91.続出する魔境

いわきのお屋敷で私は行き場のない思いを抱えていた。部屋にこもってリトリート修行ができると喜んだのは最初だけで、セミナー以来ひどくなった精神状態で一人狭い空間にいると感情が爆発しそうになった。
「ワァーーッ」
そう叫ぼうとした瞬間、部屋のドアがいきなり吹っ飛んだ。見ると、ちょうつがいがバラバラになっていた。
私は『キャリー』という古いオカルト映画を思い出した。
「ボロい小屋だけど、指一本触れてないのに、ありえない…」
狂っているのは私だけではないようだった。東京では、女性の信徒さんが「尊師の意思を受け取った」と言うようになり、彼女のまわりに人が集まりはじめた。(1)
福岡支部でも、一人の信徒が「アナハタチャクラから尊師のエネルギーが入ってきた」と言って霊的な力をふるい、支部のサマナや師までもがその信徒に従うようになった。精神不安定だった私は同行しなかったが、アーチャリー正大師といわきにいた師は、事態を正常化するために全国各支部の師たちと合流して福岡に駆けつけた。しばらくすると福岡支部の師とサマナがいわきにやってきて、長期の修行に入った。
いわきでも、ある人は大量の薬を飲んで救急車で搬送され、またある人はホールに灯油をまいて火をつけようとした。なんとなく、大きな屋敷全体が冷たい霊気に包まれてゆがんで見えるようだった。

私は、ときどきアーチャリー正大師に頼まれて運転手をする以外にワークといえるものはなく、説法テープを聴いて教学したり、田舎町を徘徊したり、ひまつぶしによく本を読んだ。その頃、偶然一冊の本を手にした。エリザベス・キューブラー・ロス(2)という著名な精神科医の『人生は廻る輪のように』(3)と題された彼女の自伝だ。私は大学時代にロスが書いた『死ぬ瞬間』という世界的なベストセラーを読んで、死にゆく人の看取りに興味を持ったことがあった。当時出版されていた「死ぬ瞬間シリーズ」はすべて読んでいたので、いわき市の本屋に並んでいた新刊にエリザベス・キューブラー・ロスの名前を見つけたとき、「なつかしいなあ」と思ってすぐに買って読んでみた。
本は感動的な内容だった。意思の強い女性の生き方、死と正面から向き合う姿勢、透徹な理性と豊かな感性――私はロスの人生に圧倒された。そして、しばらくすると、ロスの人生のどこかがオウムのなにかと似ているように感じられた。
エリザベス・キューブラー・ロスには、看護や福祉にかかわる誰もが知る素晴らしい業績がある。ところが、ロスは人生の後半に入ってから、霊能者にだまされ、長年連れ添った夫は去っていき、エイズの子どもたちのために作った施設は火事で全焼し(ロスは放火だと疑っている)、晩年には脳梗塞で倒れ、九回も脳梗塞をくり返しながら、意識は鮮明なままほとんど寝たきりの生活を送ることになる。
自伝を読み返すと、ロスがある強烈な「体験」をしたのを境に彼女の人生が暗転していくことに気がついた。それは、私の目から見て完璧と思える「クンダリニー覚醒」の体験だ。オウムにもたくさんのクンダリニー覚醒の体験があるけれど、これほどダイナミックなものを私は知らない。
クンダリニーが覚醒して、輝かしい人生から困難な人生へと反転してしまう――
私はそこにオウムと同じようななにかがあるのではと感じた。
そう、私たちも霊的な覚醒を通して輝かしい未来が約束されていると思っていたら、ある日突然とんでもなくかけ離れた所に立っていたのだ。

続けて読んだ、ロスの『「死ぬ瞬間」と臨死体験』(4)のなかに心に残った言葉があった。それは「象徴言語を学びなさい」という言葉だ。そのとき象徴言語という意味はわからなかったが、後にオウムと事件を理解するうえで象徴言語は重要な鍵となった。


(1)彼女のグループは「ケロヨンクラブ」と名乗るようになり分派した。これ以外に、名古屋でも一人の女性を中心としたグループが分派した。
(2)エリザベス・キューブラー・ロス(1926-2004)精神科医。今日死の受容のプロセスと呼ばれている「キューブラー=ロス モデル」を提唱した。死の間際にある患者とのかかわりや悲哀(Grief)の考察や悲哀の仕事(Grief work)についての先駆的な業績で知られる。
(3)『人生は廻る輪のように』上野圭一訳 角川書店(1998年)、角川文庫(2003年)
(4)『「死ぬ瞬間」と臨死体験』鈴木晶訳 読売新聞社(1997年)/改題して『「死ぬ瞬間」と死後の生』 中公文庫(2001年)


92.休眠宣言へ

いわきで過ごしていた時期、私はアーチャリー正大師に宗教的な指導を期待していたが、やがてつくづくこう思うようになった。
「この人は、普通の女の子なんだなぁ…」
なにを見てそう思ったのかは忘れてしまった。今後の教団の経済を心配して一生懸命考えた末に、姉妹で描いたイラストを印刷した便箋や封筒を売る文房具屋さんをやろうと言い出したときだったのかもしれない。何人かの女性の師が正大師に不満や恨みを抱いて教団をやめていくのを引き止める力がなかったときかもしれない。いろいろな姿を見ているうちに、アーチャリー正大師に教祖のような指導力を求める方が間違っていることに気がついた。私たちは無意識のうちに正大師と教祖を重ねて見ていたが、現実の正大師が教祖のようになれないのは当然のことだ。まして誰も経験したことのない異常な状況で、十三歳の正大師になにができるというのだろうか。こんなに当たり前のことがわからないのは、教祖がもっていた神秘力が血統のように子どもたちに引き継がれていると思うからだろう。

アーチャリー正大師に運転手を頼まれて長男と次男が住む旭村に何度か行くことがあった。当時、長男・次男は教祖とされていたが、まだ幼かったので、なにか意味のある言葉をかけてくれるわけでもなく、いつも遊んでいる姿を見ているだけだった(*)。その日、私は次男が遊んでいるところに居合わせた。紫色のクルタを着て、キャーキャー笑いながら走り回っている次男を見ているとき、部屋の天井あたりの空間からキラキラと大きな光のかけらがたくさん降ってきた。
「なんだろう…。ああ、これはプラーナだなあ…それにしてもずいぶんと大きいなあ…」
修行者はよく空気中にプラーナと呼ばれる光の粒を見ることがあるが、そのとき私が見たものはひらひらと舞い落ちてくる手のひらほどの大きさの光だった。
また、私が背中の痛みに苦しんでいるとき、なにも知らない長男に痛みのある所をすれ違いざまにたたかれたりもした。こういうことは、教祖の子どもたちに教祖のような神秘的な力があるから起きることだろうか? 私は、「教祖や長男・次男は特別な存在だ」と信じる閉じた世界のなかで起きる出来事だと思っている。そういう世界のなかでは、彼らに神秘力があるともいえるし、また彼ら個人に神秘力があるわけではないともいえる。
アーチャリー正大師については、こう考えるようになった。
「アーチャリー正大師は普通の女の子で、かつ正大師。どちらにも偏らずに彼女には両面あると見よう。そうすれば過剰な期待をしないですむから」

私たちはいわきを立ち退くことになった。今後どうしたらいいかあれこれ考えて、私は正大師に頼るのをきっぱりとやめることにした。そして、もう一度修行で自分を立て直すために、長野県木曽福島にあった「蓮華」という修行場でリトリート修行に入った。そこで三か月ほどかけて集中的に教義を学びなおすと、東信徒庁のときに行き来していた長野支部を担当することになった。信徒の少ない田舎の道場で、あまり人と接しなければなんとか精神的な安定を保つことができそうだった。
全国の支部では、事件後大幅に減った信徒数を盛り返そうと、意欲のある信徒を一堂に集めて導きを促進するセミナーを企画していた。導きを得意としていた私はセミナー期間だけは積極的にかかわった。
「日本中から排斥されるこの状況は大いなるカルマ落としだから、それに耐えれば教団は飛躍的に発展するはずだ。今こそ救済を意識して真理を広めよう」
そして、導きセミナーで気持ちが盛り上がったサマナたちが、街頭で「尊師マーチ」を歌って踊るという常識を逸脱したパフォーマンスを繰り広げると、世間から猛烈な非難を受けることになった。
この頃から、私はやっと教団の置かれた状況について冷静に考えられるようになった。よく「ピンチはチャンスだ」と言われる。たとえ一文無しになっても億の借金を抱えようとも、それを跳ね返すほどの努力をすれば逆転できる。それを乗り越えてこそ本当の力がつくということだ。そのような発想から、教団の状況が変わらないのはまだまだ努力が足りないからだと思っていた。しかし、どうやらこれは努力で挽回するとか、困難を克服するという、ただ闇雲に前進することでは解決できないのではないか? と少し冷静に思えるようになった。そして、「事件って、いったいなんだったんだろう…」という思いも浮かんできた。

長老部は実質崩壊していて、何も決めることができないまま教団運営は混迷していた。重大な事件についての見解を保留して宗教活動を続けても、国民の強い反発を招くだけだった。長野県北御牧村の排斥運動をはじめとして、オウムの施設がある地域では住民の激しい反対運動が起こり、サマナの住民票を受け入れないという自治体も出てきた。私たちは完全に「非国民」になっていた。これまでずっと社会を無視してきた出家教団も、ついに宗教活動を自粛せざるをえなくなり「休眠宣言」へと追い込まれた。「オウム真理教」の名称は破産管財人により使用禁止が通告され、教団の対外的な宗教活動は全面的に休止した。こうしてオウム真理教の終わりが決定的になったのは、奇しくも教祖が世界の破滅を予言していた世紀末、ノストラダムスの予言の年一九九九年九月末のことだった。

(*)一九九六年破防法弁明手続きにおいて、教祖は教祖を辞した。代わりに長男・次男が教祖とするようにという指示があった。


93.マイトレーヤ復帰

一九九九年十二月末、マイトレーヤ正大師(上祐史浩氏・現ひかりの輪代表)が三年の刑期を終えて教団に戻ってきた。服役した高弟で信仰を守って教団に帰ってきた人は少ない。マイトレーヤ正大師は裁判でも堂々と「尊師は私のすべてです!」と宣言し、勾留中もサマナを励まして教団を陰から支えていた。
正大師が入った横浜道場は、大勢の警察とマスコミ関係者と野次馬に取り囲まれて、かつての青山道場を彷彿とさせる騒ぎだった。すぐに成就者全員に横浜道場に集合するよう連絡があった。私は、五年ぶりに会う正大師の姿――独房修行を終えたような全体的にすっきりと平安な感じを見て安心すると同時に、新しい世紀がはじまるときに帰還した正大師に希望を抱いた。これから新しい教団がはじまるに違いない、と。
「正大師って、やっぱりすごいね。心が寂静の状態だよね」
刑務所での長い修行の成果を感じとってこう称える人もいた。
正大師は休みなく会合を開いて教団の現状を把握しようとした。
「やれやれ、これで教団もまとまって動きはじめるだろう」
多くのサマナがマイトレーヤ正大師の教団復帰と今後の運営に期待したと思う。

正大師は、まず社会に対して事件の謝罪と賠償について教団の見解を発表した。記者会見を頻繁に開いて積極的に情報を発信し、それまで教団がおろそかにしてきた社会融和を進めた。二〇〇二年には「アレフ」と改称して代表に就き、教団を建て直すために精力的に活動していった。全国の支部道場を回って正大師説法会を定期的に開き、在家信徒に対してシャクティーパット・イニシエーションを実施した。サマナに対しては、長年滞っていたステージ昇格をおこない、サマナの念願だったクンダリニー・ヨーガ成就のための極厳修行を再開した。
法則を説き、イニシエーションをして、成就の認定をすることは、まさにオウムの再建だった。正大師専属の「秘書室」という部署もできて、スタッフの数も多くなり正大師は教祖のようだった。マイトレーヤ正大師が成就者を従えて全国を移動する途中、高速道路のサービスエリアで食事をしたことがあった。オウム時代のように、私たちはもう白い制服を着て闊歩することこそなかったが、それでも正大師を取り巻く師やサマナの様子は、かつての「尊師御一行」によく似ていた。
正大師の意向に気を配り、正大師の言葉に耳をそばだて、正大師の近くへ行こうとする。
「また、このピラミッドをやるのか…」
結末を知っている映画を観ているような気分で、私はどうも気持ちがのらなかった。正大師に期待してはいたが、どうやら私は教祖と正大師を入れ替えて、以前のオウムのようになることを歓迎していないようだった。


94.「二十一世紀の大黒柱」

二〇〇二年、教団の体制も整ってきたある日、マイトレーヤ正大師が一緒にいた数人の師にこう言った。
「とても印象的なヴィジョンを見たんだ。噴火する火山と龍神があらわれて、それからとても神聖な感じのする柱があらわれたんだよ。それを自分がまわして、スポークのようなものをこうやって押してね。左手にはチベットの僧侶のような人物がいた。そして『二十一世紀の大黒柱』という声が聞こえたんだ」(1)
身振り手振りを加えて話す様子から、それがとても印象的なヴィジョンだったことが伝わってきた。成就者全員が集まる会合でも、マイトレーヤ正大師はこのヴィジョンの話をしたので、私はちょうど読んでいた神話の研究書に「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」という絵が載っていたことを思いだして言った。(2)
「それはインドの乳海攪拌という神話にとても雰囲気が似ていますね」
正大師は、ヴィジョンがインドの神話に似ていることに心惹かれたようだった。ほどなくして山に登ったら、偶然にも「大黒岳」という名前で、高速道路のサービスエリアに立ち寄ると「大黒柱」と書いてある一メートルほどもある麩菓子が売っていたという。それに驚くだけならまだしも、その麩菓子を大量に購入し、修法して(エネルギーを込める)イニシエーションとしてサマナに配った。
私は大きな黒い麩菓子をもらって、「はあ…」と気が抜ける思いがした。それを神聖なものとして受けとる気持ちにはなれなかった。この頃、マイトレーヤ正大師は行く先々で頻繁に虹を見るようになった。神々しいほどの虹、あるいは二重三重の虹が出現したといっては正大師もまわりも奇跡に酔っているようだった。そして、そのうちに「ヴィヴェーカーナンダ」というインドの宗教家と正大師が似ていると盛り上がりはじめた。ヴィヴェーカーナンダはインドの大聖者ラーマクリシュナ(3)の高弟で、アメリカに渡って真理を広めた聖人だ。そう指摘された正大師は興味深いと思ったのだろう、現在自分の周囲にいるサマナと、ラーマクリシュナの弟子たちの顔や性格の類似点をあげて言った。
「この人、T師に顔が似ているよね」
すると秘書室の師が歓声を上げた。
「うぁー、似てる、似てるー」
それは内輪話にとどまらず、全サマナの集会でプロジェクターを使って写真を大きく映し出しながら、ヴィヴェーカーナンダと正大師の類似点や、ラーマクリシュナの弟子たちと教祖の弟子たちの類似点を発表した。
「これを聞かせて、いったいどうするつもり?」
私はかなり白けていた。正大師の教団改革には概ね賛成だったが、大黒柱や虹や、過去世でヴィヴェーカーナンダではないかということが、教団の中枢から声高に言われるとついていけなかった。(4)
神秘体験や共時的な現象(シンクロニシティー)は、当事者にとって神々しいことでも、それを聞く者にとっては白々しいものになりがちだという特徴がある。おそらくオウムで最も多くの神秘体験をしたのは教祖だったと思うが、教祖はそれをあまり語らなかった。まれに説法でふれるときは、さらっと話してそれにこだわることはなかった。

マイトレーヤ正大師にとって「二十一世紀の大黒柱」というヴィジョンは神の啓示だったのだろう。正大師は、一九九九年末に教団に復帰して、二十一世紀に入ると同時に教団を建て直し、復活させようとしていたのだから、「二十一世紀の大黒柱」という神のような声は「これからは自分が中心になって世界を救済していく」という自覚を正大師にもたらしたと思う。神話的要素を含んだヴィジョン(夢)を見るとき、人はなにかにとり憑かれたように自分を見失っていく。そのとき必ず共時的な出来事が頻発してくるので、さらに神秘にからめとられていく。
このように個人が見るヴィジョン(夢)が神話的要素と重なると、自我は神話(人類の夢)を生みだす巨大なエネルギーによって舞いあがり肥大する(エゴ・インフレーション)。それは内的世界を歩む者が深みに入っていくとき、必ずつきまとう危険だということは強調してもしすぎることはない。


(1)上祐氏自身による「二十一世紀の大黒柱」のヴィジョンの描写は以下。
「最初に火山の噴火があり、その後に龍神のヴィジョンが現れた。その後に、世界中に向けて神聖なエネルギーを発する回転体が現れ、その回転体から、透明感のある赤を中心とした美しい色のエネルギーが、私の方に棒のように伸びていた。
 私は、それが非常に貴重なものであると感じ、自分の手で掴み、その棒を押すことで、その回転体を回転させた。同時に、その時に、「21世紀の大黒柱」という声が聞こえた。また、その場には、チベットのように赤い服を着た僧がいて、見守っていた。」(ひかりの輪HPより)
(2)「乳海撹拌」は、古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』にあらわれるヒンドゥー教の天地創世神話。
太古、不老不死の霊薬アムリタをめぐり、神々とアスラ(悪鬼)が壮絶な戦いを繰り広げていたが、両者は疲労困憊し、ヴィシュヌ神(世界の維持神)に助けを求めた。
それを受けて、ヴィシュヌ神はこう言った。「争いをやめ、互いに協力して大海をかき回すがよい。さすればアムリタが得られるであろう」
それを聞いた神々とアスラたちは、天空にそびえるマンダラ山を軸棒とし、亀の王クールマの背中で軸棒を支え、それに大蛇を巻きつけて撹拌のための綱とした。神々がその尻尾を、アスラたちがその頭をつかんで上下に揺さぶり大海を撹拌するというもの。
(3)ラーマクリシュナ(1836-1898)インドの宗教家。近代の代表的な聖人といわれている。ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)はその主要な弟子。
(4)ひかりの輪のホームページでは<オウムの教訓>として、この時期の神秘性への傾倒について検証され、問題点・反省点などが公開されている。


95.進む教団改革

教団改革と並行して、道場では新たな信徒獲得のための模索がはじまった。事件後は、いきなりオウム(アレフ)と言ったらほとんど拒絶されてしまうので、ヨーガなどを教えながら精神的な話をして、信頼関係ができたうえでオウムと言わなければならなかった。
マイトレーヤ正大師は、導きが得意な支部のサマナには導きに役立つ勉強をすることを許可した。サマナは基本的にオウムの本以外を読むことは禁止されていたから、これまでにない思い切ったことだった。心理学、トランスパーソナル、カウンセリング、ヒプノセラピー、ヒーリング、気功、占星術などの講座を受講して、資格を取得したサマナが教団に導くための前段階のさまざまな流れを作ろうとしていた。

その頃、私はオウムと事件について考えるために、「宗教とは何か」「真理とは何か」「霊性とは何か」ということを模索してヨーガの教典を読んでいた。そして、オウムという宗教が至った結末について自分なりに理解するまでは、サマナや信徒の指導はしないと密かに決めていた。
とはいっても、まったく何もしないわけにもいかないので、もっぱら一般向けのヨーガ教室(ダミーサークル)で講義をしていた。オウム用語を一切使わずに、だれにでもわかる言葉で「真理」を伝えたかったので、こつこつ積み上げてきた研究成果をもとにして、二部構成の講義をまとめあげ、関西、中部、東京を中心に延べ百回ほど講義をした。それなりに手応えを感じたが、オウム(アレフ)と明かさないダミーサークルは、結局は相手をだますことだった。興味をもたれるほど素性を偽っていることが重たくなっていった。話を聞いて感動してくれるのはうれしかったが、オウムとわかるとほとんどの人が戸惑い、あるいは恐怖し、そして去っていった。
真理を説いていたオウムが、どうして事件を起こしたのだろうか? 私はいつもこの問題に立ちかえることになった。

マイトレーヤ正大師による教団改革はさらに進んでいった。教祖の影響を隠すために祭壇から教祖の写真をおろした。ただ、もともと事件前のオウムの祭壇に教祖の写真はなかったし、個人的に写真を持っていることまで禁止されなかったので、それほど大きな問題にはならなかった。しかし、教祖との縁を重んじる成就者のなかには、このまま改革が進んでいけば、ゆくゆくは「上祐教」になってしまうことを危惧して教団を去る人もいた。
次はいよいよ正面切っての入信拡大だった。マイトレーヤ正大師を前面に押し出して人を集めるために『覚醒新世紀』と題した本を出版した。これは上祐史浩著となってはいたものの、内容は教祖の初期の著書『生死を超える』を焼き直したものだ。
正大師は『生死を超える』が出た頃のオウムに戻したかったのだろう。救済を掲げた「オウム真理教」ではなく、個人が修行して解脱の体験をすることが主流だった「オウム神仙の会」の時代に――。
そして、サマナ全員が持っていた教典『尊師ファイナルスピーチ』を回収した。公安調査庁に危険だと見なされる教義を削除し、改訂して再配布される予定だったが、教祖の著書『生死を超える』を自分の名前で出版したことや、ファイナルスピーチの改訂作業のなかで、マイトレーヤ正大師が教祖の説法を書き直したことが最上層部で問題になったようだ。
長くオウムの編集にいたからわかるが、教祖の説法に手を入れることはあり得ないことだった。説法はよどみなく論理が流れて、途中で雑談が入ることや話が脱線することはまったくなく、テープ起こしをして語尾などを直せばそのまま印刷できるくらい文章として整っていた。その教祖の説法を一部であっても弟子が書き換えるということは、おそらく編集を統括していたヤソーダラー正大師(教祖の妻)の逆鱗にふれるほどの「大罪」だったのだろう。
神聖不可侵である“グル”に弟子が手を入れる――それはマイトレーヤ正大師に対する反発が強まっていく最大の原因だったのだと思う。


96.戦争と分裂

二〇〇三年の後半以降、教団にあったのは骨肉の争いだった。「尊師の教団を上祐教にするのか」という信仰の根幹にかかわる問題だったので、代表派(上祐派)と反代表派の戦いは容赦のないものになった。ステージの高い順番に、まず正大師たちが対立し、争い、分裂し、次に正悟師そして師、サマナ、信徒という順番で対立し、分裂していった。それはまるで正大師が見たヴィジョンの「乳海攪拌」神話のように、教団を深部から激しくかき混ぜ、引き裂いていった。
まず、師から声が上がった。
「マイトレーヤ正大師はおかしい!」
「魔境だ!」
幹部の不祥事が発覚したこともあり、正大師は一旦改革を断念して、烏山の自室で長期のリトリート修行に入ることになった。(*)
反代表派のなかで、重要な役割を果たしたのが荒木君だった。正大師を批判する小さな会合を粘り強く繰り返したのだ。彼の背景には、教団の外から影響を与えている教祖の家族の存在があるといわれていた。下のステージの者が最高位の正大師を批判するのは、そんな後ろ盾でもなければできないことだろう。
荒木君の執拗ともいえる正大師批判は、私には宗教観の違いというより、一つの運命(カルマ)のように感じられた。マイトレーヤ正大師は、九二年に出家してオウムの非合法活動をまったく知らなかった荒木君を、広報部の顔という抜き差しならない立場に立たせた。さまざまなメディアに数年間露出したことは、荒木君の人生を決定的にしたと思う。正大師自らが教祖から離脱する方向へと歩み出そうとすれば、裏切り者の烙印を押され排斥されるのは当然の運命かもしれない。

長い年月信仰をともにしてきた修行者仲間が、翌日には敵になり反目し非難し合う。そんな愛憎劇が、あちらでもこちらでも起こっていた。私は正大師の宗教観はよく理解できたのだが、集団で行く神社参りやパワースポット巡りには興味がなかった。
この時期マイトレーヤ正大師はたしかに少しおかしかったと思う。烏山に住んでいる師は、正大師がなにか思いつくたびに、昼夜関係なく頻繁にミーティングに呼び出された。また、夜中に電話をかけてきては、考えていることをずーっとしゃべり続けることがよくあった。最初は私も「ええ、そうですね」「たしかに」と受け応えをしていたが、正大師は自論を一方的に延々と話し続けているだけで、こちらの返答を求めているわけではないのだなと思った。しまいには受話器を持っている腕が疲れて耳から離していたが、それでも受話器からは「日本とオウムのパラレル理論」という正大師の自説がとうとうと流れていた。さすがのマイトレーヤ正大師も、社会との軋轢と教団内部からの激しい突き上げで、どこかのネジが巻き切れてしまったのかもしれない。
「深夜の突然のミーティングと、電話でエンドレスな話をするのはやめてほしいなぁ…」と、私は思っていた。

結局、マイトレーヤ正大師はリトリート修行を中断して出てきた。それからは派閥のメンバーを従えて自由に活動するようになったので、分裂はさらに加速していった。
「この分裂騒ぎが、これまで信じてついてきてくれた信徒さんにまでおよんだら、教団は終わりだ。いくらなんでもそれはないだろう」
派閥間の激しい対立を見ながら私はそう思っていた。しかし、それは楽観的すぎた。最後には、全国各支部で代表派と反代表派との信徒の奪い合いがくりひろげられた。これまで教団を支え、信じてついてきた信徒の争奪戦――あまりにも醜いありさまに、私は「オウムは本当に終わったんだな…」と思うと同時に、この争いで決して癒されない傷をみんなが負った気がした。
「真理」を追求する仲間だと思っていたのに、事件から十年たってふたを開けてみたらまったく違うものを信じていたことが明らかになった。これほどまでに違う弟子たちを、教祖はいったいどうやって一つにまとめていたのだろう? と、不思議に思うほどだった。


(*)マイトレーヤ正大師のシャクティーパットは、オウム真理教時代十分間で五万円のお布施だった。アレフでは五分間一五〇万円。十分間三〇〇万円としておこなわれた。三億円以上を集めたとされるこのシャクティーパットの結果、正大師は多大なカルマを受けて魔境に入ったというのが、反代表派の正大師観だった。




97.私のハルマゲドン

教団の分裂と崩壊が進んでいくとき、私の内側にもこれまでにないようなことが起こった。
ある日、「識華」にいた頃ファミレスでよく会って話をしていたDから連絡があった。教団施設と離れて生活していたDは、マイトレーヤ正大師の方針が本当にグルを意識したものなのか、彼の権力欲によるものなのか判断しかねているようだった。
「正大師、どうなのかなぁ…。よく話してるんでしょう?」
烏山にいて正大師と話すことが多い私に、様子を聞きたいと言ってきたのだ。
あれから何年も経って、私もずいぶん変わった。今度は、よい法友としてDと話せるだろうと思って会ってみたが、その考えは甘かったことがすぐにわかった。Dは相変わらず教祖への帰依を熱く語り、話の最後には必ずこう言った。
「あなたには、愛も真理もなにもないわ」
「私からなにか気の利いた法則が盗めないかと思っているだけよ」
「いつもいいとこ取りのつまみ食いみたいな人生だわね」
面と向かって、グルに対する帰依もなく、真理も知らず、愛もないと言われると、しばらく忘れていたあの感覚――世界が侵食してきて呑み込まれてしまうような、ニューナルコの後の独特な感覚がよみがえってきた。そして、自分が暗い嵐のような狂気を抱えていたことを思い出した。
「あんなこと、もうまっぴらごめんだわ…」
過去世でよほど逆縁だったのかどうかは知らないが、私を混乱させるDとかかわるのは金輪際やめようと思った。部屋に暖房がないからと頼まれていた電気ストーブを届けに行ったら、それを最後にもう二度と会わないと決めた。Dの家の近くの駐車場で電気ストーブを手渡すときのことだった。
「なぜか、あなたの話には惹かれるけど、そこまで軽蔑されては…」
そう思いながら私が電気ストーブを差し出すと、それを手に取った瞬間、Dの顔はなにか非常におぞましいものを見たかのようにゆがんだ。
そして、手にした電気ストーブを駐車場のコンクリートに力いっぱいたたきつけた。

ガッシャーーン!

ひどい金属音がこだました。
私は静かに目を閉じた。
終わった、と思った。
そのとき、なぜか、世界が終わったのだ。
そして、ゆっくりと目を開けて上を見た。曇り空のなかに建ち並ぶビルはそのままだった。
「おかしいな…世界はたしかに今終わったのに、世界は続いているぞ…」
私は立ちすくんで終わったはずの世界を見渡した。見えている世界はいつもと変わらない。でも、もうひとつの、別の世界が終わったようだった。
これが私に起きたハルマゲドンだった。

それから、おかしなことが起こりはじめた。ある人と喫茶店で話をしていた。
「意識は自分と他人の区別をしているけど、自と他の区別をなくしていくと意識は広がっていく」
「そして、時間というのはあるように感じているけど、本当は時間なんてないんだよ…過去・現在・未来へと時間の流れがあるように意識は感じているけどね…」
いつものこんな話をしていると、途中から私を取り囲んでいる世界の様子が変わってくる。まわりで雑談をしている多くの人の存在感が急に増してくるようだった。他人として私と別に存在していた人々が、性別も年齢も違う人々が、突然自分とつながってしまうのだ。
「ここにいる人、みんな他人なのに、この人たちみんな私だ…」
とてもリアルにそれを感じる。まわりの人たちの話し声が遠のくと、入れ替わるように彼らの考えていることが意識を向けるとわかる。このときの空間は、密度が濃く、空気とは別のなにかで充たされているようだった。
この感覚が極まってくると、今度は私の胸(アナハタ・チャクラ)から、エネルギーがザァーッと世界に放出される。無尽蔵にあふれ出る圧倒的なエネルギーを感じながら、私は笑いだした。
「これが愛なんだ!」
これまで「愛ってなんだろう」「自分に愛がある」とか「愛がない」とか悩んでいたけれど、まったくナンセンスだった。愛は空気のようにこの空間に充ちていて、いつでもどこにでもあったのに! 
私は無量の愛を経験して嬉しくてしょうがなかった。
意識がこの状態に入ると、電話でだれかに質問しようと受話器に手をかける。その瞬間、質問の答えが心に浮かぶ。また、道を歩いていて向こうから二人連れが話しながら歩いてくる。すれ違うとき、彼らの会話の断片が耳に飛び込んでくる。言葉は独特な響きをもっていて、まるで「神の声」のように聞こえる。神の示唆のように聞こえる言葉が「右」だったら、それに従わなくてはならず、用もないのに右へ行くと何年も顔を見なかった信徒さんとばったり会うというようなことが起きた。

狂った人というのは、きっとこのような世界にいるのだろうと思う。私は本当に狂ってしまったか、新興宗教の教祖にでもなれるのでは? と思った。
ただし、これが続けばの話だが――。
その状態は、ほぼ一週間続いて消えた。



98.すべてが悟っている

しばらくすると、またおかしなことが起こった。烏山の私の部屋で二人の法友と修行について話していたときだった。私は、ちょうど講義に使おうと思っていた「真実の世界に時間はない」ということを、なんとかうまく表現できないかと試みていた。
聞いている二人はなかなか理解できないようだった。ああだこうだと説明をしていると、ふと、二人の顔に「たくらみ」を感じた。そして、私は、はっきりと気がついてしまった。

本当はすべてわかっているのだ。
彼らはわかっていない「ふり」をしているだけだ。
わからない様子は全部完璧な演技なのだ。

「ねえ、知らないふりをしているけど、二人とも本当は全部わかってるんでしょう?」
二人は、「なに言っているの?」という顔をした。それもまた完璧な演技だった。私は言った。
「本当は、なにもかもわかってるんでしょう?」
なにもかも知ったうえで演技をしている。観客は私で、彼らは舞台で演技している俳優のようなものだった。本当は、真実の世界を悟っていながら観客の私をだましている。
「二人とも、実は悟ってるんでしょう?」
そして、彼らが演じているシナリオを書いたのは、もちろん神だ。みんな神の書いたシナリオを忠実に演じているのだ。

私はこの決定的な真実を確かめるために、自室から出て、階下の事務所にいる他のサマナたちを見に行った。パソコンに向かっている人や、ご飯をよそっている人がいた。やっぱりみんな演技していた。やっていることは「ふり」であって、彼らもすべての真実を悟っていながら、なにも知らないような顔をして普通に生活していた。
私はみんなに向かって叫んでいた。
「みんな、本当はわかってるんでしょう? すべてを悟ってるのに、悟ってない演技をしているだけでしょう! わかってるよ!」

私はそのあと烏山の施設を出て、井の頭公園まで歩いて行った。道で見る人すべて、買い物袋を下げたおばさんや工事現場のおじさんや学校帰りの小学生、見る人見る人みんな悟っていた。井の頭公園を散歩している人たちも同じだった。今の今まで、私はこの演技に気がつかなかった。すっかりだまされていたのだ。犬を連れて散歩している人も悟っていた。まさかと思ってリードにつながれたダックスフンドを見た。犬がちらっと私を見た。なんと、犬でさえ、犬の演技をしているだけで人と同じように崇高な真実を悟っていた。

私以外のすべての存在が実は悟っていたのだ!

私は笑った。
「なんだ、わかってなかったのは私だけで、世界中なんの問題もなかったんだ!」
「私一人、一人だけがそれを知らなかったんだなぁ……」
見る人見る人みんなが悟っていると見えることは、世界の底が割れてしまったような感じだった。げらげらと大笑いしたい気分だった。
この「すべての人が悟っている」という状態も数日続いて終わった。

教団が引き裂かれていくとき、私はかなり危ない精神状態だったのだと思う。


99.コインを投げる

とうとう成就者会議で代表派(上祐派)の経理を分離することが議題に上ることになった。経理を分けて活動経費を出さないということは、マイトレーヤ正大師を教団から追い出すということだ。少し前、正大師は「暖簾分けみたいにできないかなぁ…」とつぶやいていたが、最上層部(教祖の家族)の決定には容赦がなかった。
私は分裂を決定する会議に出席した。
「財産を分けろー」「金を出せー」「ずるいー」「ずるいー」
代表派の女性の師たちは、正大師が多額の布施を集めたにもかかわらず、びた一文出さない教団に対して抗議の声を上げた。女性の甲高い叫び声のなか、反代表派は無表情で黙っているだけだった。
「あの人たち、マイトレーヤ正大師の指示でこんな態度をとっているのかなぁ」
彼女たちのとても修行者とは思えない態度に驚いたが、そんなふうに不満をあらわすしかなかったのだろう。それにしても会議とは名ばかりで、とても話し合う場ではなく、ひどくがっかりした。

どちらの派閥からも距離を置く「中間派」といわれていた人たちは嘆いていた。
「いったい四無量心の教えはどこへいったんだ」
「嫌悪しない、悪口を言わないという戒律は、批判しないという教えはどうなった…」
「ステージの高い人を批判するのは、重いカルマになるよ」
しかし、対立する派閥は話し合おうにも話にならなかった。
「まったく話が通じないんだよ」
という言葉をよく相方から聞いた。私も話をして「本当にまったく話が通じない」と思った。お互いに相手が悪いから、相手が聞かないから通じないと思っていたのだろう。
私は代表派ではないという意味では「反代表派」だったが、マイトレーヤ正大師の現実的な教団運営はよく理解できた。正大師を先達として尊敬してもいた。だからこそ、教団の分裂が進むにつれ密かに期待していたことがあった。それは、マイトレーヤ正大師に「クリシュナムルティのようになってほしい」という願いだ。クリシュナムルティは、神智学協会によって設立された教団の長だった。(1)
「宗教組織や組織的活動によって真理に到達することは不可能である」
そう言って、自らの教団を解散し一人歩み始めるクリシュナムルティのようになってくれたら。自分の派閥をつくるのではなく、教団を分裂させてしまうのではなく、教団は解散すべきだとして一人で歩む道を示してくれたら…。それは私自身に芽生えていた自立への願いだったのだろう。
教団を二分する争いのなかで脱会する者が相次いだ。
「正大師って宗教者というより、政治家なんだよねえ…」
正大師の側にいた人は、そうつぶやいて離れていった。
「教団をやめたら、あとの人生は余生だと思っているよ」
まだ三十代の男性成就者はこう言って去った。人生のすべてだったオウムをやめたあとを、「余生」と呼ぶ心境はとてもよくわかった。

経理を分ける会合のあと、私は「これでオウムは終わったな」と思った。教団に対して、私はずっと恩義のようなものを感じていた。私が入信を担当して、その後出家して部下になったサマナも少なからずいた。これまで私と縁があった信徒さんにも責任を感じた。だが、分裂してオウムが終わったならば、もう恩義も責任もないだろう。
それでも、まだどこかに迷いがあった私は、最後にコインを投げて決めることにした。
「表が出ればオウムで生きる。裏が出ればオウムをやめて生きる。どちらが出ても一生懸命に生きよう」
私はコインを投げた。
開いた手のひらの上のコインは裏だった。
少し、ほっとしたような気持ちがした。
正大師と五人の正悟師に、脱会すること、長きにわたってお世話になったこと、多々あったであろう非礼を詫びる短いメールを書いて送信した。挨拶の返信をくれたのはマイトレーヤ正大師だけだった。

私がオウム真理教に入信してから十七年の歳月が過ぎていた。


(1)クリシュナムルティ(1895-1986)インド生まれの宗教哲学者。教師。南インドのバラモンの出身。既存の宗教や哲学によらず、生の全体性に気づくことによる解放を説いた。彼は「真理は権威者を必要とするものではなく、まして集団に属するものではありえない」と言って、あらゆる宗教的権威や教義から離れた。



100.脱会して

脱会届けを出せばそれでオウムから脱却できるわけではない。
「オウムが過去になるまでに、最低でも十年はかかるだろうなぁ」
なにかとても重たい荷物を背負っているような感じがした。オウムをやめて新たな宗教や指導者や修行の場を求める人も多いが、私はまったくそんな気にはなれなかった。
「人まで殺した宗教にいて、なぜそんなことになったかわからないままなんて」
私はオウムという出来事をどうしても理解したかった。私たちは厳しい修行をして自己を超えることで、輝かしい未来へ向かっていると思っていたのだ。それなのに、どうして…。

生活費を稼ぎながら、それ以外の時間はすべて「オウムとはなんだったのか」という追究に費やした。教団を離れてもなんとか生活はしていけたが、数年前から悩まされていた子宮筋腫によるひどい貧血が悪化していった。血中のヘモグロビン値が通常の三分の一もない状態が長く続いて、しだいに起き上がっているのも辛くなり、近所のスーパーマーケットまで歩くのもままならなくなった。半年に一度、知り合いの医者に血液検査をしてもらいに行っていたが、「自分ならすぐに入院させて輸血して手術する」と言われた。
修行上の問題で、輸血や手術を避けたかった私は、決断がつかないまま投薬で対処していたが、活力がなくなり、気力がなくなっていくのがはっきりとわかった。昏々といくらでも眠ることができた。こうして生命エネルギーが極端に低下していくなかで、とても印象的な夢を見た。
その夢は、これまで見たどんなヴィジョンとも夢とも違うものだった。

******

私は北のホテルにいる。
あたりは少し暗い。
三人の後輩の女性修行者が一人ずつ訪ねてきてロビーで雑談する。

部屋に戻った私は、置いてあった寝椅子に横になる。
すると、三人の尊敬する男性修行者が部屋に入ってくる。
私が横になっている寝椅子の頭と足と中央を三人で持ち、
寝椅子ごと私を頭上に捧げ上げた。
そのとき、頭上で荘厳なバロック音楽が鳴り響いた。

部屋に大きな窓があって、ガラスごしに深い色の湖が見えていた。
湖にはサルベージ船が浮かんでいて、ダッ、ダッ、ダッ、ダッという船の大きなエンジン音が聞こえていた。
今まさに、冷たく暗い湖の底からなにかが引き上げられようとしている。
古い厚手の帆布に何重にも包まれた巨大な球体が、ユラユラと水中にあらわれた。
ザザーーッという水音とともに
ずっしりとした球体は水面から引き上げられ、止まった。

球体は神聖なエネルギーを発してまるで生きているようだった。
十文字にロープがかけられていて、そのロープのちょうど真ん中に一冊のノートがはさまれていた。
上から光が射してきて、ノートの表紙に書かれた文字を照らし出した。
そこには慣れた手書きの文字で「失われた少女の物語」と記されていた。

******

「失われた少女の物語?」
目が覚めて思わずつぶやいた。
意味はまったくわからなかった。だが、見えない大きな重荷を下ろしたような、すべての緊張が解けたような解放感が私を包んでいた。なにかが起きたようだったが、なにが起きたのかはわからなかった。
二日、そして数日経っても心の解放感、広がりは変わらなかった。しばらくしても同じだった。どうやら私は変わったようだった。どこが、なにがといわれると困るのだが、なにかが決定的に変わっていた。変わるというのは劇的なことだろうと思っていたが、変化は私の知らないところで自然に起きたようだ。
しばらくぶりに会った人から「性格がまあるくなった?」と言われた。
「そうかもね」
私は笑って答えた。

夢には深く人を癒す力があることを体験した私は、夢とヴィジョンの研究に没頭した。それは象徴言語を理解していくことだった。あらわれている記号やイメージから全体のメッセージを感じとるのだ。研究していくうちに、オウムとはなんだったのかということも、象徴言語を読み解くことで、わかることがあるのではないかと思った。象徴を読み解くためには、日常の意識で考えるのではなく、ぼんやりとした薄明かりのなかで全体のイメージをとらえる、というようなことが必要だった。それは本当に雲をつかむような話で、オウムを辞めた友人に研究の話をしてもほとんど理解されなかった。でも、オウムという現象にあらわれている象徴を読み解くことで、なにか意味があらわれてくるのではないか、という直観があった。