79.青山緊急対策本部

地下鉄サリン事件の二日後、オウム真理教に対する全国一斉強制捜査は二五か所におよんだ(公証人役場事務長逮捕監禁致死事件容疑)。警視庁は自衛隊の協力も要請し、警察官と機動隊合わせて一六六〇人体勢で臨んだという。私が強制捜査当日「軍隊がやってきた」と感じたのも的外れではなかったようだ。
第六サティアンの強制捜査が終わると、私はすぐに青山道場に戻った。
交差点に面した五階建ての青山道場ビルは、機動隊が二十四時間監視・警護にあたり、包囲線の外側は報道陣のカメラで何重にも取り囲まれていた。
青山では通常の道場活動をすることができなくなり、ロシア支部から急遽帰国したマイトレーヤ正大師(上祐史浩氏)をトップとする緊急対策本部が置かれマスコミ対応の場となった。私は緊急対策本部のワークをすることになり青山道場に残った。

それから、多くの法友が次々と逮捕・勾留・起訴されるという異常な日常がはじまった。
私のまわりでは東信徒庁大臣のサクラー正悟師が最初だった。
仮谷さんの妹さんを担当していたサクラー正悟師は、仮谷さん拉致事件の容疑で逮捕されることを覚悟して身辺整理をしていた。
「これは大切なものだから、あなたに保管をお願いするわ。それ以外の物は処分してかまわないから」
そう言って、教祖から贈られた座具(瞑想するときの敷物)と、タンカ(チベット密教の宗教画)と、修行用の竹刀、そしておびただしい数の教祖の説法テープを詰めた段ボール箱を私に託した。

サマナも師も、正悟師も、正大師ですら逮捕されていった。ほとんどの信徒とサマナにとって、あらゆることが青天の霹靂のような事態だった。解脱と救済のために修行をしていたはずなのに多くの修行者が逮捕されていった。なにが起こっているかまだよくわかっていなかった私は、連行される仲間の姿を極厳修行に入る修行者を見るような気持ちで見送った。取り調べに対して黙秘することは「沈黙の行」という修行、取調官の厳しい尋問は「カルマ落とし」で、それに耐えることが逮捕された修行者の課題だと思っていた。
ほどなくして、治療省大臣だったクリシュナナンダ師(林郁夫受刑囚)が「地下鉄にサリンをまきました」と自白したと報道された。
このときもし、修行仲間が無差別殺人を犯したことと、自白したことのどちらがショックだったかと問われたら、私は「自白」と答えたかもしれない。教団がテロを実行したことはそれくらい現実味がなかった。それに対して、逮捕された修行者が自白することは明らかに修行の断念であり信仰を捨てることだ。
クリシュナナンダ師ほどの修行者が、逮捕から日もたたないうちに自白することがあるだろうか? 有能な心臓外科医の地位と名誉を捨てて、すべての財産を布施して出家した彼ほどの修行者が簡単に修行を放棄するなんて、報道はなにかの間違いか他の容疑者を動揺させるためのデマではないかと疑った。


80.吐き気

メディアを通じて次々に明らかになる教団の犯罪事実を見ても、私は冷静に立ち止まって考えることはできなかった。そのなかで、坂本弁護士一家の遺体が発見されたことを報じる新聞の一面を見たときのことはよく覚えている。
緊急対策本部でマスコミ対応をしていた私は、毎日あらゆる新聞や雑誌テレビの報道を目にしていた。オウムに関する記事は、私が実際に知っているオウムとあまりにかけ離れていたので、「どうせマスコミはまたデタラメを…」と思って見出しを見るだけで真剣に記事を読まなかった。
ところが、坂本弁護士一家の遺体が、アングリマーラ師(岡崎一明死刑囚)の自白通りの場所で発見されたことを報じる各紙の一面記事には目が釘付けになった。見出しを読むだけでも、坂本弁護士一家殺害はオウムの犯行であることは明白だった。

最初は信じられなかった。百歩譲れば、坂本弁護士を殺害することには教団なりの動機があったのかもしれない。しかし、なんの関係もない妻や一歳になったばかりの赤ちゃんを殺すことに、いったいどんな理由があるというのだろうか? 
そんな疑問がわきあがってくる直前、私は「うっ」と吐き気をもよおした。
そして、何事もなかったかのようにワークに戻った。広報部のファックスは途切れることなく取材の申し込みを吐き出していた。それを分類し、整理し、スケジュールを調整し、返事を送った。次に何がおこるかわからない教団の切迫した状況と、押し寄せるメディアとの戦いの最前線にいて、やるべきことはたくさんあった――。

青山道場の地下には「アンタカラ」という喫茶室があった。入会案内や信徒さんとの面談に使われていたが、事件後はマスコミの取材、外部の人とのさまざまな打ち合わせに使われるようになっていた。
強制捜査の大混乱のすぐあとだったと思う。宗教学者のX氏がずいぶんあわてた様子でマイトレーヤ正大師に会いにやってきた。アンタカラには一般席と個室があった。X氏と正大師を個室に案内した私は、ドアが閉まる寸前に著名な宗教学者の興奮した声を漏れ聞いた。
「覚者の救済計画というものが本当にあるんだと、覚者の救済計画が、本当にあるんだということが…」
「救済計画」という言葉はオウムでよく耳にした言葉だ。
「この人はいったい何を言っているんだろう? まるでオウムのサマナのようなことを言っている…」
そう思って閉まる個室のドアを見た。
四月、アンタカラに降りる階段付近で、マンジュシュリー正大師(故村井秀夫氏)が暴漢に刺された。右のわき腹から大量の血を流して意識を失って横たわっている高弟のそばで、私は多くのサマナとともになすすべもなく立っていた。
五月、第六サティアンに身を隠していた教祖が逮捕された。警視庁へ護送される車中の教祖の姿が、テレビから何度も何度も流れていた。



81.後継者はサマナ

全国一斉強制捜査以来、マスコミ対応を通じて最前線で教団を防衛してきたマイトレーヤ正大師にも、司法の手がすぐそこまで伸びているようだった。「上祐逮捕」の噂は何度か流れていたので、正大師自身も広報部のメンバーも近いうちにその日が来ることを覚悟していた。残された大きな問題は、マイトレーヤ正大師が逮捕された後いったいだれがオウム真理教広報部の責任者になるかということだった。
マイトレーヤ正大師は自分の代わりをだれにするか検討に検討を重ねている様子だった。当時、広報部の責任者にかかるストレスは相当なものだったろう。ステージの高い正大師だから責務を放り出すこともつぶれることもなかったが、ほかのだれかが簡単に交代できるワークではなかった。オウムでは霊的ステージが絶対だったから、正大師のあとを任されるのは当然正悟師か師のはずだが、広報部に正悟師はいなかった。
そばで見ている感じでは、マイトレーヤ正大師の胸中にはナンディヤ師やラーマネーヤッカ師などが候補にあったと思う。彼らは教団のなかでは優秀な成就者だったが、日本中を敵に回した状況での対応となると、正大師もなかなか決断がつかない様子だった。
そして、最終的に正大師が選んだのは、成就者ではなくホーリーネーム(宗教名)さえない、ただのサマナの「荒木君」だった。

逮捕前日の深夜、青山道場の三階の一室でマイトレーヤ正大師が荒木君に言った。
「荒木君、あとのことは君に頼んだよ」
責任者選びの最中にあった迷いはなく、すっきりとした表情だった。
座法を組んですわって正大師を見上げながら、荒木君は言った。
「私にできるかどうかはわかりませんが…」
そう言ったあと荒木君は少し目をぱちくりした。
京都大学出身のどこかおっとりとした荒木君からは、この重責に対するとまどいや恐れは感じられなかった。大変な仕事を任される自分のことより、明日逮捕される正大師をただ気遣う荒木君の心情が私にも伝わってきた。
部屋には三人しかいなかった。マイトレーヤ正大師と荒木君の間には深い静けさとおごそかな空気が流れていた。
「広報部の引き継ぎなのに、なんだかとても宗教的な雰囲気だなあ…」
見ていた私はそう思った。
広報部で一緒に仕事をしていた荒木君は、どんなときでも育ちの良さがにじみ出てしまう「徳」のようなものがあった。よく言えば鷹揚、悪く言えばぼんやりしている感じで、だれも彼に悪意をもつことなどできそうになかった。そして、荒木君は見かけによらず芯の強いとびきりの頑固者だった。これは私もあとで知ったことだが…。

こうして荒木君は、全国民から嫌悪される教団の広報の顔となって矢面に立った。九六年から九九年まで、まるで針のむしろにすわるような役目によく耐えたと思う。どんな極厳修行よりも長くて厳しい修行だっただろう。
二〇〇〇年、刑期を終えて教団に帰ってきたマイトレーヤ正大師にとって、荒木君は側近中の側近になった。しかし、その七年後、荒木君は反上祐派の先頭に立ってマイトレーヤ正大師を教団から追い出すことになるのだから、運命というのは本当にわからないものだ。



82.ファイナルスピーチ

教祖逮捕の後、教団を見渡すとステージの高い成就者の半数が逮捕・勾留されているのでは、という状況だった。それでも教団は機能していた。信仰でつくられたピラミッド型組織は、上層部をはぎとられても簡単には崩れなかった。私は、オウム事件は一九九七年か一九九九年、遅くとも二〇〇四年までに起こるといわれていた地球規模の破壊(ハルマゲドン)にむけた、なにか意味のある出来事なのかもしれないと考えた。根拠などなかったが、そう考える以外に説明のしようがなかった。
この頃、教団には大きく二つの流れがあった。一つは教祖を信じてこの厳しい状況を耐え忍び、とにかく出家教団を守り抜こうとする流れ。もう一つは教団を離れて教祖を待つというものだ。もちろん明るみになる教団の犯罪を知って信仰を捨てて姿を消す者も多くいた。

今後どうなるかまったくわからない状況のなかで、出版・編集部は、万が一教団がなくなったとしてもサマナや信徒が法則を学べるように、教祖の説法をまとめる作業を急ピッチで進めていた。ほとんどすべての説法を合本にして全員に渡そうというのだ。教祖の説法や講話は、短いものを含めれば千以上もあり、録音されたものは文字におこされ校正されていた。オウムの編集・デザイン・印刷・製本部門は事件とはまったく関係がなく、人材も大型機械も強制捜査の影響を受けなかったので、驚異的ともいえる早さで説法の合本ができあがってきた。
『尊師ファイナルスピーチ』というタイトルの総ページ数三七一二、小さな文字でびっしり二段組の分厚い四分冊の教典を手にしたとき、私は編集担当者に尋ねた。
「このタイトル、いったいだれがつけたの?」
「尊師にお伺いをあげたらそういう答えだったんだよ。編集部であげたのは『パーフェクトスピーチ』というタイトルだったんだけどね」
という答えだった。
最初の頃は、逮捕・勾留されていた教祖に、私選弁護人を通じていろいろな「お伺い」をあげることができた。説法集のタイトルをどうするか教祖にきいて、返ってきた答えが「尊師ファイナルスピーチ」だったという。
私は不審に思った。
ファイナルスピーチ(最終説法)とはどういうことだろうか?
文字通り受け取れば、今後もう説法はないということだ。私は教祖がこのまま勾留されても、長く続くだろう公判の法廷でなんらかのかたちで法を説くと思っていた。いや、この状況は、日本のみならず世界中の注目を集めて真理を説くために用意されたのではないか、とさえ空想していた。そして、教祖は当然教団に帰ってくる、私はそう思っていた。過去の説法集を「尊師ファイナルスピーチ」と名づけた教祖は、もう帰ることはないと知っていたのだろう。

実際には、逮捕・勾留後もしばらくは弁護士を通じて教祖の講話は送られてきた。高弟の質問に対する答えや修行上のアドバイスのなかで、公開してよいものは各部署のリーダーにメールで送られてきた。サマナはこれを「尊師獄中説法」といってありがたがった。法則を学ぶことは好きだったが、送られてきた教祖の講話には、かつて私が感じたダルマの息吹のようなものはなかったように思う。当時はそういう認識はなく、ただなんとなく獄中説法に興味がもてなかった。説法の内容は「陽身の形成」など高度な内容もあったが、私が知っている教祖の説法は、淡々と法則を説きながらもそのときその場にいる弟子や信徒の心の状態にぴったり合っていて、説法を聴くとすっかり意識が変わったものだ。
獄中説法は、だれも聴くものがいない部屋でただ流れているような、だれに対して教えを説いているのかわからない遠い感じがした。今ここにいる私に語りかけているようには思えなかった。



83.教祖初公判

一九九六年四月二十四日、教祖の初公判の傍聴券を求めて一万二千人以上が列をつくった。サマナもできるだけ並んで教団関係者の傍聴席を確保しようとした。それ以降は、教祖の公判のたびに動員されたサマナが列に並び、抽選で当たった傍聴券はステージ順に割り振られて順番に傍聴するようになった。
私に傍聴の順番がきたのは梅雨明け頃だったと思う。
地下鉄丸の内線霞ヶ関駅の地上出口を出ると、すぐ目の前が東京地裁だった。公判開始前のロビーには、明らかにマスコミ関係者とわかる人たちがいた。もちろん私たちがオウムだということも一目瞭然だっただろう。流行とは無縁の服装、くたびれた靴、やや表情の乏しい顔、そして一様にウォークマンのイヤフォンをつけている――というのがサマナの外見的特徴だった。
マスコミ関係者らしい人の輪のなかにはオウムウォッチャーの江川紹子さんもいた。オウムを批判する人物を見ると、心は反射的に身構えるような緊張を覚えたが、彼らの方では私たちのことを「かわいそうなカルトの犠牲者」と内心あわれんでいただけだろう。

開廷時間がきて私は真ん中の三列目に座った。
二人の刑務官に伴われ、手錠と腰紐をした紺のジャージの上下を着た教祖が入ってきた。生身の教祖を見るのは一年以上ぶりだった。
私は、ほんの五、六メートル先にすわっている教祖を見つめた。言葉や身振りでなくていい、こちらに向ける一瞥か、私が感じることができるなにかを期待していた。そんな私の思いとは裏腹に、教祖はそこで起こっている出来事とも、そこにいるだれとも、もちろん万感の思いで見つめる弟子たちとも、一切関係なくただそこにすわっているだけだった。
「尊師!」
心のなかで、私は一度だけ呼びかけた。
カメラのファインダーをとおしてずっと教祖を見つめてきた私には、そこにかつての教祖を見つけることはできなかった。
法廷の教祖は印象が薄く、もうほとんどその姿を思い出すことができない。十年にわたる教祖の公判で、私が傍聴を希望したのはそれが最初で最後だった。

私が勾留中の教祖の言葉を重く受け取らなくなったのは、同じ時期に行なわれた破防法(破壊活動防止法)(1)の弁明手続きの意見陳述を伝え聞いてからだった。
破防法は団体の解散命令に始まり、団体に所属する者、団体を支持する者を根こそぎ検挙してしまう恐ろしい法律だ。それが成立したら教団は完全に壊滅する。弁明手続きのなかで、教祖は教義についてのさまざまな質問に答え、教団が今後破壊活動を起こす危険性はないこと、自ら代表を降りることを約束した。そして、こう言った。
「外にいる弟子たちの修行場を取り上げるようなことはどうかやめてください」
「私の一身にかえて、弟子の修行場を取り上げないでください」
弟子の修行を気遣う教祖の懇願に私は違和感を覚えた。
「今さらなにを言っているのだろうか…事件さえなければ、弟子が修行場を失うことなどないのに…」
地下鉄サリン事件が起こってから、私たちは世間の轟々たる非難にさらされていた。教祖の公判は始まったばかりだったが、弟子が指示もなくそんな大それたことをするとは考えられない。地下鉄にサリンを撒くなんてことをすれば教団が壊滅するのは当たり前なのに、弟子たちの修行環境を守ろうとする教祖の言葉は、現実とあまりにも乖離しているように感じた。(2)


(1)破壊活動防止法は、政治目的とする暴力的破壊活動団体の規制を目的に1952年(昭和27年)に施行されたもの。1995年当時の首相村山富市氏が適用手続きの開始を了承したことで、12月20日公安調査庁がオウム真理教に対して処分請求をした。その弁明手続きの一環として教祖は1996年5月15日と28日に東京拘置所で弁明を行なった。1997年1月31日公安審査委員会が要件を満たさないとして適用は見送られた。その代わりに「団体規制法」が制定・適用された。オウムの後継団体アレフやひかりの輪は、現在も観察対象になっている。
(2)安田好弘弁護士(国選弁護人の一人)の著書には教祖の破防法についての考えが書かれている。
「95年10月、当時の社会党・村山政権は、過去どの政権も適用してこなかった破防法の適用を申請した。
麻原さんは、躊躇なく言い放った。
『破防法は下世話な話である。宗教は、そのような話と次元を異にする。オウム真理教はそのようなものでは消滅しない。宗教は三人おれば成り立つ。弾圧されれば、バラバラになって、それぞれの者が、それぞれの宗教を実践すればいいではないか』
私は、その発言を聞いたとき、彼の宗教者としての姿を見た気がした。
しかし、麻原さんの考えには多くの人が反対した。戦後五〇年間、一度も発動させなかった破防法をオウムの宗教観だけのために適用させてはならない。」(『死刑弁護人 生きるという権利』(講談社+α文庫p351)
弁明手続きの発言は教祖の本来の意向とは違っていたようだ。



84.背後の狂気

事件後の私たちはまさに「流浪の民」だった。全国各地のオウム名義の賃貸物件からは追い出され、次の住まいを見つけて引っ越しても、素性がわかるとすぐさま「出ていけ」と言われた。たとえ大家が貸してくれたとしても、周囲の住民の猛烈な反対運動で結局は出て行かざるをえなくなった。
住居を貸してくれるのは、お金目当てのヤクザまがいか相当変わった人だけで、そんな人もオウムに物件を提供することがどんな厄介事を引き起こすかわかると、波が引くように早々に去っていった。この状況のなかでも、世間知らずの出家修行者が教団の置かれている現実を理解するまでには長い年月が必要だった。

青山道場が閉鎖されると、私は高円寺にあった「識華(のりか)」と呼ばれる教団が所有していた四階建てのビルに移った。私と縁のあるサマナや住居を失ったサマナが集まって一つの部署になっていた。日払いのアルバイトで稼いだり、「サティアンショップ」というオウムグッズを販売する店で勧誘活動をするサマナたちがいて、一階は厨房とショップ、二階は道場、三階はサマナ部屋、四階は師部屋。私はこの部署のリーダーとして最上階にいた。教祖と上層部を失って一年以上経つと、中堅成就者が部署のリーダーになり、私も識華という部署をまとめ、受難のときを堪え忍ぶようサマナを鼓舞し、あいまに教団施設を離れて暮らすようになったサマナや、縁がある信徒さんと会って励ました。
当時は、主な教団施設の入り口には二十四時間交代で警察官が立っていて、出入りするすべての人間をチェックしていた。警察に名乗るのが気分的に嫌な人たちとは、教団施設を避けてファミリーレストランで会っていた。
信徒さんと深夜のファミレスで話しているときだった。
壁際のテーブルに、一人でニヤニヤ笑いながら何かつぶやいている女性がいた。
どう見ても、どこかが狂っている様子だった。
私は「深夜のファミレスには変な人がいるものだなあ…」と思った。
別の日の夜、いつものようにファミレスで人と会って話していると、向こう側のテーブルに、ぼさぼさの汚れた髪をした何日も風呂に入っていないと思われる女性が、ブツブツと独り言を言いながら食事をしていた。
「最近、世間にはおかしな人が増えたのだろうか…?」
私はちょっとびっくりした。
そしてまた別の夜、私はDというホーリーネームのサマナとファミレスで話していた。ワンルームを借りて暮らしている彼女の近況を聞いて、「サマナの一人暮らしは問題があるから、私が担当している識華にきた方がいい」と勧めた。彼女は成就者の言葉に素直にしたがうタイプではなかった。Dからはこんな答えが返ってきた。
「前に支部であなたの説法を聞いたけど、聞くに耐えなかったから途中で退席したわ。あなたにはひとかけらの愛もないし、真理もわかってない」
それを聞いているとき、Dの後ろの席に一人の中年の女性がやってきて座った。私の席からはその様子がよく見えた。Dが「あなたには愛もないし、真理もわかっていない」と断言したとき、その女性はあらわれた。彼女はほかにだれもいないテーブルで空中を見ながらニヤニヤ笑っていた。明らかに普通ではない様子だった。

法則を説くことを得意にしていた私は、自分よりステージの下のDから完全にそれを否定された。それどころか軽蔑されていた。私は、表面では平静を装いながら、内心では「なんとしてでも、この反抗的なサマナを教団施設に戻さなければ」と考えていた。つまり私はかなりムカついていて、もしかすると同時にひどく動揺していたのかもしれない。



85.城

社会の風当たりは厳しく、教団の先行きもわからなかったが、私が担当していた「識華」はサマナの人数も増えてそれなりに落ち着いてきた。渋谷と高円寺のサティアンショップには、マスコミ関係者や「オウマー」と呼ばれる教団に好奇心のある人たちがやって来て、書籍や音楽テープや「上祐グッズ」を買っていった。マイトレーヤ正大師の緑色のクルタ(宗教服)が法外な値段で売れたこともあった。そういう「オウマー」の人が、修行したり法則を学んだりする信徒になることはそう多くはなかったと思う。
この頃、私はニューナルコのあとに経験した、自分のどこかが瓦解して世界が浸食してくるような危うい感覚を再びおぼえるようになった。なんの理由もないのに突然涙があふれ出すような精神不安に襲われて、心が崩れてしまうのではないかと思った。
あるときユニットバスに入っていたら、いつの間にか風呂場全体が海のなかにいるイメージに包まれていた。「なんだろうこれは…」と思いながら、私は溺れまいと浴槽のなかで膝を抱えてぎゅっと目をつむった。内側でなにかが起こっているようだった。大きなエネルギーが押し寄せて意識が呑み込まれるのではないか、このまま気が狂ってしまうのではないかという不安にさいなまれた。そんな精神状態でもなんとか部署をまとめるワークをこなしていたが、やがて師部屋に一人こもることが多くなった。
そして、普段ほとんど教祖が夢に出てくることはないのだが、印象的な教祖の夢を見た。

――小山のように大きな教祖が座法を組んですわっていた。
満面の笑みを浮かべて、明るくくったくのないいつもの深みのある声で言った。
「どうだデュパ、楽しいだろう」
あまりにも大きい教祖を見上げて、私はびっくりしていた。
「は、はい」と答えた。
教祖はマンガのようにばかでかく、楽しそうに笑っている表情と姿は実にリアルだった。――

夢のなかで、あんなにもリアルな教祖が明るく私の名前を呼んだのだから、今の私に問題などないに違いない。私はそう思って安心しようとした。ずっと後になって、夢やヴィジョンはそれを見た者の心を正確に映し出したものだと学んだ。巨人のような教祖を夢に見たとき、私のなにがか大きく膨らみすぎていたのだろう。巨大化した教祖は、部署の上に立って無意識のうちにエゴを肥大させていた私の心を投影した、自分自身の姿だったのだと思う。無知な私は、夢のなかの教祖が今の自分を認めているという都合のよい解釈をした。
折にふれて謙虚に自分を見つめて反省や懺悔をしなければ、破滅に向かって進んでいくしか道はない。あるとき、だれかが四階建ての「識華」のビルを「デュパ城」と呼んだ。これを耳にしたとき、自分のおかしさに気づくべきだった。ただ、自分がおかしいことを認めるのは難しいものだ。そして、「なにか変だ…」と思ったときにはたいてい手遅れでコントロールできなくなっている。
深夜のファミレスで、三度狂ったような女性を見たとき、私はそれが自分自身の心のあらわれだと気づくべきだった。


86.母なるソンシ

師部屋にこもりがちになっていた私は、一方で夜になると出かけてはファミリーレストランで人と会って話をした。特に、強制捜査の混乱の後で一人暮らしをはじめていたサマナのDには、教団施設に戻るよう説得を続けていた。しかし、話しているうちにどういうわけか、普通なら法を説く立場の私が聴き役になって、聴く立場のDが私に法を説いていた。Dはグルに帰依することがいかに素晴らしいかを熱心に語り、最後は決まって「あなたには愛がなく、真理を知らない」という説教になった。私はそれを嫌というほど聞かされていた。
法が説ける、真理を知っているとうぬぼれていた私は、サマナが語る信仰の話に引き込まれて、自分の法の理解がいかに薄っぺらで、頭で理解していただけだったかを思い知らされた。Dは、礼拝や供養や懺悔をとても神聖なものとして語り、それに耳を傾けながら信仰心がひとかけらもない自分に気づかされた。私にとっての信仰は、いつのまにか教団の「加行」「仕事」「義務」成就の「手段」のようになっていたのかもしれない。
Dは教祖をグルとして深く尊敬し帰依していた。どれもこれも私とは正反対で、私が持っていない宗教性をDが持っているように思えた。以前、私が「もう出家をやめて現世に帰ろう…」と心を揺らしていると必ずあらわれて、まったりとした京都弁で情感たっぷりにグルの素晴らしさを語るRという存在とどこか似ていた。

その頃、師部屋にこもって瞑想していると意識が飛んでこんなヴィジョンを見た。

――なだらかな坂道を私は歩いている。
あたりは夜明け前のように薄暗い。
私の右側に肩を寄せるように幼い妹のような女の子が歩いていた。
左側には私より大きい人物が歩いている。
三人ならんでゆっくり坂道をのぼっていった。
それほど傾斜のきつくない坂にもかかわらず、一歩一歩がとてもたいへんだった。
目指しているのは坂をのぼった先の丘だ。
そこには白銀に輝く円形の湖がはっきりと見えていた。――

「はっ」と意識が戻ってきても、ひと足ひと足歩む緊張感が身体に残っていた。なんということはないヴィジョンだが、あたりに漂う深閑とした雰囲気とぴんと張り詰めた空気、そして丘の上に見えている白銀の湖の輝きは美しい満月のようだった。
右隣を歩く小さな妹のような存在を、「あれはDでは…」と思った。
では、私の左側にいた大きな人物は誰なのだろう? 
という疑問が浮かぶと同時に、どこからか女性のやさしい声が響いた。

「母なるソンシです」

母なるソンシ…母なるソンシ…? 
私は何度もつぶやいた。教祖は強い指導者という男性的なイメージがあり、「母なるソンシ」というのは現実の教祖には似合わない。しかし、そのやわらかな言葉は、まるで啓示のように私の心にいつまでもこだましていた。


87.教団のゆくえ

逮捕された教祖から教団の代表について指示があった。
「今後逮捕される可能性のない弟子で、一番ステージの高いものが代表になるように」
事件にかかわりのないマイトレーヤ正大師も、理由をこじつけて逮捕される可能性は十分にあったので、経典翻訳部門のウッタマー正悟師(村岡達子氏)が「代表代行」に就任した。
教祖は破防法の弁明手続きのなかで「教祖」を辞し、代わりに幼い二人の息子(当時四歳と二歳)を教祖にたてて、教団運営は「長老部」がおこなうように指示した。長老部は教祖の三人の娘と六人の正悟師による合議制だったが、グルと弟子の一対一の関係を生きてきた正悟師たちは、話し合ってものごとを決めることに慣れていなかった。まして宗教的には上位に置かれる教祖の十代の娘三人との話し合いは、教団の舵を取るような局面ではまとまることは難しかったようだ。それでも信徒・サマナにとっては、だれが表向きのトップであろうと、どのように教団が運営されようと、教祖を信じて修行していくことがすべてだった。

オウム裁判の長期化は避けられず先の見通しは暗かった。
「尊師のいない教団にいたって意味がないじゃないか」
教祖逮捕後すぐに教団を離れた古いサマナはさらりと言い残して消えた。
事件によって信仰を失ったある成就者が言った。
「私はもう信じていないけど、座ればツァンダリーは起こるし甘露も落ちるよ」
ツァンダリーと甘露は、クンダリニー・ヨーガの内的体験の代表的なものだ。教祖に帰依しなくても修行の体験は起こると言って彼は去った。
信仰を失ったサマナはもちろん、信仰のあるサマナも教団を離れていった。いったい教団はどうなるのだろうか、私たちに修行ステージの向上、なによりも「今後、成就はあるの?…」という不安はぬぐえなかった。
一九九六年五月宗教法人オウム真理教の破産によって、いよいよ富士・上九から撤退するときが近づいていた。追い打ちをかけるように「破壊活動防止法」をオウムに適用しようとする動きがあり、適用されれば集まることさえ禁止されてしまう。そうなったら教団は壊滅する。危機感が強まるなか、聖地である富士・上九が失われる前に全サマナを対象に最後の修行がおこなわれることになった。指導するのは教祖の三女、当時十三歳のウマー・パールヴァティー・アーチャリー正大師だった。

さかのぼること六年前、教祖は三人の娘にクンダリニー・ヨーガの成就を認定してホーリーネームを与えた。入信したばかりだった私は、オウムを合理的な宗教だと思っていたので、自分の子どもにステージを与えるのは身内びいきではないか? と首をかしげた。三人の娘のなかでも三女は、盲目の教祖を先導して信徒の前に姿を見せた。まだ幼い少女が長い髪と長いヒゲをたくわえた教祖を導いて半歩ほど前を歩く姿は、見る者にやさしい光と明るい未来を感じさせていたと思う。三女はクンダリニーヨーガ認定後すぐに、わずか五歳でステージを一つ飛び越えて「正大師」(大乗のヨーガ成就者)になった。輪廻転生を信じるオウムでは、教祖のもとに子どもとして転生してくる魂は高い世界から降りてくるとされていた。三女が特別なのは、教祖がちょうど真理の修行に入ったときに転生してきたからだという。なおかつ教祖は三女を「救世主だ」とも言った。オウムの世界観のなかでは理屈は通っていたし、幼いながらアーチャリー正大師にはそう思わせるだけの不思議な存在感があった。いや、私たちがそう感じたのは、教祖の確固たる宗教世界のなかでアーチャリー正大師に付与された力――カリスマのせいだったのだろう。

*カリスマとは、人類学で「マナ」と呼ばれるものに相当する。宇宙に充満する生命力。キリスト教においては、神からの天与の賜物の意味である。


88.観念崩壊セミナー

一九九六年八月末、高円寺にいた私に第六サティアンでおこなわれる修行の監督をしてもらいたいという連絡がきた。精神不安定だった私は、「こんな状態で監督なんてできるかなあ…」と思った。でも、このまま「識華」にいても精神状態が改善するとは思えなかった。第六サティアンで、アーチャリー正大師の指導のもとでなら立て直せるかもしれない。そう期待した私は修行監督を引き受けることにした。
上九に行くと、一緒に修行監督をする七人の師も集まっていて、修行の名前は「観念崩壊セミナー」だと告げられた。
「アーチャリー正大師の観念崩壊セミナー…おそろしい名前だなあ…」
私はセミナーの名前を聞いてなんとなく嫌な予感がした。
セミナーの内容は、かつて法皇官房で入信のために考案された「自己啓発セミナー」のようなもので、内的な「気」を練ることを中心とした従来のオウムの修行とはずいぶん性質が違うものだった。正大師にそういう知識はなかったはずだから、セミナーを企画・提案した人がいたのだろう。

セミナーの期間は一週間から十日ほどで、第六サティアンに各部署のサマナが集められ、終わればまた別のサマナがやってきた。
初回のセミナーは手探り状態だった。グループにわかれてディスカッションをして、自分のカルマについて気づきを深め、それをもとに書いた「決意文」をみんなの前で大声で読み上げた。
「心がこもってなーい。もう一度!」
「はい、やり直し!」
私たち監督は、竹刀で畳をバシーンと叩いてはダメだしをした。
また、広い道場をいっぱいに使ってドッジボールや「水雷艦長」という鬼ごっこをした。アーチャリー正大師も大勢のサマナと一緒にボールを投げ合い駆けまわっていた。
「正大師、大人を相手に遊んで、おもしろいだろうねぇ…」
アーチャリー正大師は思いっきり身体を動かして遊ぶのが大好きだった。今後ばらばらになるかもしれないサマナが団結するためにゲームをすると言われたが、「どう考えても、やっぱりこれは正大師の遊びだよね…」と思った。
ところが、セミナーは回を重ねるごとに過酷なものになっていった。
大量の食物を食べる「極厳供養」や、足をひもで縛っておこなう「極厳蓮華座」、カルマを落とすためにホースで冷水をかけられたり、昼も夜も食事を与えられず屋外に放置されたりした。一日二日なら修行ですむことも、長期になると命がけのサバイバルだった。空腹のあまりコンテナに備蓄されている食材を見つけて盗み食いしたり、仮設トイレのなかで横になって眠ったり、寒さに耐えきれず逃げ出していなくなる人もいた。ストレスにさらされて激しい胃の痛みに救急搬送された人、蓮華座の足を監督が長時間きつく縛りすぎたために腎臓機能が低下し、入院する人も出た。精神的にも肉体的にも極厳状態に追い込まれながら、サマナは自分のカルマと闘おうとしていた。後半のセミナーは、正大師も道場に姿を見せることが少なくなっていった。

私は精神不安定を抱えながらも、ときどき三階のシールドルームにこもって正気を保ち、なんとか二か月におよぶ「観念崩壊セミナー」の監督の役目を果たした。最後のセミナーを終えたときは、「なにかの間違いで、死人が出るようなことにならなくて本当によかった…」と胸をなでおろした。今思うと、後半のセミナーはあまりにも異常だった。宗教性は失われ、狂気的なものが暴走してしまったと思う。
セミナーが終わると、私は一層激しい感情の渦に巻き込まれるようになった。わけもなく叫び声をあげそうになり、また止めどなく涙が流れてきて、なにもかも終わってしまうような予感がした。私はこのまま狂ってしまうのではないか…もう生きていくことさえできないような気がした。そして、富士・上九という聖地を失おうとしている教団もまた崩壊しつつあったのだろう。
ちょうど同じ頃、公判中の教祖にも異変が起きていた。急速に、明らかに教祖は正気を失っていった――。

*教祖の国選弁護人の一人安田好弘著『死刑弁護人 生きるという権利』(講談社+α文庫)によれば、1996年10月18日の第13回公判(地下鉄サリン事件・井上嘉浩の反対尋問・一回目)を境に教祖は変化する。
公判傍聴記録にも、「今朝、パールヴァティー女神から啓示があった」と言ったこの公判から、教祖の様子が変化した様子が記載されている。
安田氏の同著には、「もはや別人になった被告人」という見出しで、その様子を次のように書いている。
「この一週間後(第13回公判・引用者注)、拘置所に面会に行くと、麻原さんは錯乱していた。精神状態も肉体の状態も、それまでとまったく違ったものになっていた。何と言えばいいだろうか――。鼻水が垂れっぱなし、口からはよだれらしきものが流れている、肉体のあちこちから粘液が出ているという感じだった。そんな彼の姿は、それまでまったく見たことがなかった。」(p409)
このように、1996年10月末まで行われていた観念崩壊セミナーの終わりと、続く10月31日の第六サティアンの閉鎖とちょうど同じ頃、教祖は精神崩壊していった。
教祖の精神異常について、外部からの薬物投与などを疑う人もいるが、この変化の直前に教祖は「パールヴァティー女神から啓示があった」と発言しているので、なんらかの内的変化の結果だと私は思っている。