最後のマハームドラー

地下鉄サリン事件前年の一九九四年、今思うと教祖は教団の崩壊に向かって準備を整えつつ、破滅へとアクセルを踏み込んでいたようなところがありました。
六月二十日に省庁制がはじまると、教祖の指示は「大臣」と呼ばれるリーダーたちを通じて降りてくるようになり、教祖と大臣以外の弟子たちに距離ができました。それから一週間後の二十七日、教祖の指示で四人の高弟が松本市でサリンを散布します。そして、三日後の七月一日には出家者のステージ制度が変更され、なかでもクンダリニーヨーガのステージが六つに細分化されたことは大きな変化でした。
「キリストのイニシエーション」によって、「大量成就」と言われるほど多くのクンダリニーヨーガの成就者が認定され、二百人を越えるようになった「師」のステージは、大きく「菩薩」と「愛欲天」の二つに分けられ、それぞれ上から「師長」「師長補」「師」の三段階を設けて、全体が六つのステージになったのです。

新ステージが発表されたとき、私は「愛欲天・TD師長補」でした。
「愛欲天かぁ…」
救済の団体を標ぼうするオウム真理教のなかで、「菩薩」という称号には正統な響きがあるのに対して、「愛欲天」と呼ばれるのは少し不名誉な感じがしましたが、「愛欲天」トップの「師長」には、アーナンダ師、メッタジ師、ウパーリ師など、そうそうたる成就者の名前が並んでいました。彼らは人気のあるいわゆる目立つ成就者で、ワークでも大きな結果を残していましたから、私は名簿を見ながら、自分に与えられた称号を悲しんでいいのか喜んでいいのか複雑な心境でした。
数日後、新しいステージを祝福する式典が第六サティアンで開催されるという通達がありました。ちょうどその式典の日、私は信徒のTさんが起業した会社の新入社員研修セミナーに出張する予定でした。長野県戸隠高原のセミナー会場から式典が行われる第六サティアンまでは、高速を飛ばして四、五時間はかかりそうでしたが、遅くとも夕方四時前に現地を出れば、夜十時から始まる式典に余裕で間に合うだろう…そう見込んだ私は予定どおり長野県へ向かいました。

お昼過ぎに会場につくと、Tさんは私を案内してセミナーの様子を見に行きました。広いセミナールームで熱心にディスカッションする社員の様子を遠巻きにしながら、Tさんは一人一人に鋭い視線を投げて言いました。
「あの人と、あの人。そしてあの人も、面談してもらいたいんです。みんな深い体験をしはじめています」
ヨーガの行法も加えた五泊六日の泊まり込みのセミナーでは、気持ちの変化だけでなく、身体に異常な熱を感じたり、光や色を見るという体験がはじまる人もいて、私は個人面談をして霊的な体験の意味を説明しました。このとき最後に面談したのは、Tさんが修行者として最も期待していたSさんという女性でした。
五日間のセミナーでSさんは潜在意識に深く入っている様子でした。椅子に座って私と対面するなり堰を切ったように泣き出して、心に秘めていたことを話し出したのです。だれにも言えない悪業を話すことは「懺悔(ざんげ)」といって、宗教的にとても重たい意味があります。教団では、クンダリニーヨーガのステージではまだ懺悔を受けてはならないとされていましたから、私は思いがけない事態に困惑しながらも、成り行きにまかせてSさんの言葉に黙って耳を傾けていました。そのうちにSさんも落ち着いてきて、心の重荷を下ろしたのか、最後は晴れ晴れした様子で笑顔を見せて面談を終わりました。

時間は午後三時をまわっていました。私はTさんに「Sさんは修行すると思いますよ」とだけ言い残して会場を後にしました。幹線道路を走って高速道路に入ると行楽帰りの車が多いのか、道路は思ったより混んでいました。松本に近づく頃にはノロノロ運転になって「式典に間に合うかな…」と、少し心配しはじめたちょうどそのとき、「ドン!」と音がして後続車が私の車に追突したのです。
幸い車に大きな損傷がなかったので、急いでいた私はそのまま行こうとしたのですが、だれかが通報したのか、すぐに警官がやってきて「調書を取るから近くの署まで一緒に来るように」と言います。「大事な用事があるから手短に済ませたい」と訴えても聞き入れてくれず、仕方なく追突してきた車と一緒にパトカーについて警察署まで行きました。
なにかの手違いなのか、あるいは優先すべき他の事件があったのか、長い時間待たされた挙句にやっと調書を取り終わりました。
「こんなに物事がスムーズに進まないのは、やっぱり懺悔でカルマを受けたせいかな?」
そう思っていつもより慎重に運転して上九に向かいました。結局、大幅に遅れて第六サティアンに着くと、電話で事情を伝えていたにもかかわらず、私は式典に遅れたという理由でステージを降格されると言われたのです。
「でも…」
私は上司である東信徒庁大臣のサクラ―正悟師に訴えました。
「遅れたのは不可抗力だったんですよ」
「尊師が、TD師が今回のステージに不満を持っていて、その心のあらわれで式典に遅れた、とおっしゃっているのよ」
「でも、事故は私が起こしたんじゃありません。追突されたんです。それに、その直前懺悔を受けていて…」
マハームドラーの修行の見地から、新しいステージに対する私の不満が式典に遅れるという現象を引き起こした――言われていることは頭では理解していました。もし、私が追突事故を起こした張本人なら、式典に出たくないという私の心が事故を引き起こしたと認められたかもしれません。しかし、私は追突された側であり、その直前に重たい懺悔を受けていたという思いもあって、どうしても納得することができませんでした。
翌日「愛欲天TD師長補を愛欲天TD師に降格する。」という通達が張り出されました。
それを一瞥して、私は心のなかで「私は悪くない。絶対に」と強く思いました。

思えばこれが私に対する最後のマハームドラーでした。
「絶対に認めない」と思ったそのとき、私はグルを拒絶したのでしょう。
グルは私という弟子にふさわしいマハームドラーをしかけ、私は「でも…」と抗弁してかたくなに自分を守りました。すべてに対して心の底から「yes」と言ったとき、そこに立ちあらわれるマハームドラーの境地は、あのときの私にはほど遠かったことは今ではよくわかります。
先日、このブログを最初から通して読んでみたのですが、なにか引っかかるものがありました。ステージを降格されたことは「記事にしてもおもしろくないから」書かなかったのですが、もしかするとそれを除外したのは、私のなかであのときの“拒絶”が解除されていないせいなのかも…二十二年も(!)たってやっと気がついて、今回書いてみました。
オウムで修行していた人たちには、それぞれになんらかのグルの「最後のマハームドラー」があったのではないでしょうか。

※Sさんはこのあと入信して、地下鉄サリン事件で教団が混乱するなか出家し、その後も修行を続けました。


早川紀代秀死刑囚の文章①

死刑や無期懲役の判決を受けた弟子たちは、日々どんなことを考えて過ごしているのでしょう。不自由ではあるでしょうが、考えていることは私とあまり変わらないのではないかと想像しているのですが、死刑が確定すると、数人の決められた人としか面会や手紙の交流ができなくなり、死刑囚の今の思いはなかなか伝わってきません。
最近では、中川智正死刑囚が化学専門雑誌に文章を発表していました(『現代化学』(2016年11月号)「当事者が初めて明かすサリン事件の一つの真相」)。私信のやり取りはできなくても、このように不特定多数に向けて書いたものを公表することはできるので、今回は、早川紀代秀死刑囚が書いた「『オウムはなぜ消滅しないのか』を読んで」という文章を何回かに分けて掲載します。(了承してくださった早川さん、ありがとうございます。)

「『オウムはなぜ消滅しないのか』を読んで」と題されたノート34ページ分の文章は、本全体の感想、本のなかで早川さんについて書かれた部分の補足修正、早川さんの印象に残ったテーマについて考察した部分の大きく三つに分かれています。具体的には以下になります。

1.本全体の感想
2.私に関する事件についての補足修正、他
3.後期インド密教の殺人を容認する個所は誤りということについて
4.密教は、煩悩がなくならないということに着目して生まれたという見解について
5.ブッダシャカムニでさえ煩悩がなくなってはいなかったというご指摘について
6.最終解脱者と自称していたことについて

今回は「1.本全体の感想」の部分を掲載します。


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『オウムはなぜ消滅しないのか』(中島尚志)を読んで
早川紀代秀

パラパラと見ると、私のことが書かれている個所があったので、まずそこを読みました。良く書いていただいていたのでホッとしました。(笑)
最初から読み始めて二日ほどで読み終わりました。この手の本(事件を扱った本ということ)で、こんなに早く最後まで読めたのは初めてでした。
元判事で林泰男の弁護人となられた方で、宗教にも詳しい方だけあって、とんでもない邪推や誤解、ピントはずれな見方もなく、事実をきちんと押さえて書かれているという感じがしました。林郁夫についても同感で、あれは法の下での平等を堂々と無視したものです。

ただ、私に関する事件等では、間違いというほどのことではありませんが、少し気になる個所が数か所あったので、それについては後述します。

一読して一番印象に残ったことは、出家制度の意義についてでした。
オウムが、追いつめられ、過激化していった大きな要因に、この出家制度に対する当時「被害者の会」と名のっていた人達とのあつれきがあったと私は思いますが、私達が起こした事件が、あまりにもひどいものであったためでしょう、オウムの事件の出発点とも言うべきこの出家制度への妨害、理解のなさについてや、出家制度の意義についての注目は、まったくといっていいほどありませんでした。
この点を私は、ひどく残念に思っていましたが、自分達がしたことを考えると、「やむをえないのかなあ」と思って、あきらめていました。
でもここに、オウムの出家制度についての意義を明確にし説明しておられる本にめぐり会えて、本当にうれしく思います。
本の題名への解答が、ここにあることを著者は示しておられますが、私もその点同感です。
現在もオウム真理教の後継団体として、「アレフ」や「ひかりの輪」が、なにかと特別視され、危険視されていますが、これらの団体は、「殺人を容認しているわけではない」と、事件を起こしたオウム真理教との違いを明記されている点も我が意を得た思いです。
これらの団体の構成員は、実際、上祐を別にして、教団が殺人にかかわったり、容認していたことを、まったく知らなかった人達で、自分達が教えられていた内容とは正反対のことをグルが指示し、弟子達が実行したことを、いまだに信じられない思いでいることでしょう。
彼らにとっては、自分達になにもやましいところはなく、純粋な気持ちで修行をしていただけなのに、なにゆえ世間から差別され、嫌われなければならないのか、理解しがたいところだろうと思います。こうした社会の無理解や圧力、いやがらせは、結局のところ、彼らの信仰に力を与え、世間の思惑とは裏腹に、教団の存続を確かなものにしていくものと思われます。

その他印象に残ったものとしては、「秘密集会タントラ」(グヤサマジャ・タントラ)の殺人を肯定する内容の考察からのこのタントラの否定、密教は、煩悩はなくならないということから生まれたものという見解、ブッダシャカムニにも煩悩はあったのではないかという指摘、グル麻原が最終解脱者であると自称したことに対する批判、等があり、いずれも興味深いテーマであり、ぜひ私なりに検討してみようと思いました。
簡単に結論が出るようなことではありませんが、一応の検討結果を後に書いておきます。
私にとっては、中島先生のご著書によって、オウム事件や教団のことのみならず、仏教についても、改めて考えさせられ、最近にない興奮を感じることができ、よかったです。

<「2.私に関する事件についての補足修正、他」に続く>


早川紀代秀死刑囚の文章②

『オウムはなぜ消滅しないのか』(中島尚志)を読んで
2.私に関する事件についての補足修正、他

「この教団が初めて犯罪らしき事件に手を染めたのは、ある偶然と言ってもよい事故からだった。それは、真島照之という在家信者が富士山総本部で集団で百日修行をしている時、精神状態がおかしくなり、道場内を走り回り、大声で叫んだりしたことに端を発する。故村井秀夫、早川紀代秀らが、頭を冷やすために水をかけているうちに、水死させてしまったのだ。八八年九月下旬の頃だった。」(『オウムはなぜ消滅しないのか』p24)

真島事件のとき、私は真島さんに水をかけてはいません。状況は次の通りです。
〇食堂で食事をしていると、新実(ミラレパ大師)から、食事が済み次第風呂場へ行くように言われて行く。(何のために行くのかの説明なし)
〇行ってみるとH(医師)らが真島さんに頭から水をかけており、いったい何をしているのか尋ね、しばらく立って見ていた。
〇真島さんの様子がおかしいように見えたので、Hにやめるように言うと、Hが「大師からの指示なので大師からでないとやめられません」と言う。
〇それで、どの大師の指示かと尋ねると、「ラーフラ大師です」と言うので、ラーフラ大師をすぐに呼びにやり、彼からHの行為をやめさせるように言う。
〇ラーフラ大師の「やめ」という指示でHはやめたものの、そのとたん、「あれれ? おかしい…」と真島さんの様子がおかしいことにHが気づき、大さわぎになったという次第です。

「坂本弁護士が長女に向かって、『人を救いたいなら、まずお母さんから救ってあげたらよい。修行をしたいなら、親を泣かせないで、家から通ったらどうですか』と述べた。これに対して早川は、『親とは縁を切っているので、親ではない。娘さんが病気になっても、死んでも帰しません』と答えたという。」(p28)

確かに聞かれたことに対して、教団の当時の規定について説明しましたが、上記のように言ったという記憶はありません。
私が尋ねられて言ったのは、「成就するか、三年間は親元へは帰れない決まりになっています。本人が希望しない限り」というもので、病気については、はっきりとは覚えていませんが、尋ねられれば「病気になっても治療は受けられるので、帰れないでしょうねえ」というように答えたと思います。
坂本さんの関係では、私が事件直後、関係していたのではと疑われたためと思われますが、身に覚えのないことを、私がしたとか言ったとかいうことになっていました。それらは麻原裁判のときに証言しています。上記内容についても、悪役イメージから出てきたものではないでしょうか。私は教団の代表として新実とともに出席しており、教団で決められていたこと以外のことを発言するはずはありません。引用されている内容は、当時の規定に合ってはいません。

「午後九時頃まで待っても坂本弁護士が現れないので早川は自宅にいる可能性もあると考え、麻原に電話で指示を仰いだ。」(p32)

ということですが、私が電話で指示を仰いだのは、岡崎が勝手に坂本さん宅のドアを開け、カギがかかっていないことを発見し、靴があるから坂本さんは家の内いると無線で連絡してきたからです。
岡崎のこの行為(グルの指示でない行為)でドアのキーがかかっていないことが発見されなければ、そのまま終電まで待って終わりか、当日が祭日と気づいた時点で引き上げていました。現に岡崎の行為の少し前、午後八時頃に、私と端本は坂本さん宅へ電話を入れ、もし坂本さんが在宅していれば、今日はそれで中止ということでした。しかし、残念ながら、電話は切られておりつながらなかったため、その後も見張りを続けていたのです。
岡崎は責任を私に押しつけ、自分を小さく小さく見せようとしていましたが、その効果が出た引用ですね。

「軍事武装訓練は、明らかにされているだけでも、九四年四月におこなわれた数十人の教団信徒集団の十一日間に及ぶロシアでも射撃ツアーがある。このとき信徒らはバズーカ砲、機関銃、拳銃などの実射訓練をおこなっている。実際に出かけた信徒から私が直接聞いた話では、ちゃちなほど初歩的であり、滑稽な内容だったようではあるが。」(p41)

ロシアの射撃ツアーは、軍事訓練として企画されたものではなく、ロシア側が外貨獲得のために提案してきた観光ツアーでした(これは取り調べ段階から何度となく説明してきました)。だから内容が初歩的なのは当然です。
おつきあいをしていた政府高官が軍のトップになり、いつも窓口になっていた方から、私へこのツアーの提案がありました。それをグル麻原に伝えたところ、「お金がいるのでしょう。おつきあいとして、お金を落としてあげなさい」ということで、提案を受けることになったのです。ただし、最初は、ツアーの参加者は在家信徒さんや一般から募集するというものでした。ところが希望者が集まらず、しかたなく、サマナ(出家者)を出そうということになったのです。
そこで第一回目では、同じ参加させるのなら、銃器に詳しい者や好きな者を行かそうということになり、そのようなメンバーが行きました。しかし、第二回目では費用が安くつくように、ロシア支部にいたサマナが上祐を含めて参加しました。三回目にいたっては、何を基準に選ばれたのかわからないメンバーでした。予定ではもっと続けるはずでしたが、三回で打ち切られました。十一日間というのは、一回目と三回目が各三日間、二回目が五日間で計十一日間ということです。それぞれ参加者は毎回違っていました。

<(p22)教団ステージについての間違いを指摘した部分省略>

「九〇年二月におこなわれた総選挙で麻原とともに立候補した理由は、九九年にハルマゲドン(オウム教団によれば世界最終戦争)がやってきて世界は大混乱になるという麻原流の説明に現実感覚から見れば納得できないが、麻原の霊的力によって実現する可能性もあると考えたようである。
大きな事件は坂本弁護士一家殺害事件に積極的に関与したことである。」
(p74)

私は立候補はしていません。一人、麻原専属の秘書がいるということで、奥さんか私のどちらかと言われ、「私がします」と言いました。おそらく当時、坂本事件の嫌疑をかけられていたので、私を立候補させたくなかったものと当時も今も思っています。
坂本事件には「積極的に関与」はしていません。

<「3.後期インド密教の殺人を容認する個所は誤りということについて」に続く>


早川紀代秀死刑囚の文章③

『オウムはなぜ消滅しないのか』(中島尚志)を読んで
3.後期インド密教の殺人を容認する個所は誤りということについて

松永有慶氏の『秘密集会タントラ和訳』(法蔵館 2000/06)は私も読みました。
「秘密集会タントラ」(グヤサマジャ・タントラ)をはじめとする後期インド密教の殺人を肯定する部分は誤りであり、魔境の産物という中島先生のご指摘をもってすれば、経典を信じ、それを実行したグル麻原や、それに従った私達弟子達には、少しは情状の余地があるように思いますが、私には経典自体を否定する勇気はありません。
もし、経典が殺生を肯定している部分は魔境の産物だとするならば、すでに『理趣経』において、

世尊は呼びぬ、
「金剛手。」
「もしもそなたがこの理趣(みち)を、
聴きたるのちに身に受持(たも)ち、
日々夜々に誦えなば、
(その人は)
たとえこの世の生類を、
余す方なく殺すとも、
悪の報(むく)いは受くるなし。
ただ受けざるに止まらず、
悪を調(なび)けし報いにて
さとりを得ること遠からず。」
(『和訳理趣経』金岡秀友)

と説かれていますので、空海の持ち帰ったこの経典も、そのように考えなければなりません。

「殺人」は儀式になじまないということについても、確かに、犠牲をささげるバラモンの儀式を否定されたブッダシャカムニの教えは、そのように思いますが、宗教一般からすれば、太古から人身を犠牲にする儀式が宗教行為としてはめずらしくはありませんでしたし、現代においても、呪殺の儀式を行なう宗教が存在することを考えると、儀式としての殺人は、むしろ宗教行為の一つの型として違和感のないものと思われます。
仏教においても、ヒンズー教の影響を受けたとされる密教においては、殺人が儀式化したとしても不思議はありません。この儀式が具体的な記述として残っていないのは、性格上、秘中の秘であったであろうことから、決して文字にされることはなく、極めて限定された形で口伝されていたからではないでしょうか。
実際のところ、チベットでは、密教儀式による殺人が行なわれていた歴史があります。
正木晃先生の私の公判証言によると、チベットでは、チベット語で「ダルレ」日本語訳で「度脱」という呪殺が10世紀から12世紀に猛威を振ったということです。この度脱はオウムの殺人を意味する「ポア」の論理と非常に似ているということでした。この件では、怪僧ドルジェタクが有名なようです。
しかし、だからといって、現代社会において実際に殺人儀式を行なってもいいとは、私も思いません。チベット密教においても、グヤサマジャ・タントラを密教の根本経典に定めたゲルク派開祖のツォンカパが、呪殺を禁止して以来、実行されることはなくなっていったようです。現在のゲルク派トップのダライ・ラマ14世がノーベル平和賞を受賞されたことが、このことをよくあらわしています。
ツォンカパの場合は、戒律を復活させたことで有名ですので、僧としての戒(不殺生戒)を厳守することによって呪殺をなくしていったと思われます。また、チベット密教には、度脱を行なえるのは、死亡した直後の人を生き返らせる能力がある者だけであり、そのような能力もないのに行なえば地獄に落ちるという教えもあり、こうした教えが、実行できる条件というか資格のハードルを高くし、実質上、実行できなくしていったという働きがあったと思います。
グル麻原がこうした実行についての条件や資格について、知っていたのかどうかわかりませんが、実行する資格がなかったことは、真島さんの事件のときに、生き返らせることができなかったことから明らかです。
またチベット密教での度脱は、あくまで、呪殺によるものであり、弟子をまきこんで、弟子を使っての殺人ということについては、まったく論外のことと言わねばなりません。

<「4.密教は、煩悩がなくならないということに着目して生まれたという見解について」に続く>


早川紀代秀死刑囚の文章④

『オウムはなぜ消滅しないのか』(中島尚志)を読んで
4.密教は、煩悩がなくならないということに着目して生まれたという見解について


密教が、煩悩はなくならないということに着目して生まれたというのは初めて知りました。確かに煩悩は、そう簡単にはなくなってくれませんが、最終的には、密教も顕教と同じく、煩悩の滅尽をめざしていると思っていました。
顕教と密教では方法が違い、顕教は煩悩を捨断する道で、密教は煩悩を変化させる道というのは聞いていましたが、変化の道でも煩悩は聖なるものに変化するので「なくなる」という認識でした。
しかし、これが「なくなったのではない」という意味にとるなら、言葉は違っても同じことなので問題はありませんが、もし煩悩が煩悩のままでなくならないという意味でしたら、少なくともオウムが影響を受けたチベット密教におけるゲルク派の考えとは合わないと思いました。
ゲルク派は、ダライ・ラマをはじめ、開祖ツォンカパの教えに従っていますが、ツォンカパのガクリムチェンモ(真言道次第広論)等によると、煩悩が完全に断滅された状態がブッダであるとしています。
大乗仏教では、煩悩を煩悩障と所知障の二つに分けますが、菩薩の十地のうち第七地までに煩悩障を断滅し、第八地から第十地までの間に所知障を断滅するというのが、中観帰謬論証派の修道論であり(『ツォンカパのチベット密教』齋藤保高 )、中観帰謬論証派に属するチベット仏教では、密教といえどもこれに従っています。チベット仏教における顕教と密教の違いは、もちいる手段(方法)が異なるだけで獲得される成果(境地)に違いはないとされています。(前掲書p41参照)
確かにチベット密教の成就法を読むと、「これこれは、菩薩の第〇地の段階」という解説があり、密教といえども顕教と同じ修行レベルを想定していることは確かです。(例えば、『Clear Light of Bliss』Geshe Kelsang Gyatso によれば「真言の悟りは第八ステージの菩薩、不浄の幻身の達成は第十地の菩薩と同じ。不浄が虹のように消えて、清浄な幻身が生まれるとブッダになる」というようなことが書かれています。)
また、ブッダとなった状態についても、具体的にどのような状態かを説いているので、自分がブッダになったのかどうか、間違えようがありません。
ツォンカパによると、ブッダになっていない聖者方は、無明を断じていないため(所知障があるため)、空性を直覚するサマディに入った無顕現のときと、サマディから出たときの顕現を伴う分別のあるときとが、同時には存在できないのに対して、ブッダ方は、妄分別が消失しているので、これが常に同時に存在しているということです。
一九八九年頃に、グル麻原といたときに、彼が「普通にこうしていても、サマディに入っているときと同じように見えるんだよ。今はそういうレベルになった。」と私に言ったことがありました。ここでのサマディが空性を直覚するサマディなのかどうかは知りませんが、日常生活をしていても、サマディのときの体験を同時にすることができるようになるということは、グルの体験としてオウムでも言われていました。
また、タントラ・ヴァジラヤーナの実践は、ステージを上げていくスピードは極めて早いけれど、ステージそのものは、大乗(顕教)や小乗のものと変わらないという見解をオウムもとっていました。つまり密教の最終ステージは顕教と同じく煩悩破壊という認識です。しかし、密教に入ったときは、まだ煩悩があります。この点についてはオウムもチベット密教を見習って、一定の煩悩捨断ができるステージでないと、入れないようにしていました。教団の重大事件の実行犯が教団の末端信者ではなく、教団幹部であったのはこの理由によります。いきなり密教に入るようなことはしないし、させなかったのです。
顕教から密教へ、そして密教による完全煩悩破壊とブッダの色身の達成という修道論を今でも私は信じています。ただし、殺人を含めた実践はぬきで…。

<「5.ブッダシャカムニでさえ煩悩がなくなってはいなかったというご指摘について」に続く>