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シヴァ・ビンドゥ01

オウムとはなんだったのか――私はずっと考えてきました。寝てもさめても考えていましたから、とり憑かれてしまったようなものでした。いったいなぜあんなことになってしまったのか、あそこでなにが起こっていたのか…オウムの宗教世界観に基づいて理解できなければ、オウムという体験を乗りこえることはできないだろうと思いました。
そして、オウム試論として最初に書いたのが「シヴァ・ビンドゥ」(2011年)でした。もともとは知人だけに公開したものですが、私と同じような問いを長年にわたって抱えている元オウム関係者の参考になればと、手直しして公開することにします(2016年ヴァージョン)。
以下は、オウム事件の宗教的解釈です。できるだけ専門用語を使わないように心がけていますが、読み手がオウムの宗教観を理解していることを前提に書いています。もちろん、宗教的な解釈と現実的な裁きを切り分けることは言うまでもありません。

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オウムとはなんだったのか。もちろんオウムは宗教でした。私たちはヨーガによる気の鍛錬と、仏教の教えにもとづいた教学や瞑想をしていました。布施、奉仕にはじまり、戒律を守り、真理を学び、瞑想し、教祖を霊的な指導者と仰ぎ、救済のお手伝いをしているつもりだったのです。
そして、事件が起きました。サリンという猛毒ガスを地下鉄にまいて、なんの罪もない多くの人びとを殺傷したのです。それを指示したと思われる教祖は多くを語らず、死刑を宣告され、狂気のなかにいるように見えます。
いったい、なぜこんなことになったのでしょう?

私たちは、宗教は「真理」に至る道だと教えられていました。山の頂上へ登るためにさまざまな道があるように、ヨーガも、仏教も、チベット密教も、キリスト教も、それぞれ違う宗教ではあっても真理という頂への一つの道なのだということです。オウムは真理を求める、まさに「真理教」というべき宗教でした。教義を学ぶことも、激しい修行も、グルを観想するということも、すべては真理に至るために、すなわち解脱し悟るためにありました。

では、オウムの「真理」とはいったいなんなのでしょうか? 
この問いに対して、オウムにいた人からはこんな答えが返ってくるでしょう。

「真理とは、カルマの法則です」
「真理とは、無常であること、すべては変化するということです」
「真理とは、四諦・八正道です」
「真理とは、グルです」

ここで私は、オウムの真理を「グヤサマジャ」というイメージでとらえて考えたいと思います。グヤサマジャは、オウムのすべての祭壇の中央に掲げられていた宗教画でした。祭壇はオウムの神と修行者をつなぐものです。事件後、弟子のなかに祭壇に教祖の写真を掲げる者もいましたが、教祖は「グルを意識しなさい」と教えたことはあっても、自分の写真を祭壇に掲げるよう指導したことは一度もありません。オウム真理教の祭壇の中央には、終始一貫してグヤサマジャが掲げられていました。グヤサマジャこそオウムの「真理」、そしてオウムの主宰神「シヴァ大神」の象徴でした。

グヤサマジャは、シヴァ大神とパールヴァティー女神の合一を描いている宗教画です。男神と女神、男性エネルギー(陽)と女性エネルギー(陰)の合一は、チベット密教でいうヤブユム・男女両尊です。
このように陰と陽という正反対のエネルギーが合一することは、ヨーガでは左気道(イダー管)と右気道(ピンガラ管)の統合としての中央気道(スシュムナー管)への道として表現されています。この中央気道への道を仏教では「中道」と表現しているように思われますし、道教の「道(タオ)」をあらわす「太極図」もまた「陰」と「陽」という対立するエネルギーの調和をあらわしたシンボルです。

グヤサマジャ
グヤサマジャ

シヴァ神(男性エネルギー)とパールヴァティー女神(女性エネルギー)の合一。男性原理と女性原理という「対立物の統合」。


三管の図
三管の図

ヨーガにおいて、左の気道(イダー管)と右の気道(ピンガラ管)を浄化し、中央気道(スシュムナー管)へとエネルギーを導き入ることは、左と右の「対立物の統合」をあらわす。


太極図
太極図

陰(女性エネルギー)と陽(男性エネルギー)の統合・調和としての「道(タオ)」の状態をあらわす。


このように、オウムの祭壇に掲げられていたグヤサマジャがあらわす真理とは、「対立するもの(両極)が結びついたところにあらわれるもの」ということができます。オウムはこのような真理=「シヴァ大神」を信仰する宗教で、教祖は弟子を真理(シヴァ大神)へと導くグルでした。
そして、オウムにはもうひとつ重要な統合のシンボルがありました。「磔刑(たっけい)のキリスト」です。
ヨーガ、グヤサマジャ、太極図が対立物の統合を表現していること、仏教の「中道」もまた同じ意味合いを示すだろうことは理解しやすいかもしれませんが、「磔刑のキリスト」も同じ統合のシンボルだと思う人は少ないかもしれません。
「磔刑のキリスト」とは、「垂直軸(縦)」と「水平軸(横)」の交差点・結合点で犠牲(いけにえ)となった者をあらわしています。
象徴的に垂直は「男性エネルギー」をあらわし、水平は「女性エネルギー」をあらわしますから、「磔刑のキリスト」とは、上と下、右と左という対立物の統合点(中央)で殺された者ということになります。
ですから、悲惨なイメージとしてあらわされてはいますが「磔刑のキリスト」もまた、グヤサマジャと同じく「統合のシンボル」であり「中央への道」を示す象徴だといえます。

磔刑のキリスト(ディエゴ・ベラスケス)
磔刑(十字架)のキリスト

教祖は実際に木製の十字架を作らせ、「キリスト礼拝祭」と名づけた祭典で自分自身十字架にかかった姿を演じました(1993年3月2日)。
『キリスト宣言』という書籍の表紙を製作したときには、「表紙の絵は十字架にかかったキリストを描くこと。キリストの顔はわたしで、それもできるだけリアルに描くように」と厳しく指示していました。

キリスト宣言
キリスト宣言の表紙

「キリスト」について、教祖は次のように言いました。
「サハスラーラから『ドン!』と、妙なエネルギーが入ってきた。そして、『イエス・キリストになれ』という言葉があった」
また、教祖は「キリスト」という言葉のもともとの意味が、「頭に油を塗られた者」であることにも言及していましたから、頭頂から妙なエネルギーが入ってきたことを、「頭に油を塗られた者」としてのキリストだと感じたかもしれません。


シヴァ・ビンドゥ02

オウムの真理は、祭壇に掲げられたグヤサマジャをはじめとする象徴があらわすように、「対立するもの(両極)が結びついたところにあらわれるもの」だとすると、「なしたことが返ってくる」というカルマの法則も同じことを言っていることがわかります。「他人になしたことが自分に返ってくる」ということが真実だとするならば、自分と他人(主体と客体)は同じだということになります。
「カルマの法則」を頭で理解するだけでなく、体験として悟るとき、そこには自分と他人がひとつに統合されている意識状態があるはずです。オウムの修行者は、自分(主体)と他者(客体)が融合する「サマディ」(三昧)という究極の瞑想状態を目指していました。

「対立するもの(両極)が結びついたところにあらわれるもの」は、「白」と「黒」を混ぜ合わせてできる「灰色」ではありません。そもそも頭で理解することはできないものです。

対立するものが結びついたところにあらわれるもの

<対立するもの(両極)が結びついたところにあらわれるもの>

このようにオウムの主宰神「シヴァ大神」を、「対立するもの(両極)が結びついたところにあらわれるもの」に関連していると考えると、クンダリニーも同じ働きをするエネルギーであることに気づきます。ヨーガの身体観では、尾てい骨に眠るクンダリニーを覚醒させると、背骨に沿って第一チャクラから第七チャクラまで、交差する左右の管を上昇していくとしています。このときクンダリニーは左右および基底部(地)と頭頂部(天)という対極をつないでいくのですから、クンダリニーとシヴァ大神は同じ性質のものということもできます。

オウムの世界観「コーザル(無色界)」→「アストラル(色界)」→「現象界(欲界)」という三界の構造にそって、オウムの神のありようを整理して図に示してみます。

・見えない世界(神の光、集合無意識、コーザル界、無色界など)にシヴァ大神の法身(データ・エネルギー)がある。それは「対立物を統合する」働きをするエネルギーである。
・見えない世界からイメージの世界(夢の世界、アストラル界、色界)に降りてくると、それはグヤサマジャや太極図や十字架や、その他、さまざまなマンダラ的な統合のイメージ群としてあらわれてくる。
・このような幾何学的なマンダライメージは、現象界(意識、欲界)に近いところでは、「人物像」(変化身)となる。たとえば、イエス・キリストやヘルメスやホルスやスサノオといった人物像。


sankainokami.jpg


このような神の化身である人物像は「トリックスター」と呼ばれ、西洋・東洋を問わず、世界のあらゆる神話のなかで「対立物を結びつける」働きをする人物として登場します。
トリックスター的人物像に共通する性格・性質は「二重性」「両義性」です。
これは「A」と「反A」という対立するものがあるとき、たとえばそれを「善」と「悪」とした場合、二極を統合する働きのあるトリックスターは、善と悪という二つの性質をあわせもっています。そのためトリックスターは常に「矛盾」をはらんだ存在になります。

イエス・キリストという人物像のトリックスター的側面を例にあげると、イエスにみられる「二重性」「両義性」の最大のものは「神の子」というあり方ではないでしょうか。「神の子」とは、神の性質と人間の性質の両方を持っている、つまり、神でもなく人間でもない、神でもあり人間でもある、神と人間の中間に位置する存在だということになります。また、イエスは「罪人」として処刑されて「救世主」になりましたが、ここでも「罪人」と「救世主」という矛盾する性質を背負っていることがうかがえます。これらはイエスのもつ「二重性」「両義性」といえるでしょう。
イエスが、神の世界(あの世・天国)と人間の世界(この世)の橋渡しをするトリックスター的働きをするならば、このように「神」「救世主」と「人間」「罪人」両方の性質をおびていなければならないのでしょう。



シヴァ・ビンドゥ03

教祖はなぜ地下鉄サリン事件を指示したのでしょうか。村井秀夫氏が亡くなってしまい教祖が語らない以上、指示したということが推測にとどまるにしても、そのような重大な決定が教祖抜きということはありえません。
地下鉄サリン事件は動機がはっきりしないといわれています。現実的に考えると意味(動機)がわからない――地下鉄にサリンをまいた結果、教祖も教団も壊滅的な打撃をこうむるだけで利益がないとするなら、そこに宗教的な動機を考えるしかありません。そうすると答えは意外に単純なのではないかと思います。
それはサリン事件の実行犯の弟子たちが、「グルの意思の実践」「救済である」と、本気で信じて犯行におよんだと言っていることと同じ理由――教祖にとってそれがシヴァ大神の意思の実践であり、救済だと真剣に信じていたからではないでしょうか。
オウムでは「グルの意思は絶対」と考えて実践することが修行とされていました。故・村井氏のように修行ステージが高いといわれた弟子ほど、無思考の帰依をしようとしました。このような弟子の姿勢は、グルである教祖と教祖を導いてきたシヴァ大神との関係と同じものです。もし、オウムの神に対して教祖が帰依していないなら、どうして弟子がこれほどまでにグルに帰依しようとするでしょうか。
教祖は、シヴァ大神の意思を遂行するために、内なる声にしたがって地下鉄サリン事件を実行したと考えるのが、オウムの世界のなかでは自然だと思います。内なる声は信じる人にとっては「啓示」ですが、そうでない人にとっては「妄想」という狂気です。

では、シヴァ大神の意思とはなんでしょうか。それは「キリストになれ」ということでした。キリストになるとはどういうことでしょうか。教祖の説法によれば「ほふられた子羊」になること、さらし者になるということでした。さらし者になるのは当然、罪人、極悪人、最低最悪の人間です。
なぜ、悪になることが救済につながるというのでしょうか?
シヴァ大神の「キリストになれ」という意思によって、ほふられること――罪人として、極悪人として、最低最悪の人間として殺され犠牲(いけにえ)となることは、教祖が「最高の意識」と定義していたシヴァ大神の世界を、この世に実現することにつながるからではないか。言いかえれば、「最低」のものを通して「最高」のものがやってくる、という非常に奇妙な考えが成り立つからではないか。
しかし、「悪」であることが「救済」になるという、そんなばかげた宗教観が成り立つものでしょうか?

太極図を見てください。太極図は「陰極まって陽となる、陽極まって陰となる」という言葉が示すとおり、対立しているように見えるものは、その極まりにおいては正反対のものへと転換するという世界観です。古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、これを「エナンティオドロミア」と言いました。

太極図
太極図

対立しているように見える「善」と「悪」、「最低」と「最高」などという対立物は、真実の世界(真理・全体性)では同じもの、あるいは同じように作用しているものだというのです。これをオウムでは「苦と楽は表裏」と言いましたし、「カルマの法則」が真理だといわれるゆえんです。他人になしたことが自分に返ってくるということは、自分と他人は同じだという真理をあらわしています。光あるところには必ず影があるように、陰と陽は切り離すことのできないひとつの全体です。しかし、最高のもの(善・光)が最低のもの(悪・闇)でもあるというパラドックスは、あまりにも矛盾しているために人は受けいれることができません。この真実は、とらえる側の分裂した意識が統合されたとき(サマディに入って)はじめて悟ることができるとされています。

太極図のなかに「陽中の陰」「陰中の陽」と呼ばれる点があります。これは陽が陰へと転換していく転換点であり、同様に陰が陽へと転換していく転換点です。

陰中の陽、陽中の陰

すべての人に忌み嫌われ、憎まれ、蔑まれ、罵られ、最低、最悪の人間の烙印を押されることは、人びとの意識から拒絶され、追い出され、捨てられ、遠ざけられ、無意識の闇のなかへ沈むことに等しいといえるのではないでしょうか。「頭に油をぬられた者」「ほふられた子羊」としてのキリストは、このようにして世紀の変わり目に、私たちの内奥に転換点として埋め込まれようとするものだとしたら。
「シヴァ」はリンガ(男根)であり、世界を「創造する力」です。「頭に油をぬられた者」「ほふられた子羊」は、人びとの意識の内奥へと侵入するシヴァ・リンガのビンドゥ(種子)として埋められ、来たるべき新しい世界の創造のために犠牲となる。これが「頭に油をぬられた者」として聖別された「キリスト」という象徴の意味なのではないでしょうか。

ほふられた子羊は、この世界にシヴァ大神の「最高の意識」、教祖の言葉を使うなら最高の光である「慈悲」があらわれるために、「最低の者」としてさらし者になり、転換する時代のシヴァ点として犠牲(いけにえ)になる――これがシヴァ大神の意思だと考えて、それを実践する僕(しもべ)として悪を犯していったなら…絶対的な悪そのものとなり、さらし者になり、殺されることが世界を救済することになるという妄想を中核にして、あの数々の惨い事件が引き起こされていったなら、これこそオウム事件の本当の恐ろしさであり、麻原彰晃の正真正銘の狂気性なのではないでしょうか。


シヴァ・ビンドゥ04

私はオウムという宗教に出合って、そこで生きることになりました。人生のある長い期間、とんでもないものに巻き込まれていたのだと思います。教団を脱会してからも、私は、あの光とエネルギーにあふれていたオウム世界と、陰惨な一連の事件がどう結びつくのか考えてきました。
神の啓示にしたがってほふられる道を歩む――という教祖の宗教的信念、あるいは妄想によって、一部の弟子たちは取り返しのつかない罪を犯し、多くの罪のない人たちを犠牲にしました。獄中の教祖は十年以上言葉かけにも反応せず、家族とも弁護士とも意思の疎通がなく、狂気のなかにいるようです。自分で用便を足すこともできず、人目をはばからず射精するという教祖の様子をどう考えたらいいのでしょうか。オウムの神は、最後には教祖の意識をも呑み込んでいったのではないでしょうか。シヴァはリンガ(男根)であり、ビンドゥは種子(精子)です。自由を失い、名誉を失い、多くの弟子の信頼を失い、正気をも失い、精神が破壊されてなお、教祖の肉体はこの神の本質をあらわそうとしているようです。

ここでオウムの主宰神である「シヴァ大神」について考えてみます。オウム真理教富士山総本部道場の祭壇は、全国各地の支部道場とは少し違っていました。支部では祭壇にグヤサマジャだけを掲げていましたが、総本部の祭壇には、中央のグヤサマジャは同じでしたが、向かって右側にシヴァ神、左側にビシュヌ神のかなり大きな二枚の絵が置かれていました。この配置については説法などで公式に説明されたことはありません。

fujisaidan.jpg
<富士山総本部道場の祭壇の構図>

富士道場の祭壇の構図を、私は不思議に思って見ることがありました。
「グヤサマジャの隣に、なぜシヴァ神があるんだろう…グヤサマジャはシヴァ大神なのに…?」
創造・維持・破壊を司るブラフマン・ビシュヌ・シヴァの三神はひとつの神の三面をあらわしているといいます。では、富士山総本部道場の祭壇では創造神ブラフマンはどこにいるのでしょうか? 
ビシュヌ神とシヴァ神の絵が左右におかれているなら、当然、祭壇中央のグヤサマジャ(シヴァ大神)が「創造」(ブラフマン)をあらわしていると考えられるのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、オウムの主宰神であるシヴァ大神は、破壊神シヴァの名前を持ち、同時に世界を創造するブラフマンが重ねられている――「破壊」と「創造」という対立原理を両立させる神を象徴していることになります。

このような神を内的なグルとしながら、教祖はいつしか徐々に同一化していったのだと思います。それがオウム事件の主たる原因だったのではないでしょうか。左手で悪をなし同時に右手で善をなすような、破壊と創造という対極の両面をもっている神と同化すれば、畏ろしい結果になることは言うまでもありません。
教祖を信じていた弟子は、たとえ「なにか、おかしい?…」という思いがよぎったとしても、歩みを止めることはありませんでした。実行犯の弟子の多くは厳しい取り調べを受けて、はじめて事件の重大さに気づき「はっ」と我にかえったでしょう。そのときのショックはどれほどだったでしょうか。
オウムという宗教団体で実際になにがあったのかを知らない人びとは、「なんてひどいことをする奴らだ」「人間じゃない」「早く殺してしまえ」と糾弾しました。当然のことだと思います。でも、私はよく知っています。ごく普通の社会人や学生だった私たちを、入会してわずか数か月でこの現実から引き離し、高く舞い上げてしまうような圧倒的なエネルギーが、クンダリニーとも、無意識とも、神とも呼ばれる神秘的な力が、あのときたしかにオウムには働いていました。このような力にふれて、神のようなつもりになってしまったことが、オウムの、そして私自身の大きなあやまちでした。
それを認めたうえでなお、あの光あふれるエネルギーのなかで、自分自身を見失わないでいられる人が、はたしてどれくらいいるのだろうか…正直それはとても難しいことではないかと思うのです。


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内的な経験は神の「啓示」なのか精神病的「妄想」なのか、という疑問をもたれた方のために以下補足します。
『情報時代のオウム真理教』(春秋社)では、神秘体験と心身症について西部邁氏の質問に教祖が答えていることにふれています。
「(『朝まで生テレビ』の宗教討論のなかで)パネリストとして最初に発言した西部が、修行における異体験と心身症がどう違うのかと問うと、麻原は、宗教者の修行体験も心身症も同じであるとあっさりと認めた。この発言に対し、栗本(慎一郎)は麻原が『現代社会の正常というもの自身について問い直しているということをおっしゃっている』と補足説明し、西部も私が言いたいことはそういうことだと応じた」



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