72.毒ガス攻撃

「オウムは毒ガスによる攻撃を受けている」
教祖がそう言い出したのは一九九三年十月だった。(1)
「えー、ほんとうかなあ…?」
私はそう思って聞いていたが、教祖はいつものとおり真剣な面持ちで、ロシアから取り寄せた毒ガス検知器を使って調べた結果、毒ガスが噴霧されていることが証明されたと言った。
毒ガスの影響で、富士・上九では体調不良を訴えるサマナが増えているという話も聞こえてくるようになったが、青山道場に常駐していた私は、「そんなことがあるのかなあ」と対岸の火事のように思っていた。用事で上九に行くと、コスモクリーナー(2)という毒ガスを無毒化するための空気清浄機の設置が進んでいて、そのうちに青山道場にも設置された。
九四年になると、教祖は各支部の説法会で信徒にも「米軍から毒ガス攻撃を受けている」と話すようになった。また、特にひどい被害のある上九の教祖宅から逃れて、ご家族とともにホテルを転々としているらしかった。
上九の警備ボックスわきを通ると、警備担当者が「今日はよく飛んでいるんですよ」と言って、双眼鏡をのぞいて上空のヘリコプターを監視していた。
「米軍が上空から毒ガスを噴霧している? そんなバカな…」
私はそう思ったが口には出さなかった。教祖や上九のサマナに実際に健康被害があるのだから、なにかが起こっているのかもしれない…しかし、米軍による攻撃というのは現実的ではないと思った。

ある日、青山道場で教祖の説法会があった。毒ガス攻撃が続いているから、肉体を強化するために武術や気功などを修行に加えるようにという内容だった。説法と新入会員向けの「参入の儀式」が終わって、教祖とおつきの正大師や警備は三階に準備されていた控え室に移動した。支部の様子など聞かれたりするので私も同席していたが、ご一行はとても急いでいて十分もすると波がひくように去っていった。
ガランとした大部屋に私は一人残っていた。そのときだった。突然気分が悪くなってその場に倒れこんで身体を動かすことができなくなった。
十五分ほど横になったまま目を閉じていると、なんとか起きあがることができるようになった。
「なんだろう、まさか、これが毒ガス?」
これまで経験したことのない身体の異常を感じたので、教祖が説法で言っていた「毒ガス攻撃」なのかもしれないと思った。でも、標的である教祖が去ってすぐに攻撃されるのはどうも腑に落ちなかった…。

オウムは本当に毒ガス攻撃を受けていたのだろうか?
私はアメリカ軍による毒ガス攻撃というのは、教祖と弟子が抱いた妄想だったと思っている。しかし、毒ガス攻撃がなかったのかといえば、ある意味で「毒ガス攻撃はあった」のだと思う。当時ロシアにいた上祐氏も、私が青山道場で経験したような急な体調不良を感じ、「毒ガス攻撃が始まったのかと不安に思った」と著書に書いている。(3)実際、多くのサマナが体調を崩し、多額の資金と人員を投入して毒ガス対策を講じたのだ。
毒ガス攻撃については諸説あり、教団内部に侵入していたスパイが毒ガスをまいていたと考えている人もいる。その可能性がまったくないとは言えないが、わたしは「集団ヒステリー」(4)と呼ばれる現象だったのではないかと思う。教祖が毒ガス攻撃を受けていると信じれば、周囲もそれを信じ、強い想念が現実に毒ガスが発生したような現象を形成したのではないだろうか(毒ガス検知器さえ反応した)。外部から攻撃されているという情報のもと、内部の結束力が強まり、毒ガスが現実化するに至ったのではないか。
この時期の教団は、とても大きなエネルギーに巻き込まれていて、地に足がついておらず、なにかに追い立てられ暴走しているような雰囲気だった。


(1)毒ガス攻撃を受けていると主張する以前、一九九二年十二月「大量の毒ガスを吸って体調を崩した」という説法での発言があった。それが最初の兆候だったのかもしれない。
(2)科学技術省が開発したオウム独自の空気清浄機。オゾン発生機にはじまり、毒ガスの成分に化学変化を起こさせて無毒化するという化学変化を利用した空気清浄機、活性炭を利用した空気清浄機も開発された。
(3)「また、ロシアにいた私も毒ガスを吸ったような体調不良を経験し、ロシア人信者に助けられ、車で病院に行くという出来事があった。症状はそれほど重いものではなく、病院に着く頃には、外気を吸ったせいか、すでに回復していた。そのため、何の検査も受けなかったので、症状の原因もわからない。<中略>ロシアにも毒ガス攻撃が始まったのかと不安に思った」(上祐史浩著『オウム事件17年目の告白』p135)
(4)「集団ヒステリー」は「集団パニック」ともいう。詳しいメカニズムは医学的、科学的には解明されていないが、古くから世界中で認められている現象である。一定の集団内で多数の人にヒステリー症状、すなわち、痙攣(けいれん)、失神、歩行障害、呼吸困難などの身体症状、または興奮、恍惚状態、意識障害、妄言、幻覚などの精神症状が伝播すること。通常は感情、関心、利害の共通である学友、寮仲間、小集落の住民、宗教団体などの親密な関係をもつ小集団内で、発端者がなんらかの症状を呈し、それが間もなく他の構成員につぎつぎと伝播する。


73.教祖との距離

一九九四年六月、オウムに省庁制(1)が導入された――というと、なにかすごいことがはじまった印象を与えるが、経理は「大蔵省」に、附属医院は「治療省」、科学班は「科学技術省」、建築班は「建設省」など、各部署の名前が変わっただけでサマナ(出家者)の日常に大きな変化はなかった。この時期サマナの数は千百人を超え、教祖の体調が悪化したこともあって全員を見ることができなくなり、大臣に省庁をまとめる責任と権限が与えられた。(2)オウムの修行の特徴は、グル(教祖)と弟子の一対一の関係にあったのだから、教祖が弟子から遠くなって「神聖法王」という天皇のような象徴的存在になったことは、振り返ってみればとても大きなことだったのかもしれない。
私は、サクラー正悟師を大臣とする東信徒庁(東日本の支部道場を管理・統括する部署)の三人の次官の一人として青山道場に常駐するようになった。教祖と弟子の距離が遠くなったこの時期に、逆に私は教祖と一対一になる機会があったのでそれを書いておこう。

教団にいた間に、私が教祖と二人だけになったことはわずかに二回だった。(私はあまり教祖の近くに行きたくなかったし、盲目の教祖の側にはいつも誰かがいた)。
一度は、支部活動の用事で第六サティアンの教祖の部屋に呼ばれたときだ。先に来ていたサクラー正悟師に教祖は言った。
「サクラー、ももの缶ジュースがあっただろう。デュパに持ってきてやってくれないか」
サクラー正悟師は「はい」と言うと、勝手知ったるという様子で部屋を出て行った。
私は教祖と二人だけになった。
ひとことふたこと言葉を交わしていたと思う。教祖の瞑想室でもある十畳ほどのがらんとした部屋で、私は教祖の問いかけにぽつぽつと答えながら、「あれ?」と思った。
その部屋の空間に透明なエネルギーの波紋が広がっているのに気づいたのだ。透明で視覚的にはきらめいて見える。そして、さざ波のように広がっていく。人は場のエネルギーの良し悪しというものをなんとなく感じているから、良いエネルギー・悪いエネルギーなら想像できるかもしれないが、透明なエネルギーというのはよくわからないかもしれない。そこにあったのは、良いとも清らかとも違う、ただ透明で広がっていくエネルギーだった。
サクラー正悟師が部屋に戻ってきて、教祖が言った。
「サクラー、場所はわかったか?」
このとき私はびっくりした。サクラー正悟師は教祖にとって最も古い十年来の愛弟子だから、「サクラー」と呼びかける声には無意識のうちに親しみがこもるものではないだろうか。ましてそこは公の場所ではないのだ。正悟師に対するときと私に対するときと、教祖の声が完璧に同じだったことに私はぎょっとした。
「サクラー正悟師と私と、ぜんぜん差がない…」
そして、今度はサクラー正悟師が私に話しかけてきた。驚いたことにサクラー正悟師の声も、私より先輩で教祖に近い高弟だという意識による差別が微塵もなく、その空間のエネルギーと同じように透明だった。このときの正悟師は普段とちょっと違うようだった。

もう一度は、ルドラ・チャクリンという薬物イニシエーション(3)を受けたときだ。このイニシエーションで使われた薬は、キリストのイニシエーションほど強烈なものではなく、わりと意識を保ちながら穏やかに潜在意識に入ってくような配合だったらしいが、私はこのイニシエーションで完全に気絶してしまった。これはかなりショックだった。なぜならこのとき私は教祖の誘導瞑想(教祖と一緒に瞑想する)を同時に受けていたからだ。
第六サティアンのシールドルームで蓮華座を組んで座っていると、すぐに深い意識に入っていくのがわかった。ほどなくドアが開いて「どうだ」と言って教祖が部屋に入ってきたが、私はもう答えることも目を開けることもできなかった。近くに教祖が座ったのはわかったが、それからはなにも覚えていない――。
どのくらいそうしていたのだろう。意識が戻ると、かなり時間がたっているように感じた。するとシールドルームのドアが開いた。
「どうだったか。速すぎてついてこれなかったようだな」
通路に立っていた教祖がそう言った。
「縁は深いんだがなあ、まだ思い出していないみたいだな」
教祖が続けてこう言ったとき、なぜか私はシールドルームからばっと外に飛び出して、立っている教祖の足元に土下座して懇願していた。
「どうか、もう二度と、二度と私を支部へ戻さないでください。お願いします。私にはまったく四無量心というものがないんです。なにもありません。絶対に、支部に戻さないでください…」(4)
イニシエーション中のことはなにも覚えていなかったから、どうしてこんな行動をしてこんなことを言ったのか理由を聞かれてもわからない。ただ、私はまるでなにかに圧倒されて、自分の卑小さを嫌というほど思い知って打ちのめされた人のように反応していた。
「四無量心がなければ、つちかえばいいじゃないか」
教祖はあっさりとそう言った。隅っこに置かれたデッキからは、オウムの曲「ウマーパールヴァティーの愛」のゆったりとした旋律が流れていた。


(1)全部で22省庁。新たにできた「法皇官房」は、薬物イニシエーションで大きな役割を果たした。省庁制の発足式の直後、松本にサリンがまかれた。
(2)省庁制について教祖は「破防法」弁明手続で次のように説明している。
「私の体調が非常に悪くてですね、それによって私の責任分担みたいなものを軽減したいということがございました。したがって、たとえば部・班制と、それから省庁制の違いは何かというと、ポイントとなる人事権と言ったらいいのでしょうか、たとえばトップの人、大臣とか長官と言われている人たちが次官を任命できるとか、あるいは自分たちの省庁の中にいる人たちについては、しっかりと全部管理運営するということが第一点のポイントでございます。それから、第二のポイントとしましては、サマナの数が多くなりまして、それによって、要するにどんどん私との距離が遠くなりまして象徴化みたいなものが行なわれたということです。
ですから、大体この二点がポイントでして、一般に言われている、権力が私に集中したのではなくて、逆に権力の分散が図られたということでございます。」
(3)「ルドラ・チャクリンのイニシエーション」は、「キリストのイニシエーション」を改良した薬物イニシエーション。
(4)四無量心(しむりょうしん)は、仏教の四つの偉大な心の働き。「慈」「悲」「喜」「捨」。



74.ヴァジラヤーナのノリ

一九九五年一月、クンダリニー・ヨーガの成就者以上が集められ「太陽寂静プロジェクト」(1)と呼ばれる企画が発表された。成就者全員がそれぞれ事業を立ち上げ、社員を雇い、社員を信徒にするという入信拡大を目的とした計画だった。
教祖は、成就者全員にどのような事業をやるかその場で考えるように言った。
会場は少しざわつき、みんな「うーん」と考え込んだ。
支部では、入信を増やすためにさまざまな取り組みが行われてきた。社会経験豊富な在家信徒と協力して、会社をおこして社員を募集し、研修といってセミナーを開き、有望な人材を入信に導くことも少しやっていた。私は東京本部で入信活動にかかわることが多く、そういう取り組みの最後の入信案内を担当して感じたことは、サークルや会社から入信させるのはとても効率が悪いということだ。「カレー愛好会」や「占いクラブ」などのサークル活動ならそれほどお金もかからないが、事業をおこし、社員を募集し、収益も上げて入信させるとなると大変なことだ。私が担当していた信徒のKさんは、米国発祥の巨大なネットワークビジネスで大成功した人で、知り合いを百人以上入信させたという教団始まって以来の導きの達人だった。Kさんが次々と知り合いをたどって教団に導く様子を見ていると、信徒が知り合いを紹介していく導きが結局最も効率がよく確実だと思っていた。だから私は「太陽寂静プロジェクト」という企画に首をかしげざるをえなかった。

どんな事業をやるか順番に発表することになった。いきなりの話なので、みんなその場の思いつきを言うしかなかったが、グルの意思が起業と入信にあるのならそれを実践しようと、思いつきにすぎないことでも力強く「やります!」と宣言していた。
それがオウムのヴァジラヤーナ時代のノリだった。(2)
アーナンダ師がやるという結婚相談所なんてずいぶんたちの悪い冗談ではないかと思った。順番がまわってきたので私は正直に言った。
「そうですね、私がやれるとしたら編集プロダクションくらいでしょうか。ただ、編集者って本を読み過ぎてて頭でっかちですから、そういう人を入信に導くのは至難の業だと思います。ですから…うーん。どうなんだろう、やってもあまり…」
全員の企画発表のあと、会合の終わりが告げられ教祖が退席するとみな帰り支度をしていた。この頃のオウムには従来の活動以外に「秘密ワーク」と呼ばれるものがあり、その活動内容は当たり前のことだが秘密だった。しかし、その中心にいたアーナンダ師が「秘密ワークをしている」ということは誰もが知っていた。(彼はよく「秘密、秘密」と言っていた。それで本当に秘密といえるのだろうか?)
そのときアーナンダ師のかん高い大声が聞こえた。
「日本を、取るんや!」
「フリーメーソン」「戦い」「日本を取る」という言葉も断片的に聞こえてきた。普段からアーナンダ師は落ち着きのない早口な人だが、このときはいつにもまして興奮した口調だった。そして、もう一度「日本を、取るんや!」と雄たけびのような声を上げると、アーナンダ師と彼を取り巻いていた数人の男性の成就者たちは、ダダダッと足音を立てて脱兎のごとく走り去って行った。
「日本を取るってどういうこと?」
私にはさっぱりわからなかった。「日本を真理の国にする」という教勢拡大のキャッチフレーズならまだしも、「日本を取る」というのはオウムが日本を支配するということだ。教祖が元首にでもなり、この薄っぺらい木綿の白いクルタを着た成就者たちが各都道府県のトップに立つとでもいうの? 想像しても具体的なイメージはわかなかった。アーナンダ師とその周囲の数人の男性成就者たちは、本気で戦争でもしようとしているような雰囲気だったが、その他大勢の成就者たちは「また、アーナンダ師たちがなにかやっているな」と冷めた目で見ていた。

会合のあと青山道場に戻った私は、メッタジ師から軽蔑するような冷たい目でこう言われた。
「尊師が、あのときの発言にすごく怒っていた」
メッタジ師は帰依を身上とするグル一筋の成就者だった。メッタジ師の言外には「きみみたいな否定的な弟子はグルの意思から外れたヴァジラヤーナ失格者だ」という強いメッセージが感じられた。私は現実的な見通しに基づいた意見を述べたつもりだし、同じやるなら結果のでることがしたかった。だが、この頃のオウムでは、自己の見解を放棄してグルの意思にしたがうことがすべてという風潮が主流で、現実に基づいた「私の見解」など誰も求めていなかった。「私」という枠組みを破壊していくために、グルの指示に対して「はい!」と言って突っ込んでいってこそ修行だった。
私はメッタジ師の言葉に少し傷ついた気持ちがした。しかし、私の否定的な発言によって教祖が怒ったとしても、それはそれで仕方のないことだと思った。


(1)「太陽寂静」という言葉は、擬似国家の名称「太陽寂静国」にも使われている。この意味は、おそらく自我(エゴ・太陽)が寂静になる境地と関連していると思われるが、はっきりとはわからない。(ご存知の方がいたら教えてください)
(2)ヴァジラヤーナは「金剛乗」という意味。「ヒナヤーナ(小乗)」「マハーヤーナ(大乗)」「タントラヤーナ」「ヴァジラヤーナ(金剛乗)」という四乗の一つ。教祖はごく初期の頃から四乗について説いていた。ここでいうヴァジラヤーナ時代とは一九九四年頃からの教団をさしている。



75.ニューナルコ

私は「ニューナルコ」を八回受けたと記録されているが、私自身にはまったく記憶がない。(*)
当時、そんなものがあることは九九パーセント以上のサマナは知らなかった。
一九九五年三月はじめ頃だったのかもしれない。青山道場の師部屋にいるとサクラー正悟師がやってきて急かせるように言った。
「至急第六サティアンに行って。イニシエーションを受けるのよ。すぐ準備して」
サマナならだれでも無条件で喜ぶ話だった。でも、なぜ自分が選ばれたのだろう、どういうイニシエーションなのだろうと思いながらも、それはすぐにイニシエーションへの期待と入れ替わり、私は取るものも取りあえず用意された車に乗って上九へ向かった。
第六サティアンに着いて、指示された三階のシールドルームのドアを開けると、治療省の大臣クリシュナナンダ師(林郁夫受刑囚)と看護師が待っていた。彼らはいつもどおり丁寧で落ち着いた様子だった。部屋に医療機械のようなものと点滴の器具が置かれているのを見て「おや?」と思ったことを覚えている。だが、それからのことはほとんど記憶がない。最初に入った部屋とは別のシールドルームで意識が戻ったときには、何日ここにいたのか、何のためにここにいて、何をしていたのかもまったくわからなくなっていた。
数日後、そんな状態の私に青山道場に戻るようサクラー正悟師から指示があった。
意識を失っていた間のことでぼんやりと思い出したことがある。自分の右側頭部をシールドルームのドアの四角い金属製のドアノブの角になぜか何度も何度も打ちつけたことだ。鋭利なノブの角に頭を打ちつけながら、私は頭皮に金属が食い込むサクサクという音を聞いていた。これは、青山道場に戻ってシャワーをしているとき、自分の側頭部に覚えのない傷があることに気づき、髪をかきあげてすっかり脱毛した頭皮を鏡に映して眺めていてよみがえってきた記憶の断片だった。
道場へ戻るとすぐに、みんなが私の様子を「おかしい」とささやき合うようになった。私の言うことやることがどうも変らしいのだ。私には自分がおかしいという自覚はなかったが、道場にやって来る信徒さんを見てもだれかわからず、知り合いらしい人の名前を告げられても記憶になかった。身近なサマナはわかるのだが、あまりつき合いのなかった人は名前を思い出すことができなかった。支部活動のために道場にいるのに、そこにいる人がだれかわからないのはとても都合が悪く、だれかが呼ぶ名前と顔を一つずつ一致させて覚えていくしかなかった。
日が経つうちに言動のおかしさは落ち着き、喪失した記憶の必要なものは覚えなおしていった。

私にはこの期間の記憶がほとんどない――部分的に記憶がない状態というのは自覚しにくく、他人から指摘されてはじめてその部分の記憶がないことがわかるが、一人でいるならとりあえず不都合はない――それよりも、私は世界との関係にとまどっていた。
どこかで世界があふれだしていて私に流れ込んでくるようなのだ。
普通は、自分とまわりの世界には見えないけれどしっかりとした境界があるものだ。ところがニューナルコの後、私と世界との境界のどこかが破れているようで、そこから世界が浸食してくる感じがした。その感覚が高じてくると、これから起こることをはっきりと予知することができた。目の前にいる人が次になにを言うのか、次にどう動くのかが自分のことのようにわかるのだ。同じようなことはトラックごと海に落ちて死に直面した直後にも起きた。あのときも次に起こることがはっきりとわかり、他人の考えも手に取るようにわかった。しかし、すべては自然になめらかに無理なく起こっていて、こんなふうにどこかが破綻しているような危うさはなかった。
ニューナルコを受けてからの私は、自分のどこかが瓦解していてコントロールできないという、とても危険な感じがつきまとっていた。

(*)ニューナルコは薬物と電気ショックを使って記憶を消す処置。性欲の破戒をしたサマナのデータの入れ替え(洗脳)にも使われた。


76.憎むことができない

事件後、修行を進めるイニシエーションだと信じて受けたものが、実はサクラー正悟師との関わりで、仮谷さん事件に知らぬ間に関係した私の記憶を消すための処置(ニューナルコ)だったことを知った。(*)そのとき私は、はじめてオウムにひどく裏切られたような深い痛みを一瞬感じた。イニシエーションだと信じて受けたものが、薬物を使い電気ショックを与えて都合の悪い記憶を消すための処置だった――この非人道的な行いに対して感じた怒りが、教祖に向かいそうになった。
しかし次の瞬間、
「人の記憶を都合良く消せるだなんて、法皇官房の学生上がりの頭でっかちが考えそうなことだ」
教祖に向きかけた否定的な感情を、私は瞬時にイニシエーション全体を担当していた法皇官房の実質的責任者のI君(東京大学医学部を休学して出家)に向け変えたことをよく覚えている。
後に、坂本弁護士一家の遺体が、岡﨑死刑囚(マハー・アングリマーラ大師)の証言どおり発見されたことを報じる新聞の一面記事を見たとき、顔見知りの六人が坂本弁護士一家を殺害したこと、罪もない子どもをも殺したのだと確信したときも、私はその場で吐き気をもよおしはしたがオウムと教祖を憎まなかった。やがてオウムの犯罪が次々と明るみに出てくると、私は残虐な犯罪行為の事実があったことを認めながらも、その詳細については「今はまだ知ってはいけない」と思った。残忍な犯罪行為をリアルに知れば、感覚的・感情的に耐えられずオウムのすべてを、とりわけ教祖を拒絶するに決まっている。
私は感覚的・感情的にオウムを憎み否定することはどうしても避けたかった。なぜなら、私の中の崇高なものとオウムが結びついていたからだ。私の内側からやってくるなにかーー神秘的なヴィジョンや内的な光はオウムと密接で分かちがたかった。オウムを否定することは、私の内なるなにかを否定してしまう。そう感じるからできないし、また、そうしてはいけないように思った。私は漠然と、自分の内的体験と現実のオウムとを薄皮をはがすようにゆっくりと慎重に分けていかなければならないと感じていた。

クリシュナナンダ師(林郁夫受刑囚)の著書『私とオウム』によれば、ニューナルコは「記憶を消す方法を考えろ。記憶も煩悩だ」という教祖の指示のもとクリシュナナンダ師が発案したもので、チオペンタールという麻酔薬と電気ショックを使って記憶を消すものだった。法皇官房のI君が主導して行ったのは、同じチオペンタールを使ってはいるものの「ルドラチャクリン」という別のイニシエーションで、私が怒りを教祖からI君にすり替えたのはまったくの見当違いだった。私のこの心理的なすり替えは、彼に代表される学生から出家した若い男性サマナに対する懸念からだろう。彼らは頭脳明晰で、観念的すぎて、現実感に乏しく、純粋で、狂信的になりやすかった。
また、記憶が消されたことについて、とりあえず不都合はないと書いたがそう単純でないこともつけ加えておきたい。記憶がないことを自覚することは非常に困難で、過去を思い出す機会があったとき、自分にはまったくその記憶がないことがぼんやりとわかる。そして、いったいどのくらい自分の記憶が失われているのかと考えるとき、大きな空白を抱えているような不安が立ち上がってくる。それは、ところどころごっそり剥げ落ちて、下地の白色がむき出しになった傷ついた絵画に似ている。ニューナルコの後遺症は思っている以上に重いのかもしれない。

*私と同じように目的を知らずに仮谷さん事件にかかわってしまった支部のサマナ――ワゴン車を借りてきた、毛布を貸した、住民票を取ったなどの記憶を消すために多数受けさせられた。




77.一九九五年三月

一九九五年、教団施設のなかは二十四時間どこでもコスモクリーナー(毒ガス浄化の空気清浄機)のうなるような音が響いていた。出家サマナは千七百人まで膨れ上がっていた。急激に新人が増えたこともあって、だれがどこの部署(省庁)でなにをやっているか、そもそも教団全体の部署を把握することさえ困難になっていた。
二十以上あった省庁には、高学歴で若いサマナがいろいろな企画を立案する「法皇官房」、コスモクリーナーの保守・管理をする「防衛庁」、サットヴァ食品(修法された食品)を作る「厚生省」(裏では生物兵器・化学兵器を研究していた)、上九一色村には「科学技術省」の工場が点在し、パソコン販売店、スーパーマーケット、ラーメン屋を「商務省」が経営していた。「秘密ワーク」「シークレット」とよばれた「諜報省(CHS)」や「近未来研究所」や「白い愛の戦士」など、名前を聞いただけではなにをしているのかわからない部署もあった。
クンダリニー・ヨーガ以上の成就者たちは、部署のリーダーとしてワークの結果をだそうと血眼で、他の部署のことを気にかける余裕はまったくなかった。部署には次々と新しい指示が上から降りてきて、それを受けたサマナは「右!」と言われれば右へ、「左!」と言われれば左へ、言われるままに一斉に向きを変える小魚の群のようだった。

一月七日から二月十六日までの間に、教祖は毎回百人のサマナを集めて富士山総本部で十三回の「お食事会」を開催した。「お食事会」は精進料理のコースを食べながら法話を聴き、だれでも自由に質問ができる教祖とサマナの交流会だった。今思えばこのお食事会は、教祖にとって弟子との「最後の晩餐」だったのだと思う。元旦の『読売新聞』の一面には、山梨県上九一色村でサリン生成の残留物質が検出されたというスクープが掲載された。これは明らかに当局がサリンと教団のつながりをリークしたものだ。運命のときがもうそこまで来ていることを教祖は十分わかっていただろう。
一月十七日未明、阪神淡路大震災が神戸とその周辺の街を襲った。
このわずか十日前、教祖はロシア向けの番組で神戸に地震が起こる可能性をオウムの占星術をもとに語っていた。予言がズバリ当たって、もうすぐハルマゲドンだという教祖の警告はますます真実味を帯びていた。「急いで!」「時間がない!」という切羽詰まった雰囲気のなかで、「米軍による毒ガス攻撃」「地震兵器」「ハルマゲドン」「スパイ」「フリーメーソンの陰謀」「滅亡か破滅か」という非現実的な言葉が私たちの頭の上を飛び交っていた。すべてがドタバタでちぐはぐ、全体がぐんぐんスピードを加速して「救済、救済」とせき立てるようなかけ声で全力疾走しているが、いったいぜんたいどこへ向かっているのやら方向感覚を失っているような感じだった。どどっと一斉に走る部署ごとの動きで、教団全体が振動しているようだった。それはオウムを揺るがす大地震の前触れだったのかもしれない。

サマナは何年もテレビを観ていなかったしラジオも聴いていない。もちろん新聞・雑誌も読んでいなかった(携帯電話はまだ普及していなかった)。だから九四年六月二七日に起こった松本サリン事件も、九五年三月二〇日に起こった地下鉄サリン事件も九九パーセントのサマナは何も知らなかった。たとえ事件のことが耳に入ってきたとしても、オウムと結びつけようもなかった。
「強制捜査が来るらしいよ」
そんな噂が飛び交ったかと思うと、強制捜査にどう対応するかを書いた読みにくい手書きのメモのコピーを渡されて、部署の責任者は頭にたたき込むよう言われた。
「必ずビデオ撮影し録音すること」
「令状を見せてもらい内容をメモをすること」
「捜査には必ず責任者が立ち会って、勝手に捜索させないこと」
なぐり書きのような文字で、やけに具体的なポイントが書かれていた。
東京にいた私に、ヤソーダラー正大師(教祖の妻)から至急上九の第六サティアンに来るよう指示があった。駆けつけてみると上九には大勢のサマナが集まっていた。
「不当な強制捜査の証拠写真を撮っておいて」
そう言われたが、なにをどう撮ればいいのか想像もつかなかった。私はとりあえずバッグにカメラを三台詰めて、みんなと一緒になにかが起きるのをただ待っていた。

78.地獄に堕ちる

三月二十二日早朝、第六サティアンの広い敷地に大きな黒い固まりのような軍隊が押し寄せてきた。ジュラルミンの盾を持って、ヘルメットとガスマスクをつけ、迷彩服に身を包んだ大勢の男たちの一群は軍隊にしか見えなかった。
頭上には何機ものヘリコプターが音をたてて飛んでいた。
「これは強制捜査なんかじゃない…本当に戦いのときがきたんだ。これは戦争なんだ…」
世紀末の予言に半信半疑だった私でさえ、「とうとうそのときがきたのか…」と気持ちが高ぶって、目の前の出来事が現実なのか幻なのか一瞬わからなくなった。軍隊に見えたのは重装備の機動隊だった。それに相対しているのは、白い木綿のうすっぺらなサマナ服の上に汚れた白いジャケットをはおり、履き古した運動靴や安物のビニールサンダルを素足につっかけた頼りない身なりのサマナたちだった。
私は目の前に広がる信じられない光景を呆然と見ていた。

第六サティアンの入り口のドアを機動隊が数人がかりでバールでこじ開けようとしていた。
「宗教弾圧だ!」「宗教弾圧をやめろ!」と叫ぶ者。
「支配流転双生児天(しはいるてんそうせいじてん)の裁きによって地獄に堕ちるぞ!」
多くのサマナはそう叫んで抵抗をあらわしていた。それは前もって教祖から、強制捜査に対してはいつものとおり非暴力で対応し、真理の団体を弾圧することは、死後、支配流転双生児天(閻魔天)で裁かれ地獄に堕ちる、という意味の言葉を相手に叫ぶよう通達があったからだ。
「支配流転双生児天の裁きによって地獄に堕ちるぞ!」
「支配流転双生児天の裁きによって地獄に堕ちるぞ!」
サティアンの窓から身を乗り出し、声をふりしぼって口々に叫んでいる仲間たちを見て、私は思わず「これは戦争なんだよ!」と言いたくなった。
相手に意味がわからない言葉をいくら叫んでも、戦いにならないじゃないかと思った。

第六サティアンの敷地いっぱいに対峙していたサマナと機動隊のあいだでは、あちらこちらで「やめろよ!」「なんだよ!」と怒声が上がりこぜり合いになっていた。
サティアンの入り口がこじ開けられないとわかると、機動隊は電気のこぎりで金属性のドアを切り裂きはじめた。金属を切るかん高いのこぎりの音と飛び散る火花に触発されたように、機動隊とサマナの緊張は一気にたかまった。私は写真を撮ることなんてすっかり忘れていた。何本かのビニールホースを上に向けて放水していたサマナが、放水角度を徐々に下げてジュラルミンの盾を持った最前列の機動隊員に向かって正面から放水攻撃をしようとしていた。私たちには水の出るホースくらいしか武器となるものはなかった。異様な緊張が広がるなかで興奮を抑えられない何人かのサマナがはやし立てた。
「やれー、やれー」
そこへ一人の男性サマナが声をあげて走ってきた。
「やめろ! やめろ!」
機動隊に放水しようとするサマナと、まわりではやし立てるサマナの間を走って、彼は強いはっきりとした口調で「やめろ!」と言って止めた。
「はっ」と私も我に返った。
興奮したサマナを落ち着かせようとする姿を見て、「こんなときに冷静な人だな」と思った。もしそのとき水で攻撃していたら、機動隊は一気に押し寄せてきてけが人も出ただろう。今考えてみると、あの状況のなかで機動隊の侵入に冷静でいられたサマナは、オウムの非合法な活動を薄々知っていたのかもしれない。なにも知らない多くのサマナは、国家権力によるいわれのない弾圧によって、オウムの第六サティアンという聖域が土足で踏みにじられる痛みを感じていた。
「私たちはなにも悪いことはしていないのに…」
第六サティアンの扉が破られ捜査官たちは一気になかへ押し入っていった。
そして、この日を境に地獄に堕ちていったのは「地獄に堕ちるぞ!」と叫んでいた私たちの方だった――。

第六サティアン内部の捜索は日没まで続いた。そこには教祖の自宅スペースもあり、教祖もご家族も不在だったがもちろん例外なくすべて捜索された。
ほとんどのサマナは入ったことがないその場所で、私は立会人の一人として捜索に立ち会った。大勢の捜査官はなにもかもひっくり返して、私は最初こそ抗議したがそのうちあきらめてただ立ち会って見ていた。強制捜査が終わりに近づいて捜査官もまばらになり、あたりは嵐が過ぎ去ったあとのようだった。質素なダイニングテーブルやカラーボックスが置かれたなんの調度品もない教祖宅のリビングで、私はリビングの隣の十畳ほどの教祖の部屋をなにか問題はないかと思ってのぞいてみた。
そこはガランとしてもっとなにもなかった。
小ぶりの一人用のソファーが一つ、事務所で使うような電話機が一台、竹刀が一本畳のうえに転がっていた。竹刀は自分の足を激しくたたいてカルマを落とすために使われるものだ。窓にかけられているのはサマナのいる道場と同じ濃い青色のカーテンだった。
これが「尊師の部屋」だった。
「ああ、ほんとになんにもないなあ…」
私は教祖を思った。教祖が身につけるものはサマナと同じパンツとTシャツとクルタとサンダルだった。

このあと青山道場で緊急対策本部(広報部)に所属した私は、洪水のようなオウム報道を見ることになった。教祖が贅沢だったという報道はたくさんあり、「好物はメロンで、よく買いに走らせていた」などと番組レポーターが話していた。
信者から金をだましとり、私利私欲を肥やす教祖像というのがメディアのお気に入りだった。