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番外編01.八代

いつ頃からだろう、私は麻原彰晃が生まれ育った場所、その風景を見たいと思うようになっていた。「オウムとはなんだったのか」という問いは「麻原彰晃とはなに者だったのか」という問いでもあったのだろう。二〇一三年九月末、オウムでの体験をひととおり書き終えた私は、麻原彰晃の生地熊本を訪れてみようと思った。オウムという世界を思い起こし、考え、言葉にすることで重荷をおろして少し気持ちが軽くなったのか、思い立つとすぐに二、三泊の旅の準備をして家を出ていた。
老親の介護のために戻っていた実家から熊本県八代市までは鉄道の旅だった。在来線で名古屋まで出て、東海道新幹線に乗り継ぎ、終点の博多でさらに九州新幹線に乗り継いで一時間ほどで新八代駅、その次の八代駅で降りた。隣接している製紙工場の大きな煙突が白煙を上げて駅を見下ろしていた。

旧八代郡金剛村――現在の八代市高植本町に麻原彰晃は生まれた。
「さて、ここからどうやって高植本町まで行こうか…」
想像よりさびれている駅前を見渡しながら、地元の人に聞けばすぐに詳しい場所がわかるだろうと、客待ちしているタクシーの運転手に声をかけた。
「すみません。オウム真理教の麻原彰晃の生家が高植本町にあるそうですが、運転手さん、場所わかります?」
「高植本町か、金剛の方だな。ずいぶん昔のことだからなあ…場所は、俺は知らないなあ…」
意外な返事が返ってきた。
「そうですかあ、もう二十年も前のことですからねえ…」
私のなかで今も生きているオウムは、彼にとっては遠い昔の過ぎ去った事件、終わってしまった出来事の一つにすぎない。こんな当たり前のことに私は戸惑った。タクシーをあきらめて駅の小さな観光案内所に入って、カウンターに置かれていた「八代観光案内図」を手に取り、暇そうな表情の若い女性職員に地図を差し出してきいてみた。
「高植本町は、どのあたりですか?」
彼女が指し示したのは八代市を流れる球磨川(くまがわ)河口、八代海に近いところだった。見るとそこに「金剛小学校」という文字がある。麻原彰晃は金剛小学校に入学し、同じ年の秋に熊本市内の県立盲学校に転校している。小学校まで行けば生家はそう遠くないだろうと思った。
「金剛小学校あたりに行くバスは出ていますか?」
「ここからバスはないですね。次の肥後高田駅からタクシーで行くのがいいですよ」
とりあえず、私は「金剛小学校」を目指して動き出すことにした。

やつしろ駅


番外編02.更地

八代駅から肥薩おれんじ鉄道で一つ目の肥後高田は無人駅だった。ゴミや雑草が目立つ手入れのされていない駅の前にタクシーが一台、残暑の熱気が車内にこもらないようドアを四つとも開け放して客を待っていた。(そこにタクシーがとまっていることが奇跡に思えるほど何もない小さな駅だった)
「すみません。オウム真理教の麻原彰晃の実家、場所わかりますか?」
「ああ、わかるよ。でももう家はないよ」
「とり壊されているのは知ってるんですが、場所を見たいんです」
そう言ってタクシーに乗り込んだ。田舎道を五、六分も走ると、タクシーは空き地の前に車を寄せて停めた。
「ここですか?」
「そうだよ」
私は千四百円ほどの運賃を支払い、後で迎えを頼むために運転手の名刺をもらってタクシーを降りた。
九月の末だというのに気温は三二度を超えていた。
古い二軒の民家に挟まれた長細い更地――ここで麻原彰晃の両親は松本畳店を営み、麻原彰晃は九人兄弟の四男として生まれた。九人のうち二人は亡くなり七人兄弟だった、と後に雑誌のインタビューで語っている。

一瞥すればほかに見るものもない土地だった。更地の向こう側は田んぼが広がるなんの変哲もない田舎の田園風景だ。周辺を少し歩いてみようと道路に出ると、斜め向かいの空き地から麦わら帽子をかぶったステテコ姿の年輩の男性が出てきた。いかにもこの近所に住んでいる様子だった。

image(2).jpeg
松本家跡地(2013年9月撮影)


「すみません。そこの空き地に麻原彰晃の実家があったと聞いたんですが…」
「ああそうだよ」
「いつ頃家を壊したかご存じですか?」
「事件のあと両親が亡くなって、それから取り壊したよ。あの頃もう高齢じゃったけんな…」
麻原彰晃の父は一九一五年生まれ、事件当時八十歳だったはずだ。
「松本さんのご家族をご存じだったんですか?」
「ああ、一緒に遊んだもの」
「麻原彰晃と?」
「いやあ、ここの家は子どもがいっぱいおったけん、どれがどれやら…。わしは年齢が上じゃけんな」
「松本さんの子どもたちって…」
「普通の子どもよ。普通のなあ…」
「もうこの辺りには親族の方はいらっしゃらないんですか?」
「弟が一人、どっかにおるとか聞いたけどな…」
男性にお礼を言って、あたりの様子を見ながら十メートルほど歩くと金剛小学校があった。


金剛小学校門柱
金剛小学校の門柱(2013年9月撮影)


「こんなに学校の近くだったんだ…」
麻原彰晃の生家は金剛小学校のすぐ裏だった。
松本畳店の跡地から金剛小学校の正門までは二十メートルほど、学校の敷地までなら隣家と細い道を隔てているだけだ。この距離なら始業を知らせるチャイムの音や、放課後校庭に走り出る子どもたちの声、運動会のにぎやかな音楽や歓声も聞こえただろう。松本畳店があった場所から小学校へと歩いていくと、私のなかで子沢山の畳職人の家庭に抱いていた暗い印象が、いくぶん明るいものに変わっていた。


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金剛小学校の上の二軒目に松本畳店(1979年ゼンリン地図)


番外編03.光の金剛

麻原彰晃が自身の子ども時代について語っている記録はほとんどないが、宗教学者山折哲雄氏との対談のなかで質問に答えて少し語っている。

「家は浄土真宗でしたが、仏壇と神棚とが両方あって、父親が朝昼晩に神仏にも食事をあげる人でした。自分も見よう見真似でそうしましたし、神社でお賽銭をあげるのも喜んでやっていました」
「三歳頃から遊び疲れて寝たような時、眉間、アジュニャー・チァクラから抜け出して、家の内外を徘徊したり、別の世界に入る、俗にいう『魂の抜け出し』経験をしました。死が小さい時から自分のテーマで、はっきりした認識はなくとも、漠然とした恐怖を記憶しています。六歳頃は夜寝る前になると『このまま寝てしまって死んでしまったらどうしよう』と、死に対する恐怖で、毎晩毎晩泣いていました。」
「自分ではそういう体験を一切言いませんでした。抜け出した瞬間、現実には電灯も消えているはずですが、家の人たちを明るく照らし出している状態で、そこから空間の世界、神々の世界にいくんです。そこにいる人たちは歩いているのですが、白い、白銀の大地に足をついていない。空間そのもの…です。」(1)

「金剛小学校」と書かれた門柱を過ぎて右に曲がり、敷地沿いに校舎が正面に見えるところへ行ってみた。広い校庭では運動着姿の子どもたちが、いくつかのグループをつくって走り回り、そのむこうに校舎全体が見える。もしかしたらと思ってスマートフォンで検索してみると金剛小学校公式ホームページが出てきた。写真の他に学校の沿革や校歌が掲載されていて、校歌のサビの部分でリフレインするのは「光の金剛 金剛小学校」というフレーズだった。
「光の金剛か…なんだかオウムの歌詞みたいだねぇ」

金剛小学校02
金剛小学校校庭


オウムでは、瞑想修行中に意識が光に没入する体験を通じて成就すると教えられていた。一連のオウム事件の実行犯は、全員厳しい修行によって「光への没入」を経験した成就者たちだ。
私は、オウムとはなんだったのかを追究していくなかで、「修行で経験する、あの強烈な光って、いったいなんなんだろう…?」と考えることがあった。私自身、何度も光の体験をしたが、それが意識にどういう影響を与えるのかわからなかったし、当時は「光の体験をして成就することは良いこと」と信じて疑いもしなかった。
今考えると、光は必ず闇をともなうものだから(闇がなければ光は認識できない)、強い光の体験をするとき同時に深い闇を引き寄せてしまうことは避けられない。私たちは、光を目指して飛んでいって、暗く深い闇(影)に墜落していったのではないか――私はそう思うようになった。もちろんオウムでも「カルマの解放」という言葉で、修行によって暗い側面も解放されると説かれてはいたのだが。(2)

麻原彰晃は「光への没入」の先にある、「光を超える」体験についてこのように語っている。

「解脱の光ってないんですね。解脱は光じゃないんですね。本人自体が光っているわけですよ。解脱というものは。だから射し込んでくる光に同化するということはしないんですね、解脱は」
「最終解脱のときに、光源に飛ぶんだよ。光に向かって。それはね、そうだなあ、太陽に向かって飛ぶというよりもっと純粋な光に向かって飛ぶんだね。そして、それを通り過した段階で、その人の人格は一変するんだね。それが最終解脱のプロセスだ」
「最後は光を超します。光をぶち破ってしまいますね。そして、最後には、その透明な光だけが出てきます。透明というか、その周りが輝いていると。そこに自分は存在していると。それに到達します。それが最後です」(3)(4)(5)


(1)別冊『太陽』77特集「輪廻転生」(1992年)
(2)カルマの解放とは、修行によって高いステージを経験するとき、潜在していた悪業も同時に解放されて苦しみの現象が起きること。
(3)(4)(5)1986年6月22日、1987年6月27日、1987年10月9日。




番外編04.クローンと依り代

麻原彰晃は「金剛」という名の村に生まれた。
オウム事件と金剛乗(ヴァジラヤーナ)の関連を知っているなら、金剛村という名前に「ん?」とひっかかるはずだ。宗教学者の島田裕巳氏も、麻原彰晃がヴァジラヤーナを説きはじめたのはいつ頃かを考えるなかで、金剛村について次のようにふれている。
「そこには麻原の生まれが影響しているのかもしれない。麻原が生まれたのは熊本県八代郡金剛村だった。つまり金剛村に生を受けた麻原がのちに金剛乗を説いているわけである。それは偶然の一致にすぎないのかもしれない。だが金剛という名前のついた土地はそれほど多くはない。現在金剛と名のつく市町村は存在しない。少なくとも麻原は金剛ということばに幼いころから親しみをもっていた。」(1)
金剛村は、明治二二年から昭和二九年まで熊本県八代郡に存在した村名で、昭和二九年に現在の高植本町となった。麻原彰晃が生まれた昭和三〇年三月二日は、戸籍上の記載が金剛村から高植本町に変わるまさに境界だったのだろう。出生地が「八代市高植本町」ではなく「八代郡金剛村」と記載されたのは、島田氏がいうように偶然の一致にすぎないにしても、本当にぎりぎりのタイミングで起こった偶然だ。

「八代」という地名は、肥後国史によれば社(やしろ)からきているという。天照大神(アマテラス)の山陵が上古の時代この地にあったことから「やしろ」と言われるようになったと伝えられている。社というのは神を祭る建物や土地、神が降臨する場所などを意味する。
八代が社(やしろ)だと知って、私はある説法を思い出した。麻原彰晃が説いたヴァジラヤーナの教えの特徴的なものとして、しばしば引用されているものだ。
「…金剛乗の教えというものは、もともとグルというものを絶対的な立場において、そのグルに帰依すると。自己を空っぽにする努力をすると。その空っぽになった器に、グルの経験、あるいはエネルギー、これをなみなみと満ち溢れさせると。つまりグルのクローン化をすると。あるいは守護者のクローン化をすると。これがヴァジラヤーナだね」(2)
八七年三月の説法でも、まだ若い上祐氏の「グルへの帰依というもののほんとうの意味を教えてください」という質問に、同じように「器」という表現で帰依を説明している。
「グルへの帰依というのは明け渡すってことなんだよ。どういうことかというとね、私たちは器なんだ。わかるかな。…器のなかにいろんなものを持っているわけだ。…グルへの帰依というのは、それを空っぽにしようとすることなんだよ。グルが透明なものを入れた段階でその人は成就するわけだね」
麻原彰晃が説く帰依とは、修行者が空っぽの器になって、そこにグルあるいは神のエネルギーが注がれることだという。「グルのクローンになる」という言葉は、オウムの非人間的な教えの例としてしばしば取り上げられたが、クローンという現代的な言葉を昔風に言い換えれば、人が神の「やしろ」「依り代」になるという表現がぴったりかもしれない。また「熊本」の由来はもともと「隈本」だったが、猛将加藤清正が「畏れる」という文字が含まれているのを嫌って「熊本」としたといわれている。「隈」は暗いところ影になっているところで、神が棲んでいると畏れられていた。

「八代郡金剛村」に生まれた麻原彰晃が宗教活動を終えるのは、「西八代郡上九一色村」。「西」は太陽が沈むところ、終わりの場所を象徴している。「上九一色」という地名も変わっている。終わりの数「九」と、始まりの数「一」が含まれていて、オウム真理教の「オウム」という聖音(マントラ)が、「阿(あ)」「吽(うん)」という始まりと終わりの意味であるのに似ている。


(1)『オウム真理教事件Ⅰ』( トランスビュー)p273
(2)一九八八年十月説法


番外編05.陽光と麻の原

金剛小学校の西側は田んぼや農業用ビニールハウスが並ぶ農地だった。空気はかすかに潮の香りをふくんで湿気が感じられた。このあたりは干拓地のはずだから少し歩けば海が見えるにちがいない。金剛小学校をあとにして、照りつける日差しをさえぎるものもない畑のなかの一本道を歩いて行くと、十分ほどで大きな川の堤防に着いた。そこは球磨川(くまがわ)の河口付近で、上流には八代中心街へつながる金剛橋、下流には八代海が広がっていた。私は堤防の上に立って、雲ひとつない青空と陽光きらめく穏やかな海を眺めた。
球磨川は熊本県一の川である。富士川、最上川と並んで日本三大急流の一つにも数えられているが、下流ではゆったりと流れて八代海へと注いでいる。明治時代には、川から流出する土砂が沿岸に堆積して大きな洲がつくられ、干潮のときは四キロ以上沖合いまで干潟となったという。
球磨川は「求麻(くま)川」「九万(くま)川」「木綿葉(ゆうば)川」などさまざまな呼び名をもっている。求麻川、木綿葉川はどちらも「麻」に関連する名前で、川の上流の球磨地方では昔から麻の栽培がさかんだった。藤原定隆の和歌にこう詠われている。
「夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊しつらむ」
球磨川は麻の葉が流れてくる川だった。


金剛橋
球磨川河口付近から上流の金剛橋

球磨川
河口付近から八代海

「麻原彰晃」という宗教名はどこからつけられたのだろうか。
『麻原彰晃の誕生』(高山文彦著)には、一九八二年頃、西山祥雲という人物から「彰晃」という名前をもらった経緯が書かれていて、「麻原彰晃」と名乗るのは一九八三年の渋谷ヨーガ教室時代、麻原彰晃二十八歳のときからだとされている。教団内部の資料に名前の由来についての記録は残っていないが、名前の意味を尋ねられて「麻原彰晃=アシュラ・シャカ」と答えたことがあるようだ。早川紀代秀死刑囚の著書にもそう書かれているから、麻原彰晃が弟子にそう語ったことは間違いないだろう。「アシュラ・シャカ」とは、阿修羅界のシャカすなわち戦うブッダという意味なのだろうか。

球磨川を見ながら、私は「麻原彰晃」という名のイメージを広げてみた。
「麻原彰晃…麻の原にふりそそぐ太陽の光か…。かつてこの川の上流には麻の生い茂る野原が広がっていた。古代から、麻は日本中どこでも栽培されている身近で有用で、そして神聖な植物だったのに、戦後はすっかり姿を消してしまった。“麻原”って、敗戦とアメリカの占領軍によって失われた日本の原風景の一つかもしれないなぁ…」(1)

(1)麻=大麻。インドではシヴァ神に捧げられる供物の一つで、日本神道では天照大神(アマテラス)に関連し、その強い生命力から神の依り代となる神聖な植物とされる。敗戦後、占領軍のもとで「大麻取締法」が制定され、麻の栽培は免許制になり、化学繊維の広がりもあって栽培面積は激減した。


番外編06.不知火

球磨川が流れ込む八代海は不知火海ともよばれている。
「土地の人は八代海と不知火海、どちらを使うんですか?」
肥後高田駅から乗ったタクシーで運転手に尋ねたとき、間髪を入れず「しらぬい」という答えが返ってきた。

不知火海


不知火海の「不知火」とは、毎年旧暦の八月前後の満潮時に現れる自然の怪火の一種だ。『日本書紀』『肥前国風土紀』『肥後国風土紀』には、景行天皇(第十二代天皇)が熊本を訪れた際に、この不知火を目印にして船を進めたと記されている。江戸時代の記録が一番数多く、その後は次第に減っていく。昔の人が妖怪だと思っていた不知火とはどんなものだろうか。

「海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、『親火(おやび)』と呼ばれる火が出現する。それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶ。その距離は四~五キロメートルにも及ぶという。」『幻想動物事典』

大正期に入って、不知火は蜃気楼の一種だと解明され、今では海の汚染や街の明かりのためにほとんど見ることができなくなった。それでも土地の人にとってこの海は「不知火」なのだろう。私は不知火という現象から、麻原彰晃がシャクティーパットによって、多くの人の霊的な炎・クンダリニーを覚醒させたことを連想した。
八五年暮れのセミナーで麻原彰晃はこう言っている。
「私がこの世に生まれたのは、あなた方の霊性を高めるためです。その霊性とはなんぞやと。つまりあなた方は異次元のものを経験しなければ信じないでしょ? 信じますか? だから異次元を経験させなければならない。そのためにシャクティーパットをやったんです」
麻原彰晃はのべ八千人を越える人びとにシャクティーパットをおこなった。親火があらわれて数千の火に分かれ増えていく不知火のように、それを受けた多くの信徒が霊的な炎・クンダリニーの覚醒体験をしたことで、オウムは急速に発展していった。(1)

午後二時を過ぎて陽はやや西に傾いてきたが、日差しは強いままだった。晴れわたる空と海のあいだには、天草の島々がくっきりと見えている。
「こんなに近くに天草諸島が見えるんだ…来なければわからなかった…四百年くらい前かな? 多くのキリシタンが殺された戦争があったのは…」
私は、キリシタン一揆と天草四郎について調べてみたいと思いながら、今日予定していた最後の目的地に向かうことにした。八代に来たからには水俣まで足をのばしたかった。熊本県の最南端にある水俣市は、ここから電車で一時間ほど南下したところだ。水俣病の資料館を見るなら、今から行ってぎりぎり間に合うかどうかだが、この機会を逃したくないと、私は携帯電話でタクシーを呼んで肥後高田駅へと向かった。

(1)麻原彰晃のシャクティーパットは一九八四年頃から一九八八年までおこなわれ、八九年からは大乗のヨーガを成就した高弟に引き継がれた。麻原彰晃のシャクティーパットは終わったが、その後もさまざまなイニシエーションをおこなってエンパワーメントは続けられた。


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