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十年という時間

教団を脱会したとき、漠然とこう思いました。
「オウムという経験をおしまいにするには最低五年、もしかすると十年かかるかも…」

そういえば…今年2016年は、オウム事件から二十一年目。
私が教団をやめてから、ちょうど十年目だったんですね。
二十一年というのも、七の三倍という大きなサイクルの終わりです。
近ごろ、長い長いトンネルを抜け出したような気持ちがしていました。
この深い闇は明けるはずがないと思ったときもあるんですけどね。
やっぱり、どんなことにも終わりはくるんだなぁ…。

私の予感、的中したのかもしれません笑



カルトのたのしさ

テレビや雑誌で「カルト」という言葉がつかわれはじめたのは、平成に入ってからのことだったと思います。私がオウムに出家した頃、「オウム真理教はカルトだ!」という記事が週刊誌に載っていました。今でこそオウムは「破壊的カルト」の代表選手みたいなものですが、当時はまだカルトという言葉はそれほど知られていませんでしたし、オウムもよくわからない新興宗教のひとつにすぎませんでした。
オウムのかけだし編集部員だった私は、週刊誌の記事をざっと読んで、
「オウムのことカルトだって書いてありますよ」
そう言って、編集長に週刊誌を渡しました。
雑誌のカルトの定義を読んだ編集長はこう断言しました。
「オウムはカルトだよ。真理の、カルト教団です」
「真理の」というところを強調して言っていましたが、教団内部ではものごとをけっこうクールにありのまま見ているんだなと、ちょっとびっくりしました。

長年オウムというカルトにいた私は、カルト対策について少し気になることがあります。
よく「カルトは怖い」「おそろしい」から近づいちゃいけないといわれるのですが、カルトのおそろしさばかりを強調すると逆効果の面があります。カルトは外からは怖いものに見えるでしょうが、なかに入ってしまえば「カルトはたのしい」ものです。実際には「カルトはたのしい」だから「おそろしい」のです。
そして、私はカルトのメンバーというのは気持ちのいい人たちではないかと思っています。オウムの人だって、やさしいし、まじめだし、悪口は言わないし、人のためになろうと献身的だから、つき合いやすくて居心地がいい。オウムにいる人たちは、なにかが怖くてオウムから出られないのではなくて、オウムが好きだから、居心地がいいからそこにいるのです。
そういうことを踏まえていないと、ヨガサークルに入っていたら、あとでそこがオウムだったと知ったけれど、みんなびっくりするほど良い人たちだった……ということになれば、オウムの言うとおり「マスコミや世間の情報はまったく信用ならない」と思いかねません。そこから「事件は陰謀だった」「オウムははめられたんだ」と思うに至るまでの距離はそんなに遠くないでしょう。

カルトには現実社会では味わうことのできないある種の心地よさがあって、フィーリングが合って信じてしまうとそこはとても居心地のいい場所になる。カルト対策は、「カルトは怖い」と強調するだけでは片手落ちで、「カルトのたのしさ」と、それが気づかないうちにおそろしい結果につながっていく可能性について、詳しく伝えていくことが大切だと思うのですが。


信じているとか、いないとか

東日本大震災があった年の暮れ、逃走していた平田信さんが突然出頭してきました。報道では、彼が取り調べ中に座法(修行のときの座り方)を組んでいるようだから、まだオウムを信じているに違いないと書かれていましたが、
「座法を組んでいるからって、それはちょっとどうかな…?」と思いました。
高橋克也さんが逮捕されたときは、座法を組んでいるだけでなく持っていた荷物のなかに教祖の写真や著書があったので、「いまだに麻原とオウムを信じている」と言われていました。
「まあ、そうなんだろうなぁ…」と思いました。
そして、平田さんも、その後逮捕された菊地直子さんも、弁護士を通じて「もう麻原さんもオウムも信じていません」という声明を発表しました。彼らの思いがどう変遷していったのか、真実はどうなのかわかりませんが、裁判の前にきちんと信仰を否定するという方針だったのでしょう。高橋さんは信仰を否定していませんが、信じていようがいまいが無期懲役は避けられない状況でしたね。

朝日新聞の記者・降幡氏が書いた『オウム法廷』(朝日文庫)のなかに、彼が裁判を傍聴しているなかでびっくりしたことが書かれていました。中川さん(中川智正死刑囚)が法廷でこう言ったからです。
「私は麻原氏の最終解脱を信じていなかった」
私はそこを読んで「あ、それ、よくわかる…」と思いました。
おそらく降幡氏は、教祖が「最終解脱した」と言えば、弟子はそれを盲目的に信じるものだと思い込んでいたのでしょう。
私はオウムに入信してから出家しているあいだも、教祖とオウムを全面的に信じるということはありませんでした。いつも「ほんとうかなあ…」という思いがどこかにあって、自分が納得するまでは「保留」にしていることがたくさんあったのです。
中川さんもそうだったのかもしれません。

人がなにをどう信じているか、外からはわからないものです。蓮華座を組んでいるから、著書を持っていたから、教団にいるから、オウムを信じているとは言い切れません。同じように、教祖の写真を破ったから、批判しているから、脱会しているから、「早く処刑しろ」と言っているから、教祖を信じていないとも言い切れません。あるいは、「私は絶対、信じている!」と言ったとしても、その人がそう思い込んでいるだけで、本当は違っていたということもあります。反対に、私のように「信じてはいなかった…」と言っていても、私がそう思い込んでいるだけで…ということもあり得ます。本心なんて、自分にもなかなかわからないものですよね。

オウムでは天地がひっくり返るように、信が疑に、聖が邪に、善が悪に、尊敬が軽蔑に、栄誉が恥辱に、光が闇に…と、ありとあらゆることが暗転してしまいました。つくづくと、この世には確固たる価値はないんだな、本当に無常だな…そんな思いが残りました。


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