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番外編07.水俣

水俣病について、私は教科書に載っている程度のことしか知らなかった。教団を辞めてしばらくたった頃、古書店で『チッソは私であった』(葦書房)という不思議なタイトルの本を手に取った。「なんだろう?」と題名にひかれてページを開いてみると、チッソというのは水俣病の原因である工場廃液を海に流していた企業の名前だった。著者の緒方正人氏は、 網元だった父親を急性劇症型水俣病で亡くし、同じ頃自身も発症する。チッソと国とを相手にした被害補償の闘争のなかで、あるとき緒方氏は、敵対者だと思っていたチッソと自分とが、存在の深みでは地続きだった――「チッソは私であった」という気づきに打たれる。
「憎み、敵対するものが自分だった…か。オウムでいうマハームドラーの悟りみたい…」
そんな興味もあって私は本を買って読んでみた。緒方氏はその後水俣病認定申請を取り下げて訴訟活動からは身を引いていく。この本をきっかけに、私は水俣について書かれたものを何冊か読んでみた。同じ頃、麻原彰晃が水俣病だった可能性があるという書き込みをインターネットで見かけた。

ローカル列車の窓越しに不知火海を見ながら水俣駅に向かい、着いたのは午後三時半をまわっていた。私は駆け足で駅の改札を出ると、一番近くにいたタクシーに乗り込んで「水俣病資料館まで、お願いします」と行き先を告げた。水俣病についてもっと知りたかったし、麻原彰晃が生まれ育った八代に水俣病患者がどれくらい存在するのか、という素朴な疑問があった。
資料館に入ると意外なほどすぐに求めていた答えがあった。展示の一番最初が「水俣病認定患者の発生分布」という図で、八代市の認定患者数は七人となっていた。水俣市の一千十人、水俣周辺の市の三百人以上に比べると僅かで、可能性としては低いけれど、麻原彰晃の視覚障害の原因が水俣病だった可能性はゼロではないことになる。

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水俣病患者の発生分布(2008年2月29日)


水俣病は、人類最初の化学物質による環境汚染が引き起こした公害病だ。チッソが流した工場排水に含まれるメチル水銀が、不知火海沿岸の魚介類に蓄積され、それを食べた多くの生き物、そして人間が犠牲になった。水俣病の発生は一九五三年頃からといわれるが公式に確認されたのは一九五六年、麻原彰晃が生まれた一九五五年とほぼ同じ頃だ。
展示を見ていくと水俣病の全体像がよくわかった。
「チッソって、もともと化学肥料を作ってた会社なんだ…戦後はプラスチック製品に欠かせない可塑剤を作って…海に猛毒を流していたのか…みんな経済的豊かさに向かって突っ走っていたんだなぁ…」
チッソは日本の化学工業の発展を牽引するような企業だったから、水俣病は戦後の経済成長の「影」ともいわれている。(1)作家の藤原新也氏は『黄泉の犬』(文春文庫)で、麻原彰晃の社会に対する憎悪は、彼の視覚障害が水俣病によるものだと考えていたからではないか、という可能性を示唆している。私は、麻原彰晃個人の怨恨が事件の背景だとする説には共感できなかったが、水俣病の原因物質である「水銀」については「あれ?」と思った。東洋でも西洋でも、水銀は「霊的な物質」(霊薬)として神秘主義者や修行者に知られているからだ。(2)

水俣、チッソ、化学肥料、プラスチック、水銀、猛毒、犠牲者、高度経済成長…。
私は重たい気持ちで、閉館時間ぎりぎりまで水俣病の資料を見てまわり、帰りぎわに資料を買った。(3)
「こんなに立派な資料館があるなんて知りませんでした」
そう言って、ボランティアの身分証をつけたショップの女性に代金を手渡すと、こんな答えが返ってきた。
「このあたりはヘドロを埋め立てた上に作られたんですよ、この下、コンクリートで固められたこの下には、今もヘドロがあるんです」
「この下」と言うと同時に女性はドンドンと二度強く足を踏み鳴らした。

水俣病資料館冊子
資料館でいただいた冊子(表紙の写真は資料館)


(1)「チッソは、明治の終わりに水力発電の会社としてスタートしました。その電力を利用してカーバイト工場を水俣に作り、やがて化学肥料の生産を始め、日本にとって重要な化学会社として成長しました。<中略>チッソは化学肥料のほか、酢酸、塩化ビニ-ルやその成形に必要な可塑剤(かそざい)の生産に力を入れ、戦後も日本の高度経済成長を支える企業の一つとなりました。チッソは1932年(昭和7)から1968年(昭和43)まで、酢酸や可塑剤などの原料となるアセトアルデヒドを作るときに触媒として無機水銀を使用し、その過程で副生されたメチル水銀を1966年(昭和41)まで、ほとんど無処理のまま海に流しました」(「水俣病10の知識」より)
「日本窒素肥料株式会社(チッソの前身・引用者注)は、化学肥料会社としても、化学工業会社としても、企業規模だけでなく、技術の高さにおいても、日本の化学会社のトップであったことは間違いないところである」(ドキュメント水俣病事件1873-1995 「二 日本窒素肥料株式会社(6)」より)
化学肥料や農薬の製造法と毒ガスの製造法は似ているといわれている。オウムで毒ガス製造のために大量の化学薬品を所持していたことについて、故・村井秀夫氏は「農業を行う計画があって、化学肥料を作るための薬品だと主張したらいい」と広報部に助言していた。
(2)水銀は、仙道では「丹」とよばれる霊薬の原料として修行に使われ、不老長寿の霊薬とも考えられていた。西洋の錬金術では、水銀はヘルメス(メルクリウス)の象徴であり「変容物質」とされている。錬金術の本質は、現実に金を得ようとするのではなく、魂の変容を求めること(修行)にあった。麻原彰晃は自身を「ヘルメスの系統」と言ったことがある。
(3)水俣市立水俣病資料館の資料はホームページでも見ることができる。


番外編08.盲学校

熊本市内に宿泊した私は、翌日は県立図書館へ行って、八代市の郷土資料や麻原彰晃が学んだ熊本県立盲学校の資料を探した。
昭和二二年から昭和四五年まで、熊本県立盲学校は熊本市出水町九五二番地にあった。資料には「増築増築でつぎはぎだらけの木造校舎で、寄宿舎も学校と同じように古い木造で、南寮、中寮、それに女子寮の三つがあった」と書かれている。
昭和三六年秋頃、一年生の麻原彰晃は金剛小学校から熊本県立盲学校の小学部に転入し、寄宿舎で生活するようになる。左目は生まれつき視力がなく、右目の視力は1.0ほどあったが、いずれ失明するかもしれないと心配した十一歳年上の長兄が、盲学校で専門教育を受けさせたいと後押ししたといわれている。長兄は全盲で盲学校に在学、寄宿舎生活をしていた。
資料によれば、麻原彰晃が転入した昭和三六年の寄宿舎生は、小学部六一名、中学部四〇名、高等科四六名、専攻科一八名、合計一六五名という大所帯だったようだ。昔の記録に「舎室不足で児童・生徒があふれている」と書かれていたというから、手狭だったのだろう。寄宿舎生の数は、昭和三九年の一九〇名から四六年の一七九名あたりをピークに徐々に減少していく。(1)
生徒数の推移は視神経にも影響する水俣病と関連があるという指摘もある。
「…麻原が少年時代に寄宿していた熊本県立盲学校には当時水俣病の小児患者が相当数収容されたはずだ」(2)
盲学校は、小学部、中学部は義務教育なので教科内容は一般の学校と変わらない。高等部になると医学的な知識と人を治療するという技術指導の教科が入ってくる。生徒数が増えて、そういう教科に対応する教室や教材機器の不備があり、新しい学校を建築することになる。昭和四五年九月、麻原彰晃が高等部一年のとき、盲学校は国有地であった健軍自衛隊の演習地の払い下げを受けて、熊本市東区東町(3)に聾学校と合わせて移転した。

麻原彰晃の盲学校時代の記録はほとんどない。
「私が六歳のときの記憶をかんがみると、私は親元を離れて生活していたわけだが、よく泣いていたと。布団に隠れて、寂しいよ寂しいよと泣いてたと」
このように直弟子用説法で少し語られているくらいだ。前出の山折哲雄氏との対談では武術に励んだことを語っている。
「学生時代はエネルギー発散型で、スポーツ、武術を徹底的にやりました。仏教的な言葉では無智のカルマ(業)を積んだというか。激しい運動で疲労するとへそから『幽体離脱』をしました。三歳の頃の経験と比べて明らかに穢(けがれ)。闘争意識状態による恐怖の世界の体験をずっとしていたわけです。」(4)
盲学校の柔道部は昭和三六年頃発足し、昭和四六年には県大会初出場と記録されている。専攻科まで進んだ麻原彰晃は、在学中に講道館二段に認定されている。

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東区東町に移転した盲学校と寄宿舎の見取り図 「創立70周年記念誌」(1981年)より


県立図書館で資料を読み終えた私は、遅い昼食を済ませてから元の盲学校があった水前寺(旧・出水町)あたりを散策した。かつての出水町九五二番地は今は住宅地だった。昔の盲学校の痕跡がなにもないことを確認したあと、東区にある現在の盲学校まで行ってみることにした。
年代ものの市営の路面電車に乗って終点の健軍という駅で降り、スマートフォンを頼りに盲学校まで歩いた。自衛隊の施設、官公庁、高校、大きな団地などを通り過ぎ、駅から二十分ほど歩いただろうか。盲学校は、市街地の雰囲気とはがらりと変わって、人の暮らしや歴史の匂いのあまりない、旧陸軍飛行場跡のやけに区画の大きなのっぺりとした風景のなかにあった。
麻原彰晃は、十五歳から二十歳までここで教育を受け寄宿舎で生活した。盲目の子どもたちのなかで、いずれ見えなくなるかもしれない隻眼(せきがん)の少年として。

熊本盲学校
熊本県立盲学校正門付近(2013年9月撮影)


(1)県立盲学校「創立70周年記念誌」
(2)『黄泉の犬』p54
(3)熊本市東区東町は、旧託麻郡健軍村。熊本市の北東に広がる丘陵地である託麻台地(託麻原)のなかに位置している。このあたりもかつては麻の原が広がっていたのだろうか。
(4)別冊『太陽』77特集「輪廻転生」(1992年)


番外編09.怨恨なのか

オウム事件の背景には、麻原彰晃の不幸な生い立ちによる社会に対する怨恨があったと考える人は多い。目が不自由なのは水俣病が原因だったかもしれないこと、幼くして親元から離され寄宿舎生活をしていたこと…その恨みや憎しみによって凶悪な犯罪を犯すようになる、というのは事件の背景として納得しやすいのかもしれない。確かに、麻原彰晃の宗教観は社会の価値観とは決して相容れないものではあったが、オウムにいた私はそこに個人的な怨念のようなものを感じたことはなかった。
宗教学者の島田裕巳氏も異を唱えている。
「麻原彰晃の人生は不幸と挫折のくり返しである。しかしその人生を振り返ってみたとき、麻原が、必ずしも幸福とは言えない自らの境遇に敗北感を感じてしまう人間であったようには見えない。彼には不幸と挫折を乗り越え、社会のなかで成り上がっていこうとする強烈な野心があった。その野心はときに空回りすることはあったものの、彼はその野心をある程度まで満たすことに成功した。麻原はたんなる敗北者だったとはいえない」(1)

麻原彰晃が自身の身体障害や生きづらい人生をどう考えていたのかがわかる説法がある。何度かテープで聴いて印象に残った説法だったが、当時の私にはあまりよく理解できなかった。脱会してから、オウムについて考えるために年代順に説法を読み返して、これが麻原彰晃自身について語られたものであることにようやく気がつき、なにを言おうとしているのか以前よりわかった。説法はこんな問いかけで始まっている。
「ここに二人の者がいたと。一人は大金持ちの息子として、あるいは娘として生まれ、そして顔形もよく成長した。才能にも恵まれていた。そして、修行者になった。もう一人はつんぼであったと。両耳がつんぼであると問題があるわけだが、片耳は完全に聴こえず、片耳もどんどん悪くなる状態であったと。そして、無常を悟り、同じように修行に入っていったと。果たして、この二人はどちらが徳があるだろうかと」
ここで例にあげている「片耳が聴こえず、もう一方の耳もだんだん悪くなる状態」とは、耳を目に置き換えればまさに麻原彰晃自身のことだ。高弟たち一人一人に質問をして、それぞれの答えを聞きながら最後に次のような説明をする。

「実は質問のなかに答えがあったんだよ。耳の聴こえない人について、私ははじめに、耳が全部聴こえない、いや違うと。一方は聴こえなくて、一方は少し聴こえない状況でどんどん聴こえなくなっていくと。なぜ私がその言葉をつけ加えたかというと、まず、修行のスタートは苦を感じること。しかし、その前に無常からくる苦を感じなくてはならないわけだよ」
「五体満足でこの世に生まれ、おおいに徳があって、そして高い世界を知っていて出家する者、これは案外多い。もともと高い世界へ行くための道だということを前生から記憶しているからであると。しかし、五体が不満足で、この現世もなかなか生きづらいと。その状態で解脱を求めると。これは徳の問題からおかしいなと。どうだ。なぜならば一般的には現世がよくなって修行に入っていくわけだから。だとしたら、この者はもともと菩薩の修行をしていて、もともと徳があって、前生において現世的な楽というものをすべて知ったうえで修行し、自己のカルマを滅する、あるいは他のカルマをしょうという修行をしていると考える以外にないんじゃないか」(2)

麻原彰晃自身、幼少期からまったく目の見えない子どもたちと生活を共にし、見える方の右目もやがて見えなくなるという、無常からくる苦しみを感じていただろう。そして、盲学校を卒業して十二年後、徳がないようにみえる恵まれない環境に生まれたとしても、そこから修行の道に入っていくならば、それは徳がないのではなく、前生から菩薩の修行をしているからであって、今生も菩薩として自己のカルマを滅する、あるいは他の苦しみを背負うという修行をする運命にあるからだ、と説いてる。生まれ持った障害や逆境は、積極的かつ宗教的にとらえられている。

オウム事件について、高弟だった早川紀代秀死刑囚が宗教的な動機を見落とさないよう訴えている。
「オウム事件は、どんなに気違いじみたことであっても、それはグルの宗教的動機から起こっていったということ、そしてグルへの絶対的帰依を実践するというグルと弟子の宗教的関係性によって、弟子がグルの具体的指示、命令に従って事件を起こしていったということ。この二点は、二度とこのような事件が起こらないためにも、見誤ることなく、きちんと理解していただけたらと思います」(3)


(1)『オウム真理教事件Ⅰ』(トランスビュー)p42。島田裕巳氏は麻原彰晃と二度対談し、テレビの討論会(「朝まで生テレビ」)にも一緒に出演しているから、実際に会って話した印象も加わっているだろう。
(2)一九八九年五月七日富士山総本部道場説法。この説法の前提には、「人は最も徳のある状態で修行の道に入る」という世界観がある。この年の選挙活動を経て、麻原彰晃はほぼ視力を失ったと言われている。
(3)『私にとってオウムとは何だったのか』(ポプラ社)p216。


番外編10.偶然と意味

八代、水俣、熊本市内、麻原彰晃が生まれ育った場所とその周辺をたどって、私はなんともいえない不思議な思いにとらわれてしまった。そこで見た風景、土地の名前、歴史の痕跡が、後に麻原彰晃がつくりあげたオウム真理教と、かすかに共振しているような感じがしたからだ。

出生地の「金剛村」という名称と、オウム事件の背景にある「金剛乗(ヴァジラヤーナ)」と呼ばれる教え。
麻原彰晃が親元を離れて寄宿舎生活をしていたことは、オウムという集団が家族と離れた出家生活を特徴としていたことに似ている。
盲学校は旧陸軍の土地に建設され、現在も近くに自衛隊基地(健軍駐屯地・西部方面総監部)がある。盲学校へ向かう途中、大きな軍事施設を目にしたとき、私は事件前の教団にあった「戦い」「軍事力」という雰囲気を思い出した。(大部分のサマナにとってあくまでも雰囲気でしかなかったのだが)
不知火海沿岸に広がった水俣病は、日本の化学工業の草分け企業チッソが海に流した廃液に含まれる有機水銀が原因だった(1)。水俣病という公害は、人類初の化学物質による自然破壊、いのちの大量殺戮ともいえるものだ。それから五十年後の一九九五年、麻原彰晃は首都東京で化学兵器サリンによる無差別テロを指示した。
そして、麻原彰晃とはまったく関係のないことだが、八代の対岸に見える天草諸島では四百年前に、預言された「救い主(キリスト)」があらわれ、戦い、破滅していった(天草・島原の乱)(2)。麻原彰晃は、自分は預言されたキリストであるという宗教的信念(あるいはキリスト妄想)を抱き、戦い、破滅していった。

ここにあげた出来事と麻原彰晃が後に行ったことの間に因果関係はない。金剛村に生まれたから後に金剛乗(ヴァジラヤーナ)を説いた、親から離れた寄宿舎で育ったので出家制度を採用した、水俣病が原因で目が不自由になったと思って社会を恨み攻撃した…そんなふうに短絡的にオウムの活動と結びつけることはできない。
それでも、麻原彰晃という人物を生み出した土地、風土に織り込まれているパターンというのだろうか、そこに刻まれている情報やイメージとオウムのどこかが共振していて、よく似た音色が聞こえてくるような感じがした。これはたんなる偶然なのか、それともなにか意味のある偶然なのだろうか。もし後者だとするなら、そこにどんな意味を見つけることができるのだろう。

(1)水俣病という公害は、加害者企業チッソと被害者住民という単純な対立構造ではとらえられない。当時の日本にとって工業による経済発展は国策だった。水俣の住民の多くは被害者であると同時にチッソという企業の恩恵を受けてもいた。そのため水俣病の原因究明は遅れ、被害は拡大したといわれている。
(2)八代の対岸にはっきりと見える天草諸島は、キリシタンと天草四郎ゆかりの地だ。「天草・島原の乱」は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆で、幕末以前では最後の本格的な内戦である。当時の天草には、ママコフ神父が追放される前に残したとされる「世の終わりがやってきて、救い主があらわれる」という預言があって、天草四郎こそ預言の救済者だと信じられた。乱の首謀者といわれている天草四郎は、よくわからないところが多い人物だが、一揆の中心にいて神秘力をあらわした宗教的カリスマだったことはたしかのようだ。天草四郎にまつわる「神秘力」「預言」「終末」「キリスト」「戦い」そして最終的な「破滅」――これらも麻原彰晃とオウム事件の一面のキーワードと重なっている。



雑考01.神秘体験について

神秘体験といわれるものは夢と同じところ――無意識からやってきます。人の見る夢にひとつとして同じものがないように、神秘体験も個々に違うものですが、オウムでは解脱に向かうとき大筋では共通の体験をしていくとされ、各ステージの成就には決まった体験がありました。たとえば、第一ステージでは三色の内的な光を見る。第二ステージでは「四つの体験」をすることです。(詳細は「38.スワミになる」「48.クンダリニー・ヨーガ成就修行」参照)
初期の頃、教祖が多くの信奉者を急速に集めた理由は二つあったと思います。シャクティーパットによって内的な体験をさせたこと。そして、「次はこういう体験をしますよ」「この段階になるとこのような体験が起きますよ」と、解脱に至るまでの道筋をだれでも歩めるものとして明らかにしたことです。指導を受けた弟子たちは、いわれたとおりの体験をしたから、教祖と教祖の説く解脱のプロセスを信じました。オウムについて、「なぜ高学歴の若者があのような人物を信じたのか」という疑問をよく聞きますが、目に見えない世界について「この修行をすればこの体験をする」「次の段階ではこれが起きる」と説明され、実際にそれを体験したから頭の良い若者、特に実証を重んじる理系の男性がまっすぐに信じていったように思います。
もし「神秘体験」というものを「妄想だ」「強い暗示にかかっている」「脳内現象にすぎない」「洗脳だ」などと頭から拒否するなら、オウムの修行者に実際起こっていたことを想像することは難しいでしょう。しかし、人は神秘体験に魅せられ、大きな影響を受けるのです。オウム事件に不可解さが残っているとしたら、霊的な問題がわからないからではないでしょうか。

精神科医であり心理学者である思想家C.G.ユングは、夢とヴィジョンの分析を通じて「無意識」を研究した人物です。河合隼雄氏は、自身が訳した『ユング自伝』のあとがきに次のように書いています。

「本書にのべられた事柄は、ほとんどユングの内界に関するもののみで、外的な事象については何も書かれていないのである。われわれが内的な世界という場合、ともすればそれを単純な内省のことと考えるが、ユングのいう内界は、それをはるかに超えている。読者は本書にのべられているユングの夢や幻像(ヴィジョン)の凄まじさに、驚嘆することだろう。それらはユングの内界に生起している事象であり、ユングにとっては、内的な世界は外界と同じく『客観的な』ひとつの世界なのである。」

河合氏の言う「ユングの内界に生起している事象」とは、私たちが「神秘体験」と言っているものです。ユング自伝には、ユングの幼い頃から八一歳までに経験した神秘体験が書かれているのですが、そのなかの有名な体験をあげてみます。ユングは六八歳のとき心筋梗塞で倒れ、臨死体験をします。

「意識喪失のなかでせんもう状態になり、私はさまざまな幻像(ヴィジョン)をみた」
「私は死の瀬戸際にまで近づいて、夢をみているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。」

そして体外離脱がはじまり、ユングは一五〇〇キロメートルの上空から美しい地球を見ることになります。自伝ではその様子が細やかに描写されています。ガガーリンが宇宙飛行をする前にもかかわらず、ユングが上空から見る青い地球の記述はとてもリアルです。
次に、ユングは別のものを見ます。
「視野のなかに、新しいなにかが入ってきた。ほんの少し離れた空間に、隕石のような、真黒の石塊がみえたのである。それはほぼ私の家ほどの大きさか、あるいはそれよりもう少し大きい石塊であり、宇宙空間にただよっていた。」
「これと同じような石を、私はベンガル湾沿岸でみたことがあった。それらは黄褐色の花崗岩のかたまりで、そのなかのいくつかは、なかをくり抜いて礼拝堂になっていた。私がみた石塊も、そのような巨大な、黒ずんだ石のかたまりであった。入り口は小さな控えの間に通じていた。その入り口の右手には、黒人のヒンドゥー教徒が、石のベンチに忘我の状態で、白い長衣(ガウン)を着て、静かに坐っていた。彼は私を待っているのだと、私にはわかった。」

教祖の「微細体」についての解説に、ここまでのユングの体験と非常によく似た説明があります。微細体とは、微細な世界(夢の世界・無意識の世界)を経験する身体のことで、アストラル体ともいわれ本来だれにでもある身体です。

「クンダリニーが覚醒する。それはわかるね。そして、その次に熱が出てくるのはわかるか。次にサハスラーラ・チャクラから甘露が落ちるのはわかるか。それが最も強くなります。そして強くなって、そのエネルギーが循環しているときなにをやっていると思うか。私たちの微細体を作っているんだよ。いや、言い方を換えるならば、もともと微細体というものはあるんだけど、それとの架け橋をやっているわけだ。」
「初めは夢として現れてくる。それが次の段階で、周りの壁が黒くてね、その中に君の等身大の結跏趺坐した人が現れてくる。それが微細体だ。」
「そして、この世の中の意識の状態と、その微細体の意識の状態とは、微細体の意識の状態の方が鮮明です。つまり、言い方を換えれば、この世はもう眠っている状態になってくる。」(一九八七年三月二十日)

ユングが見た黒い石塊のなかに坐しているヒンドゥー教徒は、教祖が「周りの壁が黒くてね、その中に君の等身大の結跏趺坐した人が現れてくる」という説明と同じ状況です。教祖はこの黒い壁を仏教でいう「根本無明」だと説明しています。
ユングは、この臨死体験のあとに次のような夢を見ています。
「夢のなかで私はハイキングをしていた。<中略>そのうち、道端に小さい礼拝堂のあるところに来た。戸が少し開いていたので、私は中にはいった。驚いたことに、祭壇には聖母の像も、十字架もなくて、その代わりに素晴らしい花が活けてあるだけだった。しかし、祭壇の前の床の上に、私の方に向かってひとりのヨガ行者が結跏趺坐し、深い黙想にふけっているのを見た。近づいてよく見ると、彼が私の顔をしていることに気がついた。私は深いおそれのためにはっとして目覚め、考えた。『あー、彼が私について黙想している人間だ。彼は夢をみ、私は彼の夢なのだ。』彼が目覚めるとき、私は此の世に存在しなくなるのだと私には解っていた。」

教祖が「この世の中の意識の状態と、微細体の意識の状態では、微細体の意識の状態の方が鮮明になり、この世はもう眠っている状態になってくる」と説明し、「解脱すると、君たちはわからないだろうが、この世は夢だ。本当に夢を見ている状態だ」と語っているように、ユングもまた夢の中のヨガ行者とそれを見ている自分の意識との主客逆転を予感しています。
私がオウムと出会って間もない頃に見た印象的なヴィジョンがあります。
「さまざまな動物がいる鬱蒼とした密林で一人の男性修行者が結跏趺坐でこちらを見ている」(「11.信じようが信じまいが」参照)。
とても鮮明で印象的なヴィジョンでしたが、なぜそんなものを見るのか私にはまったくわかりませんでした。後に教祖の微細体の解説を聞いたとき、私が見た結跏趺坐の男性修行者は微細体なのだと思いました。ユングのヴィジョンでは真っ黒い石塊であらわれていた「根本無明」は、私のヴィジョンではさまざまな動物と暗い密林という少し異なるイメージであらわれていますが本質は同じものです。
教祖の「微細体」についての解説はごく短いものですが、そこには体験のエッセンスが説かれています。教祖が『ユング自伝』を読んだ可能性はないでしょう。私も結跏趺坐する修行者のヴィジョンを見たとき、ユングの著作を一冊も読んでいませんでしたし、教祖の「微細体」についての説法も聞いていませんでした。別の三者が本質的に同じ体験を語っているということは、内的世界が存在し、そこで起こる神秘体験やヴィジョンには道すじがあるらしいということです。

このように弟子にとって教祖は内的世界の案内人、解脱までの道すじを示してくれる「グル」でした。ただし、神秘体験は修行の進度をはかるためのひとつの目安であって、修行の目的ではありませんでした。教祖も次のように述べています。
「私はいろんな神秘体験をした。今考えてみると、神秘体験というものは、まったく意味のないものだけどね。私にとっては」
「瞑想に熟達してくると、最後は相対的な世界から絶対的な世界に入る。一元の世界に入る。すべては止まっている。この世は動いているように見えて、本当は止まっているんだよ。その止まった世界に到達したときに、それまでの一切の自分の見たヴィジョンが、なんの意味もなさないことに気がつくだろう。それが智慧といわれているものだ」



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