#01.二十年という歳月

オウム真理教による地下鉄サリン事件から二十年の歳月が過ぎました。最後まで逃走していた高橋克也被告(一審無期懲役)の刑が確定すれば、オウム事件の裁判はすべて終了し、教祖をはじめとする十三名の死刑はいつ執行されてもおかしくありません。

一九九五年当時、日本でオウムに在籍していた人は多く見積もっても一万五千人、実質は一万人以下だったと思います、その九九パーセント以上は教団が裏で生物・化学兵器の準備をしていたことをまったく知りませんでした。三月二十日の朝、オウムの男性出家修行者五人が地下鉄にサリンをまいて日本を恐怖と怒りと憤りと悲しみに陥れたとき、私も日本中の人々と同じようにとんでもないことが起ったと思いました。
事件の全貌が明らかになるにつれ、私は戦後五十年間続いた日本の太平を揺るがす毒ガステロを仕掛けた宗教団体の一員ということになりました。オウムがテロを起こすなどと夢にも考えたことがなかったので、なぜこんなことになってしまったのか理解に苦しむばかりでした。私たちは、布施、奉仕をして、戒律を守り、真理を学び、瞑想し、教祖を霊的な指導者と仰ぎ、解脱と悟りを目指し、教義を広めていたのです。

私は末端信徒でもキャリアの浅い出家者でもなく、クンダリニー・ヨーガの成就者という教団の中堅幹部でした。一部でいわれているように、もしオウムが武力テロを起こして本気で国家転覆を計画していたとしたら、教団の九九パーセントの人間がまったくそれを知らない状況で、サリンをまいた後いったいなにをどうしようとしていたのでしょうか? ほんとうにここに大きな疑問符をつけたいくらいです。裁判では地下鉄サリン事件の目的は「社会を混乱に陥れて、教団への捜査を阻止、もしくは遅らせる組織防衛のためだった」といわれていますが、そんなことをすれば逆効果だということは誰の目にも明らかです。事実すぐに大々的な強制捜査が行われました。あらゆる場所が繰り返し徹底的に捜索されて、幹部はほとんど全員逮捕、オウム真理教は解散へと追い込まれ破滅したのです。
結局のところ、地下鉄サリン事件の動機は謎のまま「気の狂った教祖と洗脳された弟子が起こしたカルトの事件」と片づけられ、逃走犯の出頭や逮捕の際にマスコミに取り上げられることはあっても、あらゆる出来事がそうであるように時間とともに風化してきました。


二〇一五年の夏の朝、いつものように朝刊を広げると、文化欄にオウムについての論評が大きく載っていました。記事の内容は元オウムの私もびっくり仰天するほど妄想的で、「オウムの誇大妄想が伝染したの?」と心配したほどです。もしかするとオウムという出来事は、謎が残った分だけ余計に日本人の意識の奥深くに刻まれて、なにかの拍子に浮かび上がってくるのでしょうか。たとえば世界がテロの恐怖にさらされているときに。

『…一連のオウム事件は日本国を転覆し支配する「日本シャンバラ(霊的理想郷)化計画」の下に行われた。この計画は国家転覆テロを起こした後、天皇を排除し麻原教祖が神聖法王となり、オウムが日本を支配する構想であった。そのためにロシアから輸入した軍事用ヘリコプターを使って、東京上空から毒薬のサリン七十トンを散布し東京都民を大量殺戮し、国家機能が麻痺した混乱に乗じ自動小銃で武装したオウム信者たちが武力制圧し、新政府「オウム国家」を樹立するというものであった。
この狂気の計画を荒唐無稽と笑うことはできない。サリンプラントや自動小銃製造などテロ計画は着実に進んでいたのだ。オウム事件は「日本シャンバラ化計画」という国家転覆テロの全体像の闇に光を照らさない限り、個々の事件の真相を探っても問題の本質は明らかにはならない。…現在のオウム真理教主流派のアレフは信者が千人以上に増え、信者たちの労働から今でも豊富な資金を保有している。殺人肯定理論を説くカルト教本が今も使用され、現教団内では黒魔術の儀式が行われている。現在のアレフの危険性、反社会的体質は依然として変わらないどころか、公安調査庁はオウム事件前の危険な教団に回帰したと指摘している。…』(「正しい仏道示すのみ テロの呪縛と薬物からの解放」林久義より一部抜粋 2015/08/07中日新聞

(注)「日本シャンバラ化計画」は初期の頃に掲げていたもので、日本の主要都市に支部道場を作っていこうという趣旨でした。記事に書かれているような国家転覆や天皇を排除する云々とはまったく関係がありません。



#02.村上春樹氏とオウム

この二十年の間にオウムについて書かれたものをずいぶん読んできました。私なりに「オウムとはなんだったのか」を書こうと思いたってから、昔読んだ記事や書籍を引っ張り出して再読してみたのですが、改めて興味深かったのは村上春樹氏の発言でした。
村上春樹氏のオウムについての文章は、不思議なことに加害者側にいる私が読んでもどこか癒される気がします。宗教学者や識者の分析的な文章とは違って、深みから見上げて全体を包み込むようにとらえるからでしょうか。そういう感じは他の人にはありません。以前読んだときには気づかなかったのですが、長い時間がたって私もオウムと事件を俯瞰できるようになったせいかもしれません。

村上春樹氏の発言で興味深かったのは、彼が「井戸を掘る」ようにして自分の内奥に降りて行って物語を書くことと、オウムの修行者が修行によって内側に深く入っていくことは同じところがあるのではないか、という感覚です。

「しかしそれと同時に、彼らと膝をまじえて話をしていて、小説家が小説を書くという行為と、彼らが宗教を希求するという行為のあいだには、打ち消すことのできない共通点のようなものが存在しているのだという事実を、私はひしひしと感じないわけにはいかなかった。そこにはものすごく似たものがある。それは確かだ。とはいっても、その二つの営為をまったく同根であると定義することはできないだろう。というのは、そこには相似性と同時に、何かしら決定的な相違点も存在しているからだ。彼らと話をしていて、個人的に興味をかき立てられたのもその点だったし、また苛立ちに似たものを感じさせられたのもその点だった。」(1)

さらに「オウムの物語」ということについてこんなことを言っています。

「こんなに多くの人を惹き付けるストーリー性とはいったいどういうものだったのか。そしてそのストーリーがどうして結果的にあれほどの致死性を帯びなくてはならなかったのか」

そうなのです。これこそ私がオウムについて理解したかったことです。あれほど多くの人間が強烈に惹き付けられたストーリーと、その結果の事件を「気が狂った教祖にだまされ、洗脳された弟子たちが引き起こした事件」という話にもならないようなハナシで納得することはできません。では、私たちはいったいどういう物語を生きていたのでしょうか。オウムと教祖の破滅という結末を含めた「オウムの物語」の全体像を、私はずっと探してきました。

「村上 ある意味できわめて象徴的だったのは、冷戦体制が崩壊してもう右も左もない、前も後ろもないという状況が現出したまさにそのときに、関西の大地震とこのオウム事件が勃発したわけですね。おかげで、それらの出来事をどのような軸でとらえるかということが、すっといかなかった。
河合 地震は天災だからちょっと違いますが、もし冷戦体制が続いていたら、オウムみたいなものは出てきにくいですよね。つまりどっちから見ても、目に見える悪がちゃんとあるわけですから。あれをやっつけないかんとか、みんな割に頭の整理がしやすいわけです。ところがその整理がつかなくなってどうしていいかわからんときに、ぱっとこういう変なものが出てくるわけです。
村上 僕はそれをストーリー性という言葉でとらえるんです。
河合 要するにストーリーの軸が失われたところに、麻原はどーんとストーリーを持ち込んでくるわけですね。だからこそあれだけ人が惹き付けられていく。その通りだと思いますね。
村上 そういう意味では才能があるというか、カリスマ性がありますよね。
河合 それはすごい持ってますね。
村上 僕は小説家としてそれがすごく気になるんです。こんなに多くの人を惹き付けるストーリー性とはいったいどういうものだったのか。そしてそのストーリーがどうして結果的にあれほどの致死性を帯びなくてはならなかったのか。そう考えていきますと、物語には善き物語と悪しき物語があるんじゃないかと、そういうところまで行ってしまいます。ここでまた悪とは何かという命題に立ち戻るわけですが。」(2)

(1)『約束された場所で』(文春文庫)p294。
(2)『約束された場所で』(文春文庫)p284.下線は引用者。


#03.ふたつの物語

オウムには大きく分けてふたつの物語がありました。
ひとつは弟子の物語で「解脱・悟り」と「救済」です。ある有名な宗教団体をやめてオウムに入った人は「あそこには解脱・悟りがないんだもの…」と語っていました。オウムに入るということは、「解脱・悟り」という精神の解放の物語を生きることです。
二千五百年前インドで解脱し、悟りをひらいたブッダを崇拝する宗教団体はたくさんありますが、「だれでも修行すれば解脱できる」というのはオウムの際立った特徴でした。
そして特に若い弟子たちの心を強くとらえていたのは、自己の喜びを捨てて他のために生きるという「救済」の物語でした。オウム事件の実行犯は全員「救済のためだと思ってやった」と言っています。

もうひとつは麻原彰晃の「救世主」の物語です。教祖は弟子を解脱に導く「グル」であると同時に、二十世紀最後に登場する救世主であるという強い自負がありました。救世主の物語は麻原彰晃個人のものです。私たちはこの物語の全体像を知らないままに、グルを信じてしたがっていました。科学技術省の弟子たちの多くも、「これはなにかヤバイ仕事のようだ…」と感じつつ指示どおり仕事をこなし、自分たちの作ったものが寄り集まってどこに向かっていくのか知る由もなかったでしょう(サリンプラントもそれとは知らされず作っていた)(1)。地下鉄にサリンをまいた五人の実行犯でさえ、麻原彰晃の想い描く救世主の物語のなかで、無謀なテロをしかけることにどんな意義があるのか理解していなかったという点については、事件を知らなかった私たちと変わらないのかもしれません。そうでなければ、無差別大量殺人テロなどという大それたことを実行しながら、まるで夢から覚めたかのように「だまされた」「そのときは救済だと信じていた」「そんなことになるとは思っていなかった」と言ってグルを非難するでしょうか。彼らを動かしていたものはいったいなんだったのでしょうか?

『でもそれと同時に僕はこの事件に関して、やはり「稚拙なものの力」というものをひしひしと感じないわけにはいかないのです。乱暴な言い方をすれば、それは「青春」とか「純愛」とか「正義」といったものごとがかつて機能していたのと同じレベルで、人々に機能したのではあるまいか。だからこそそれは人の心をひきつけたのではあるまいか。だとしたら「これは稚拙だ無意味だ」というふうに簡単に切って落としてしまうことはできないのではないかと思うようになりました。
ある意味では「物語」というもの(小説的物語にせよ、個人的物語にせよ、社会的物語にせよ)が僕らのまわりで――つまりこの高度資本主義社会の中で――あまりにも専門化し、複雑化しすぎてしまったのかもしれない。ソフィスティケートされすぎてしまっていたのかもしれない。人々は根本ではもっと稚拙な物語を求めていたのかもしれない。僕らはそのような物語のあり方をもう一回考え直してみなくてはならないのではないかとも思います。そうしないとまた同じようなことは起こるかもしれない。』(『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』より)(2)

オウムで「青春」とか「純愛」とか「正義」と同じレベルで機能していたもの、それは「救済」でした。ただ、ほとんどの弟子は麻原彰晃が生きていた救世主の物語の全体像を知らず、濁流に流されるように巻き込まれていったのだと思います。このような話は無責任でばかげたことに聞こえるかもしれませんが、戦前・戦中の日本を持ち出すまでもなく、ある種の物語は人を――特に集団を動かす力があって、個人の意思の力を超えて現実に展開していくものなのです。


(1)第七サティアンのサリンプラントについては、ANTHONY T・TU氏の著書『サリン事件』(東京化学同人)が詳しい。特に中川智正死刑囚に面接して聞いた話からは、地下鉄サリン事件前の様子がよくわかる。
同著によると、中川死刑囚は「教団は実験室規模でも第一過程の反応は行ったことがなく、いきなりの大量製造で、はじめから無理であった」と言っていた、という。
「第七サティアンではサリン製造の第三過程まで進んだ段階で終わり、第四、第五過程の設備はあったものの実際には使われなかった。日本でも世界でも、多くの人はオウム教団がサリンを第七サティアンで大量につくったと思っているが、それは事実とは違う。」(『サリン事件』ANTHONY T・TU著 東京化学同人 p70。下線は同著では傍点)
このように第七サティアンのサリンプラントは全体が稼動したことはなく(大小の漏れ・流出をよく起こしていたようだ)、大量のサリンが作られたことは一度もない。松本と地下鉄で使われたサリンは実験室で作られたものだった。
(2)『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』(新潮文庫)p86欄外。村上春樹氏の「オウムの物語の稚拙さについて」より。


#04.オウム事件と世代

オウム事件を担った弟子たちの生まれ年、入信年、出家年を一覧表にしてみました。十三人の死刑囚と六人の無期懲役囚、参考までに最高幹部として故・村井秀夫氏と上祐史浩氏(現・ひかりの輪代表)を加えた合計二十一人です。

私にとってこのリストは死刑囚・無期懲役囚の一覧ということにとどまりません。どの人も顔見知りです。科学技術省・諜報省・自治省の弟子が多いので、畑違いだった私(編集部、東信徒庁)と特別に親しかった人はいませんが、ひとりひとり表情や話しぶりや人柄を今もありありと思い出すことができます。端本悟死刑囚とは、オウムで製作した一人乗り潜水艇の進水実験で、二人とも海に転落して危うく死にそうになりました。林泰男死刑囚とはクンダリニー・ヨーガ成就を目指して同じ極厳修行に入って修行しました。地下に埋められたチェンバーで瞑想したとき、私の酸素消費量を計測してくれたメンバーの一人が広瀬健一死刑囚でした。あのとき、私は彼らと同じ場所にいて同じ物語を生きていたのです――事件にかかわった人たちについて考えるとき、ほんとうに言い表すことのできない複雑な思いがします。

この一覧から見えてくる特徴は、ひとつは二十一人のうち十五人までが一九六〇年代生まれの男性で、日本の高度経済成長のなかで育ち、事件当時二十代半ばから三十代半ばだったこと。
もうひとつは、事件にかかわった弟子の多くが一九八八年以前にオウムに入信していることです。つまり「オウム真理教」の前身「オウム神仙の会」からの弟子がほとんどで、麻原彰晃のシャクティーパット・イニシエーション(1984~1988)を受けているということです。


受刑者リスト表