、自らの教団を解散し一人歩み始めるクリシュナムルティのようになってくれたら。自分の派閥をつくるのではなく、教団を分裂させてしまうのではなく、教団は解散すべきだとして一人で歩む道を示してくれたら…。それは私自身に芽生えていた自立への願いだったのだろう。
教団を二分する争いのなかで脱会する者が相次いだ。
「正大師って宗教者というより、政治家なんだよねえ…」
正大師の側にいた人は、そうつぶやいて離れていった。
「教団をやめたら、あとの人生は余生だと思っているよ」
まだ三十代の男性成就者はこう言って去った。人生のすべてだったオウムをやめたあとを、「余生」と呼ぶ心境はとてもよくわかった。

経理を分ける会合のあと、私は「これでオウムは終わったな」と思った。教団に対して、私はずっと恩義のようなものを感じていた。私が入信を担当して、その後出家して部下になったサマナも少なからずいた。これまで私と縁があった信徒さんにも責任を感じた。だが、分裂してオウムが終わったならば、もう恩義も責任もないだろう。
それでも、まだどこかに迷いがあった私は、最後にコインを投げて決めることにした。
「表が出ればオウムで生きる。裏が出ればオウムをやめて生きる。どちらが出ても一生懸命に生きよう」
私はコインを投げた。
開いた手のひらの上のコインは裏だった。
少し、ほっとしたような気持ちがした。
正大師と五人の正悟師に、脱会すること、長きにわたってお世話になったこと、多々あったであろう非礼を詫びる短いメールを書いて送信した。挨拶の返信をくれたのはマイトレーヤ正大師だけだった。

私がオウム真理教に入信してから十七年の歳月が過ぎていた。


(1)クリシュナムルティ(1895-1986)インド生まれの宗教哲学者。教師。南インドのバラモンの出身。既存の宗教や哲学によらず、生の全体性に気づくことによる解放を説いた。彼は「真理は権威者を必要とするものではなく、まして集団に属するものではありえない」と言って、あらゆる宗教的権威や教義から離れた。



2015年10月20日

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コメント

No title

最終回が近いこともあり、翌日仕事があるのも忘れて、もう一度はじめから全記事を徹夜で読み直してしまいました。正直、終わってほしくないような、複雑な気分ですね。。

でも、番外編があるとのこと。期待しております。^^
  • | 2015-10-21 | ふー URL [ 編集 ]

No title

この様子を見て、
「真理の団体と、かけ離れてしまった」と思った師の方も大勢いたことでしょう。
わたしはこの大分裂のときすでに元信者でしたが、
漏れ伝わってくるネット上の情報を見ても大差なかったと、
今にして思いました。

「余生だ」なんて仰っていた方もいたようですが、
わたしも「余生」のような状態が今に至るまで続いていますね。
正社員にもなれず、伴侶も得られず、
何だか、時をひたすら待っているような気もしないでもないです。
プロ野球の消化試合みたいですが、
何とかしたい気もないわけではないです。

  • | 2015-10-21 | yasu URL [ 編集 ]

No title

コインの結果が表だったら、裏が出るまで投げ続けていたんじゃないですか?たとえすぐに投げ直さなくても、時間の問題で。
  • | 2015-10-21 | アンダルシアに憧れて URL [ 編集 ]

No title

批判しないという戒律があるんですね。世の中は、悪いものにたいしてはきちんと批判することで、よくあってきているんですがね。
>>「ステージの高い人を批判するのは、重いカルマになるよ」
中間派の言っていることも変ですね。どういう論理で、ステージの高い人を批判するのがどうして重いカルマになるのか。相手が間違っているなら、不正に立ち向かうのが善、つまり世の中をよくするはずです。
まあ、どっちが悪いという話ではなく、みんなが悪いんでしょうけどね。
  • | 2015-10-21 | シルバーストーン URL [ 編集 ]

Re: No title

> 批判しないという戒律があるんですね。

ごめんなさい。批判しないというのは戒律ではありませんでした。そこのところ修正しました。悪口は戒律で禁じられています。批判は修行者の不利益になるという教えがありました。

> 中間派の言っていることも変ですね。どういう論理で、ステージの高い人を批判するのがどうして重いカルマになるのか。相手が間違っているなら、不正に立ち向かうのが善、つまり世の中をよくするはずです。

平静な気持ちで、間違っていることを相手に指摘できるなら、おっしゃるとおりです。しかし、相手に対して嫌悪や怒り、引きずり落ろしたいという気持ちが少しでもある状態での批判は、カルマになると考えているのです。批判した修行者より相手のステージが高い場合は、カルマは重くなります。(説明は省かせていただきますが)

  • | 2015-10-21 | 元TD URL [ 編集 ]

No title

やっぱり麻原が逮捕された時点で終わってるね。

おおっ!
上祐正大師は他の連中よりステージが高い!(笑)
  • | 2015-10-21 | 元R師 URL [ 編集 ]

No title

丁寧な返信ありがとうございます。
>>しかし、相手に対して嫌悪や怒り、引きずり落ろしたいという気持ちが少し>>でもある状態での批判は、カルマになると考えているのです。批判した修行>>者より相手のステージが高い場合は、カルマは重くなります。
悪いカルマを積むのが嫌だからやらない、という発想はおかしな話です。そうではなく、自分のすること、思うことが人に害を及ぼすかどうか、害を及ぼしたくない、という発想であるべきです。
それに、ステージの高い人相手だとより重いカルマ、というのは、人間が、その人の都合が良いように決めたことです。
ステージの高い、というのが、精神的に優れた人、という意味ならば、優れた人を批判するのと、普通の人を批判するのとでは、本来は、優れた人のほうが精神的に傷つかないはずだから、相手に与える害は小さいはずなのです。
シャンティデーヴァの入菩薩行論の菩提芯の説明のところにも、菩薩は、自分が害されても、反対に害を与えた相手を愛するのである、という文が出てきますよね。

ちょうど、似たような趣旨の内容をマイブログに書いたばかりなので、長くなってしまいました。
  • | 2015-10-22 | シルバーストーン URL [ 編集 ]

セミナーで

あるセミナーに参加した時の事
究境の瞑想中 目の前に拘置所が現れ
「生きてるグルがいるというのに」
という言葉が降りてとても考えさせられました。

ある法友は事件後
「グルがいない、グルがいない、グルがいない」と
  悲しみに包まれていたとき
「ここにいるじゃないか」と
優しいグルの言葉が聞こえてきて
グルは絶えずそばにいてくださるんだと思い嬉しかったと
教えてくれました。
いろいろなプロセスがありますね。
      

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