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女性と修行

「女性差別と宗教」を研究テーマにしている宗教学者の方に、オウムではどうだったか聞かれたことがあります。私はこんなふうに答えました。
「オウムに女性差別はありませんでしたよ。女性だから修行を成就できないということもなかったし、弟子の最高位だった正大師になった人も男女半々いました。オウムの女性は、みんな元気で強かったですよ」

信徒になった頃、私は教団で活躍している女性修行者を見て、単純に「カッコいいなぁ」とあこがれていました。彼女たちには女性が本来持っている強さ――硬直した強さではなく自然でしなやかな強さがあるように見えたからです。あれから二十年以上たって、今はつくづくと「修行って、絶対に、カッコいいものじゃないよね。もし修行者がカッコよく見えるとしたら、それはまだ修行のとば口にいるってことなんだろう」と思うようになりました。
「修行」と言った場合、ヨガのポーズをしたり、マントラを唱えたり、呼吸法をしたり、瞑想することを想像する人が多いかもしれません。でも、このような行法の目的は「自分の心の働きに気づき、止めること」ですから、特別な行法をしなくても心の動きを観察できるなら、それは立派な修行といえます(もちろん簡単にできることではありませんが)。私は、菊地直子さんの手記を読んだとき、あらためてこのような修行の意義を考えました。

菊池直子さんはオウム事件後すぐに殺人・殺人未遂容疑で指名手配され、十七年間の逃亡生活の後、逮捕されました。そして、高等裁判所が菊地さんに下した判決は「無罪」。私は「裁判所も、やっと当たり前の判断をしたか…」と思いましたが、ネットでは「なにもしていないならどうして十七年も逃亡していたのだ」「なにかやましいところがあるから逃げていたんだろう」という批判も多くありました。
私も「菊地さんはなぜ逃げていたのだろう?」と不思議に思っていました。オウム事件の実行犯はすべて男性の高弟で、「男たちのヴァジラヤーナ」と断定してもいいくらい女性の弟子はかかわっていませんでした。まして教団の幹部でも準幹部でもない菊地さんが、長年にわたって逃亡しなければならない大罪があるとはとても思えなかったのです。その疑問が手記を読んでやっと解けました――彼女は恐怖のために逃げていたのです。そして、菊地さんは「もうオウムを信じていない」と言っているようですけれど、彼女が修行者であることには変わりないと思いました。

菊地さんの手記は、普通に読めば「でたらめを書いた『週刊新潮』と戦った」という内容ですが、修行者の目で読むと彼女が自分のなかにある「恐怖」に気づき、それを見つめ、あきらめないで行動を起こし、恐怖を克服していく様子が書かれています。もしかするとこの恐怖こそ、菊地さんが若くして家族から逃げるようにしてオウムに出家した原因の一つだったかもしれません。そして、自分の心にある恐怖こそが現実を、つまり自分の人生を作り出していることに気づきます。このように心の観察を通じて現実を見ているところが、私が菊地さんを修行者だと思う理由です。菊地さんはオウムによって多くを失いボロボロになったでしょう。それでも彼女の人生を支配していた恐怖というものを克服して、オウム裁判のなかでは奇跡に思える無罪判決を言い渡され解放されるときは、本当に強い女性になっていたのではないかな…そんなふうに思いました。
同じ女性修行者として心から称賛します。

菊地直子さんの手記『「走る爆弾娘」と呼ばれた非日常すぎる状況』(雑誌『創』2015年8月号)はこちらからどうぞ。↓
「逆転無罪判決!オウム元信者・菊地直子さんの手記を公開します」


啓示、そして破滅

山岸凉子さんの『レベレーション(啓示)』(講談社モーニング KC)を読んで、「神の啓示」が人にどんな影響をおよぼすものなのか、あらためて考えさせられました。
ジャンヌ・ダルクを主人公にしたこのマンガは、まだ連載中で完結していませんが、1巻・2巻を読むかぎり、神の姿を見、神の言葉を聴き、神の啓示にしたがった人間の運命がテーマのようです。山岸凉子さんが描くジャンヌ・ダルクは、「神秘体験」に突き動かされて進んでいきますが、このあたりどの程度史実に即しているのか、少し興味を持って調べてみました。
ジャンヌ・ダルクの研究は歴史学者や神学者によるものだけでなく、ジャンヌ・ダルクが経験したとされる神秘体験(神々のヴィジョンと神からの声)について精神医学分野のものもあるようです。山岸凉子さんはそのような資料に基づいて「神秘体験」を正面にすえてジャンヌ・ダルクの生涯を描こうとしています。
15世紀のフランス、農夫の娘ジャンヌ・ダルクは、神の声に導かれて困難な戦いに勝利していきますが、最後は捕虜となり「魔女」「異端」であるとして火あぶりの刑に処せられました。ジャンヌに啓示を与えた神は、敬虔な乙女に奇跡のような栄光を与えながら、まるで“生贄(いけにえ)”を欲しているかのように破滅へと導いていきます。
清らかな心で神の啓示にしたがった人間がなぜ破滅に導かれるのか? 大きな矛盾をはらむ受け入れがたい結末ですが、この現実をありのままに受けとめるなら、神の啓示のままに進んでいったからこそ、最後に手ひどく神に裏切られるという「反転・パラドックス」の運命が待っていた…ということではないでしょうか。神の子イエス・キリストの運命にも同じようなパターンがみられます。私は、オウムの研究も踏まえて、神につながる「霊性」を突き詰めたところにあらわれる、これは一つの真実なのかもしれないと思いました。

このブログで「オウム事件に不可解さが残っているとしたら、霊的な問題がわからないからではないでしょうか」と書いたことがあります(1)。
裁判ではもちろん、オウムについて書かれた本のなかでも、教祖が「シヴァ神」の示唆にしたがっていたことは問題にされませんでした。弟子の神秘体験については信仰の動機としてふれられることはありましたが、教団の中心にいた教祖の神秘体験についてはほとんど顧みられることはありませんでした。
しかし、弟子たちが教祖の指示に無条件にしたがっていたように、教祖は神の姿を見、神の声を聴き、その示唆にしたがって教団の進む道を決めていました。教祖のそばにいた者なら――教祖の家族であれ教祖を批判するようになった弟子であれ、教祖が教祖の神とひんぱんに交感していたことを否定する人はいないでしょう。
富士山麓に総本部道場を建立することを決めたのも「富士山が爆発する。噴火を鎮めるために富士に道場を建てろ」というシヴァ神の示唆があってのことでしたし、修行中の信徒が過失で亡くなったとき、教祖はその事故を「ヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だ」ととらえたといわれています(早川死刑囚著書)。日々休むことなく神々を供養していた教祖は、「今朝、シヴァ神から示唆があって…」と言って説法をはじめたこともありました。こんな例は枚挙にいとまがありません。教祖がシヴァ神という目に見えない存在から大きな影響を受けて教団のすべてを動かしていたことは、あらためて言うまでもないほど、オウムでは日常的なことでした。

現代では、神の姿を見る人もなく、神の声を聴く人もなく、「啓示」は「妄想」だとされ、たとえ神が語りかけたとしても、耳を傾けるのは精神病院にいる人たちくらいなのかもしれません。私は「啓示」なのか「妄想」なのか、あるいは「神は存在する」か「存在しないか」という議論をするつもりはありませんが、人は神の姿(ヴィジョン)を見るということがあり、神の声を聴くということがあり、そのような体験をした人は神の「啓示」だと直感して、はかり知れない影響を受けることを、オウムという体験を通じて学びました。
事件から長い時間がたって、霊性に関するこのような重く深い教訓が少し理解されるようになるかもしれません。『レベレーション(啓示)』を読んで、そんなことを思いました。

(1)「雑考01.神秘体験について
関連記事はこちら↓
黙示録の神とキリスト

【注意】マンガは完結していないので読まなくていいですよ…。


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