65.ロシア・コネクション

「麻原さんは、いったいどこで間違ったのだと思う?」
湯河原のマンションの一室で作家のTさんが私に尋ねた。Tさんはオウムをテーマに小説を書こうとしていて、私たちは何度か会ってオウムについて話し合っていた。
どこで間違ったのか?…。
私は答えに詰まってしまった。一九九五年の地下鉄サリン事件は、九九パーセント以上の信徒・サマナにとって想像を絶する衝撃的なことだったが、私は教祖が間違った結果だとも、一部でささやかれるように闇の勢力の陰謀があったとも思ったことはない。教祖は常に宗教的信念に基づいて行動していた――狂気であろうと正気であろうとそれについては終始一貫していたと思う。ただ気になるのは、サリン事件前の教団はなにかに取り憑かれているような独特な雰囲気があったことだ。それがいつから始まったのか、なにがきっかけだったのか…。私は教団活動の年表を見ながら、いったいどこが転換点だったのだろうかと振り返ってみた。
「もしかしたら、ロシアか…」

オウム真理教の十年にも満たない活動期間のなかで、海外拠点を設けたのはアメリカとドイツとスリランカ、そしてロシアだった。一九八七年末に開設されたニューヨーク支部は、教祖が現地でシャクティーパットを公開して入信拡大を試みたが、アメリカ人の信徒は増えなかった。ドイツのボン支部は信徒がいたかどうかさえわからない(1)。スリランカでの活動は布教ではなく、テーラヴァーダ仏教を支援するための福祉事業だった。
九二年六月に開設したモスクワ支部だけが例外的に信徒数を伸ばし、最盛期の会員登録者数は四万五千人とも五万人ともいわれている。日本の信徒数が最大でも一万人を超える程度だったのと比べて、ロシアでは二年という短期間に日本の四倍以上の会員を獲得したことになる。宗教的な意味では、日本をはるかに上回る規模のロシアのエネルギーが教祖の意識とまじりあったということだ。
九三年後半、マイトレーヤ正大師(上祐史浩)、サクラー、ウッパラヴァンナー、プンナ・マンターニプッタという実力のある正悟師たちがロシアに投入されて教勢が飛躍的に拡大しているとき、日本では教祖と教団内部の雰囲気はどんどん妄想的になっていった。それがバブルのように膨れ上がって九五年の地下鉄サリン事件に至ることを考えると、ロシア進出は破滅に至る転換点として位置づけられるのではないだろうか(2)。
ロシアというと、一部の男性サマナが射撃ツアーに行ったことや、カラシニコフ(銃)の入手、ロシア製の大型ヘリコプター・ミル17の購入などが大仰に取りざたされるが、中身を調べてみるとどれも現実味のない張子の虎のようなものだとわかる(3)。ここで考えてみたいことは、東西冷戦のなかでロシアという超大国が抱いていたアメリカへの強い敵がい心、より多くの大量破壊兵器を保有しようと競い、核実験を繰り返す…あの時代をおおっていた破壊と終末のムードのことだ(4)。ロシアの潜在意識(集合無意識)といってもいい。九二年末から教祖はアメリカを敵視する発言を繰り返すようになり、その後アメリカ軍による毒ガス攻撃を受けていると語り、末期にはアメリカ軍が攻めてくるといって準備をしていた(5)。これはロシアという国の潜在意識のイメージをそのまんま映しだしているようにも思える。

けれども教祖にとってロシアで最も重要だったことは、軍事力ではなくラジオとテレビの放送権の獲得だった。放送権獲得を進めた早川死刑囚はこう書いている。
「このロシアでの事前交渉の過程で、以前からグル麻原が放送権を得ようとして得られないでいたのを知っていた私は、ロシアが日本向けにラジオ放送をしていることを知り、この日本語放送の放送枠が手に入らないかどうか交渉し、これを得ることができました。グル麻原は、このラジオ放送枠の獲得が、今回のロシアでの出来事のなかでの一番の成果であるといって大いに喜びました。
この放送権獲得をきっかけに、その後ロシア国内向けのテレビ、ラジオでも放送枠を獲得し、その結果ロシアでは、毎日のように教団の宣伝がラジオ、テレビを通じて行われるようになりました。日本でいうNHKのような放送局からオウムの番組がラジオで毎日、テレビで毎週放送されることで、教団のステータスはロシアでは異常に高まっていったのです。」(6)

教祖もこう言っている。
「今回のロシアツアーというのは、一言でいうならば予言の成就です。この予言の成就とは何かというと、これはキリスト、つまり今から二〇〇〇年前に登場したイエス・キリストの予言、イエス・キリストはこのような予言をしています。まず、御国の福音が全世界に述べ伝えられた後、世界の終わりがくると。この御国の福音とは何かというと、要するに、神聖世界へ入るための方法が世界に述べ伝えられた後、世界の終わりがくるという予言です。これは実際問題としてわたしたちがモスクワ放送、あるいはモスクワ短波放送という二局を、一日一時間ずつ借り切りまして、結局四月の初めぐらいから全世界に向けて、オウム真理教の教義を放送する今計画がありますが、この予言の成就をするということが一つあります」(7)

一九九二年六月十五日、「御国の福音が全世界に述べ伝えられた後、世界の終わりがくる」というイエス・キリストの予言を成就させるために、教祖は「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス(御国の福音)」と名づけた全世界向け英語ラジオ放送をスタートさせた。「予言の成就」という言葉を教祖が説法で使うようになったのはこのときからだ。(8)


(1)八九年一月ボン郊外に物件を借りたのがスタート。
(2)ロシア進出のきっかけは、教祖が意図したものではなく、ブローカーから話を持ちかけられて偶然に始まったものだった。
(3)早川紀代秀著『私にとってオウムとは何だったのか』より以下引用。
射撃ツアーについて:「九四年四月には、射撃ツアーを始めました。これは、オウムがロシアに進出したときからロシアでのオウムの支援者であった日露基金という組織から、観光ビジネスとしてもちかけられた話で、二ヵ月に一度くらいの割合で日本から観光客を送り込もうということだったのですが、日本で客が集まらず、結局、三回ほどオウムのサマナが参加しただけで終わってしまいました。グル麻原は、この話をロシアの支援者との交際費というふうにとらえていて、『お金を落としてあげましょう』ということでした。」(P105)
小銃について:「初めは見学だけでいいと言っていたAK(カラシニコフ)を、なんとか一丁入手してほしいとの村井の要望によって、あちこち手を尽くして入手に苦労するはめになりました。その結果、どうにか一丁入手できました<中略>村井達は、広瀬と横山真人を中心にAKの製造にとりかかり、九五年の正月ごろには、試作品一丁が完成しました。」(p180)
大型ヘリコプターについて:「九四年の五月末には、九三年秋ごろから交渉して購入していたロシア製の大型ヘリコプター・ミル17が日本に到着しました。このヘリコプターは、村井達が開発しているというレーザー砲を搭載する目的で入手したものでした。」(p181)
このヘリコプターは日本では一度も飛行していないし、オウムで飛行させることは現実には不可能だっただろう。
(4)一九四五年に最初の核実験が行われて以降、冷戦期にアメリカ合衆国・ソ連を中心に約2000回もの核実験が行われている。核によって人類が滅亡するかもしれないという不安が世界をおおっていた。オウムは初期の頃からこの危機感をもって人類救済を謳っていた。
(5)「それはグル麻原が湖のほとりで米軍と戦っているヴィジョンを見たからでした。米軍が上九に攻めてくるということでした。AKの大量生産や迫撃砲製造計画、レーザー砲やプラズマ兵器の研究、サリンの研究製造などはこの米軍との戦いに備えてのことでした。また、グルは九四年ごろには上九を含めた富士山周辺の大きな立体地図(畳二畳ほどの大きさ)を村井に作らせ、それに触れて地形を頭に入れ、米軍との戦闘の作戦を考えるというようなことも行っていました」(p183)
(6)早川紀代秀著『私にとってオウムとは何だったのか』(p178-179)
(7)一九九二年三月七日説法。
(8)一九九二年四月一日、日本向け「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」スタート。その後ロシア国内向けラジオ放送、テレビ放送、全世界向け英語ラジオ放送がスタートした。



66.マハーポーシャ

ロシア・コネクションから生まれたものは他にもあった。オーケストラ「キーレーン」(*)の結成や、パソコンを販売する会社「マハーポーシャ」もロシアがらみで始まったものだ。私は音楽班とパソコン事業にはまったく縁がなかったので自分の体験として記録することはできないが、関係者からの伝聞ということで書いておこうと思う。

最初のロシア訪問のときに、お土産に二十台程のパソコンを買って持っていくことになった。当時、世界ではIBM互換機が主流になりつつあったが、日本ではNECや富士通など日本独自のパソコンが一般的で、IBM互換機は非常に高価なものだった。お土産に持参するパソコンは香港で買ったそうだが、これが思いのほか安かったらしい。そこで日本でIBM互換機を安く売れば儲かるだろうということになって、パソコン事業の会社「マハーポーシャ」(サンスクリット語で大いなる繁栄という意味)はスタートした。
「瞑想中に神々から百億円売れるという示唆があったから、がんばれよ」
担当者は教祖からそんなことも言われたようだ。
「商売をスタートする前に、神々に金の法輪を供養する」という教祖の考えで、CSI(科学技術班)が金の法輪を製作することになった。「純金」を溶かして型に流して固めて作った法輪を神々に捧げるというのだ。この製作にかなり時間がかかったらしい。
そんななか、富士道場で「金を持ち出した人はすぐに返すように!」という放送があったそうだ。オウムでは、その辺にお金の入った財布を置いておいても盗まれるということはない(そもそもサマナ生活に現金は必要ないのだが)。盗みは戒律違反だし、だれのものかわからないものを盗んだら、どんなカルマを背負うかわからない。なにより、盗んだら自分のものが盗まれるというカルマをつくるのだから、たとえ目の前に純金が放置されていたとしても、盗むなんて恐ろしいことはできないはずなのだが…。
法輪の原材料の純金が足りなくて製作担当者があわてたらしいが、どうも金は盗まれたのではなく作業中に溶けてなくなったらしい…というのだが…。
足りない純金は買い足して、法輪を完成させたということだ。
神々に金の法輪を供養するというのは教祖らしいエピソードだと思う。それが功を奏したのかマハーポーシャは売り上げを伸ばし、事件から数年後、パソコン事業は神々の予言どおり年商百億円を超えたという。ロシアへのお土産にパソコンを持っていくということがなければ、オウムのパソコン事業は存在しなかったのではないだろうか。


(*)ロシア人の演奏家を集めた専属オーケストラ。正式名称は「ロシア オウム真理教シンフォニー・オーケストラ キーレーン」。「キーレーン」はノストラダムスの予言詩にある言葉で、「千の王国」または「子羊たるキリスト」を意味する。団員は百二十名。


67.パーフェクト修行

九三年末、「パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーション」が始まった。内部では略して「PSI」「パーフェクト」と呼ばれていた、いわゆる「ヘッド・ギア」だ。
このイニシエーションのために、上九一色村の第六サティアン三階には、広さ二畳ほどの個室が長屋のように百近く作られ、各部屋の壁と天井には外部からの電磁波を遮断するために銅板が張られていた。そこは「シールドルーム」あるいは単に「シールド」といわれていた。
パーフェクトは、瞑想中の教祖の脳波と同じ微弱な電流を頭部に流すというイニシエーションだ。これを受ける修行者は、もはや信じることも帰依をすることも、いかなる修行をする必要もなく、電極のついた帽子をかぶってさえいれば勝手に修行が進む、完全なる解脱へ導くイニシエーションだと喧伝(けんでん)されていた。

最初に作られたパーフェクトは、頭皮に直接電極を貼りつける様式だった。新しい修行やイニシエーションは成就者から順に受けることになっていて、私はこの初期のタイプのものを受けた。頭に二十ほどの電極を貼りつけてもらってシールドに入り、部屋に置かれているパソコンにケーブルを差し込む――それがすべてだった。
イニシエーションを受けている間はなにもすることがないので、私は部屋の電気を消して眠ろうとした。
「寝ていて修行が進むなんて、なんて素晴らしいんだろう!」
目を閉じているとバチッバチバチッと稲妻のような光が見える。
「わぁ…きょ、強烈な光だなあ、これはすごいかもしれない…」
しばらくすると、頭部を流れる電気があまりにも痛くて眠るどころではなくなった。
「イテテテ、これは忍辱修行だなあ…」
「イタ、イタタタ、拷問みたいだ…。外そうかなあ…。」
「いやいや、これはイニシエーションなんだから、がまん、がまん…。」
「痛いよぉ…。ほんとに、だいじょうぶなのかな、これ…」
CSI(科学技術班)の責任者マンジュシュリー正大師(故村井秀夫)のつるんとした顔と満面の笑みが思い浮かんで、少し不安がよぎったが、とにかく修行だと思って横になったまま身体を丸めて痛みに耐えていた。なかには頭皮が焼けこげて陥没したり、耳たぶに取りつけた電極で肉がただれて落ちた人もいて、どうやら最初にイニシエーションを受けるということは、実験台になることだったようだ…。(これ以前にも何人かが受けて効果を試していた)
その後、電流の強さは調整され、電極を装着できる帽子と携帯用のパーフェクトが完成した。サマナにはこの携帯用のパーフェクト一式が配られ(1)、外部と接触しないサマナは、制服を着るようにパーフェクトの帽子をかぶって常にイニシエーションを受けながらワークをしていた。信徒は、ハルマゲドンが起きるまでに、「パーフェクトを受けるか」(2)「出家をするか」「マハーポーシャの社員になるか」という三択を迫られていた。

ところで、パーフェクトの基板は第八サティアンの基板工場で製造していた。最初こそ基板製作は外注して部品の実装だけをCSIで行っていたが、倒産した基板工場からフルセットを買い取って自前で製造できるようにした。これはパーフェクトの量産のためということもあったが、教祖はもっと広い視野で、将来的にはパーフェクト以外のもの、パソコン等を作るつもりだったようだ。その準備なのか、基板工場の次には半導体工場の買収計画も進められていた(最終的には話がまとまらなかったようだ)。
当時CSIにいた関係者に教祖の構想がどんなものだったかを聞いてみた。

「もともとマハーポーシャはパソコン事業というわけではありませんでした(*)。教団では現世的な意味でのビジネスの拡大をねらっていて、そのための試行錯誤をしていたのです。
教祖のねらいは、ディスカウントショップを展開したかったようでした。そのための市場調査や買いつけを進めていました。韓国、香港、シンガポール、台湾といった国々をまわり、ラジカセだとかビデオデッキだとか商売になりそうな商品を探していたのですが、そのなかで唯一芽が出たのがパソコンだったということなのです。
教祖には、パソコンのパーツを仕入れて組み立てるだけではなく、最終的には、全てを一貫生産できるパソコン工場を持ちたいという構想がありました。つまり、基板工場の取得はその構想の一部にすぎないとも言えるのです。このパソコン工場の計画は決して絵空事ではなく、まずはハードルの低そうなパソコンのケースを作るようにという指示が実際に出ていました。
また、当時CSIでは、『百円以下でラジオを作るように』という課題が与えられていました。教祖は、ズバリ今でいう『100円ショップ』のようなものを作りたかったのだと思いますが、『中国』という選択肢のなかった当時としては到底無理な課題でした。でも、目のつけどころは良かったのでしょうね。ダイソーの沿革を見てみると、一九九一年頃がチェーン店展開の時期なので、やりようによってはオウムにもチャンスがあったのかと、今になって思いました。私たちの視点からすると当時の教祖の指示は、泥縄的で無茶なものばかりだったようにも感じていましたが、あとから振り返ってみると、教祖は結構広く俯瞰した視野から物事を考えていたのだなと思わされることもあります。」

パーフェクト以降、オウムには「狂うか解脱するか」という極厳修行はなくなった。
今、振り返ってみれば、パーフェクトは「機械的」「電気的」「大量生産」という特徴があり、「解脱・悟り」のアプローチとしてなにかがおかしく、またどこか戯画的にも思える。しかし、コンピュータを使って瞑想中の教祖の脳波と同調させて修行を進めるというアイディアは、当時の私たちに違和感はなく、画期的に思えた。
この時期、教祖はすでに裏ではヴァジラヤーナ活動へ突っ込んでいた。六月に炭疽菌噴霧、九月に核兵器開発のためウラン鉱脈の調査にオーストラリアへ、十一月にはサリン生成に成功し、池田大作名誉会長の暗殺未遂――パーフェクトが発表されたのは、このようにヴァジラヤーナ活動が過激化し、毒ガス攻撃を受けているという説法(3)が始まったこの年の暮れのことだった。

(1)パーフェクトの帽子の内側にはスポンジがついていて、そこにゲルを注入して電気が通電するようになっていた。ゲルは注射器を使ってスポンジに入れていたから、サマナは各自プラスチックの注射器を一本は持っていた。事件後、教団施設内部の映像で大量の注射器を映したものがあったが、それはパーフェクトのゲル入れに使われたもので、薬物とはまったく関係ない。
(2)信徒のパーフェクトは、好きなときに好きなだけ富士でパーフェクトを受けられる一千万円お布施コースと、一度だけ一週間受ける百万円お布施コースがあった。
(3)九三年十月頃から、教祖は「外部からの毒ガス攻撃を受けている。米軍から攻撃を受けている」と説法で頻繁に語るようになる。だが、最初に「大量の毒ガスを吸った」と言ったのは、一九九二年十二月の説法だった。
*今回聞いたマハーポーシャ立ち上げの経緯は「66.マハーポシャ」の内容と少し違っていた。




68.アーナンダ・マジック

信徒だった六か月の間に、私は十人以上の知り合いをオウムに紹介した。自分がそれほど熱心にオウムを信じているわけでもないのに、話をするとかなりの人が入会した。話を聞いて納得してというより、私を通じてオウムのエネルギーが友人・知人に影響を与えているような感じだった。なかには出張先の会社のトイレで出会った初対面の人が、ちょっとヨーガの話をしただけでそのまま一緒に道場へ行って入会したこともあった。
そういうわけで、ほとんどの友人にオウムの話をしていた私は、世田谷道場で師として支部活動をするようになったのに、新たに紹介できるような友人はいなかった。それでも誰かいないかと調べあげてみると、同級生が東京に出てきていることがわかり、なんとか連絡先をつきとめて電話をしてみた。

何年ぶりかで会って話してみると、友人はスナックに勤めていて、同棲している男性との間にトラブルが絶えないようすだった。話していると話題はすぐに彼に対する不満になり、修行や真理に関心を向けることは難しそうだった。
「どうやって宗教の話にもっていこうか…」
そう考えていた私は、ふと田舎の学校で隣の席にいた、彼女が恋いこがれていた男子生徒の顔を思い出した。そして、彼とアーナンダ師(井上嘉浩死刑囚)の雰囲気がとてもよく似ていることに気づいた。
そこでこう言った。
「あなたに会わせたい人がいるんだけど、一度会ってみない? その人は、もしかしたらあなたの人生を変えるかもしれない」
入会案内を得意としていた私が、自分の友人を他の師に会わせるということは、後にも先にもこのときだけだった。アーナンダ師と縁がありそうだとひらめいたことは正しかったようで、ほどなく彼女はアーナンダ師と会ってその場で入会した。
布施を集めることや入会案内において、アーナンダ師がずば抜けた結果を出すことはだれもが認めていたし、私が友人をアーナンダ師に紹介したのも彼の方が引っ張れると思ったからだ。しかし、私はアーナンダ師がまめに彼女の教化をしてくれるとはまったく思っていなかった。そんな地道なことを彼に期待する方が間違っているというものだ。入れるだけは入れてもらい、いずれは私が彼女を担当して、時間をかけて真理を理解してもらえればいいと思っていた。

そして、友人の入会から一か月もたたない頃、世田谷道場でアーナンダ師とすれ違った。
「Mさんね、一千万コース受けるよ」
そう言ってにやりと笑った。
私は「えっ!」と驚いた。
支部では全信徒にパーフェクトを受けるように勧めていたので、アーナンダ師が担当している信徒にイニシエーションの勧誘をしてお布施を集めるのは当然のことだ。だが、入ったばかりの友人が、いきなり一千万円のお布施をするというのは信じられなかった。
「百じゃなく千なの?」
「そうそう、Mさんさ、俺、絶対に持っていると思ったんだよ。やっぱり持ってたよー」
そう言うとアーナンダ師は「やったぜ」という、無邪気な笑顔を見せて走り去っていった。
私はため息をついた。友人が、修行についても法則についてもなに一つ理解していないことは明らかだった。「アーナンダ・マジック」とも言える、無意識に影響を与える彼の力(超能力、神通力)に動かされているだけなのだ。そして、持っている現金を布施してしまえば、アーナンダ師はそれまでのように彼女を気にかけることはないだろう。布施のできる信徒、人を紹介できる信徒を求めて、彼の関心が次々と移っていくことは誰の目にも明らかだった。そういうときのアーナンダ師は、無責任で軽薄で冷酷に見えたが、それは彼の人格の問題というより、彼の突出した「霊性」と関係していたように思う。強烈なクンダリニーのエネルギーによって高められ舞い上がった自我(エゴ)は、大地に残されている自分自身の暗い影に気づかない。神がかり的になればなるほど、多くの悪魔(影)を呼び出しているのに、彼の意識は光の側だけにいるので悪魔が自分だとは知りようもない。アーナンダ師はオウムの修行者の一つの典型だったと思う。

*「パーフェクト」とは「パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーション(PSI)」のこと。信徒は、いつでも無制限に「パーフェクト」を受けられる一千万円のお布施コースか、一週間だけ受ける百万円コースのどちらかを受けるよう勧められた。



69.煩悩の布施

入会してまだ一か月ほどの友人が、なにもわからないまま一千万円の布施をする。それは彼女のためにならないと私は思った。アーナンダ師の力に影響されて、布施の意味を理解しないで布施をしても、たしかに彼女の功徳になる。それに持っている財産を放棄できたなら、彼女の心は手離した分だけ軽くなり解放されるというのが法則だった。しかし、私は、法則を学んで布施の素晴らしさを理解してから、イニシエーションを受けてほしかった。でも、私は支部活動をしている師なのだ。アーナンダ師の勧めにしたがって大きな布施をしようとする友人に、「ちょっと待って」と水を差すなんて、あり得ないことだった…。
考えた末、私はこれまで一度もしたことのないこと――教祖に直接電話をすることにした。

「尊師、Mさんは法則もなにもまだまったく理解していません。このままアーナンダ師に対する狂ったような執着で大きなお布施をしても、その後が続かないと思います。私が責任をもって法則を理解させて修行させますから、もう少し土台を作ってからパーフェクトの一千万コースに入れたいのです」
このような意味のことを電話で話したと思う。
教祖は私の話を最後まで聞いてから、いつもの落ち着いた口調でこう言った。
「どちらにしても煩悩で布施をするんだろう? だったら同じことじゃないか」
ふいをくらって、私は「うっ」と黙った。
電話の向こうで教祖は同じことを繰り返した。
「どちらにしても煩悩の布施じゃないのか? どうだ」
私は「はい」としか答えられず、電話を切った。

「どちらにしても煩悩の布施」という言葉を聞いて、教祖にとっての「布施」と、私が考えている「布施」はまったく違うものだということに改めて気づかされた。アーナンダ師の歓心を買うためにする布施も、法則を理解して功徳を積むためにする布施も、結局は自分の利益のためにする布施なのだ。しかし、教祖が説いている布施の真髄は、まったく見返りを期待しない純粋な供養のことだ。もちろん教えとして理解してはいたが、私はどこかで「功徳」という見返りを期待して布施や奉仕をしていなかっただろうか?
まもなく友人はアーナンダ師に勧められるまま一千万円を布施した。そして、特別な信徒として富士の第一サティアンのシールドルームでパーフェクトを受けた。
私は、イニシエーションを受けている彼女の様子を一度だけ見に行った。修行歴のまったくない初心者が、密室で電極のついた帽子をかぶって過ごすのはつらいことだったと思う。不安そうな様子で彼女は言った。
「来るって言ったのに。見に来るって言ったのに、アーナンダ師、ぜんぜん来ないんだよ…」
私は動揺を隠せない友人の目を見ながら、「彼は、けっしてここには来ないよ」と心の中でつぶやいていた。
こうして書いてはじめて気づいたことがある。
アーナンダ師が来ないと不安を訴えた彼女に、私は法則の素晴らしさや修行の意味も話さなかった。あのときは彼女に話しても無駄だと思ったのかもしれない。いや、自分の友人の大きなお布施をアーナンダ師にとられたことを、どこかで悔しく思っていたのだろうか。
友人に対して責任を感じていて、しっかりと土台を作ってから大きな布施をしてもらいたいという思いを、私は今の今まで疑わなかった。しかし、もしかしたら、友人が私ではなくアーナンダ師に依存したときから、私は冷ややかな目で友人を見ていたのかもしれない。
アーナンダ師を冷酷だという資格が、いったい私のどこにあるというのだろうか…。


70.キリストのイニシエーション

修行者は病気になっても薬は使わず修行で治そうとする。薬を飲むと「気」の流れが阻害されるからだ。私もオウムに入ってからは薬を飲んだことも病院に行ったこともなかった(そもそも風邪さえひかなかった)。それほど薬を忌避していたオウムで、一九九四年六月から全サマナと信徒を対象に薬物を使った「キリストのイニシエーション」がおこなわれるようになった。このイニシエーションはLSDを使って内的体験をさせるもので、もちろん当時は薬物が使われていることは知らなかった。(1)

イニシエーションが行われた場所は第二サティアンだった。
「これからキリストのイニシエーションをおこなう」
教祖が宣言すると順番にやや黄みがかった透明な液体が入ったワイングラスを渡された。
「これくらいで飛ばされるようでは修行者ではないぞ」
そう言われて、「意識を保たなければ」と気を引きしめイニシエーションを飲みほした。二畳ほどの広さのシールドルームへ行って、しっかりと座法を組んで瞑想に入ると、すぐにしびれるような感覚があり潜在意識に入っていくのがわかった。薬物が入っていると言われれば「そうだろうな」と思っただろうが、そのときは起こっていることに集中していて、あれこれ考える余裕はなかった。
蓮華座を組んで座っていると、部屋の外からなにやら騒がしい声が聞こえてきた。どこかで誰かが叫び声を上げている。
「なんだろう、騒がしいなあ…」
そう思っているとドアが開いて、医師のヴァジラティッサ師(中川智正死刑囚)が顔をのぞかせて言った。
「大丈夫ですか?」
開いたドアの向こうから人の叫び声と、それを落ち着かせようとする看護師らしい女性の声がはっきりと聞こえた。
「ええ、大丈夫です」と答えた。
私は座法を組んだまま、ともすれば飛ばされそうになる意識をなんとか保とうとしていた。遠のきつつある意識のなかで、「これはあまり気持ちのいいものではないな」と思っていると、そのうちに現実なのか幻影なのかわからないヴィジョンがあらわれた。

気がつくと、ステージの高い正大師・正悟師四、五人とヴァジラティッサ師が私をとりかこんでいた。そのとき、私は現実に彼らが部屋に来ているのだと思っていた。
「マハームドラー、マハームドラー」
ミラレパ正悟師(新実智光死刑囚)を先頭にして、口々にはやし立てるように言いながら、座っている私のまわりをぐるぐると右回転で走りはじめた。ダダダッと走る彼らのスピードが速まり、頂点に達したところで、今度は私が彼らに向かって鋭く「マハームドラー!」と一言叫んだ。
マハームドラーとは「心のあらわれ」という意味だ。この世界は心のあらわれであり、実体のない幻影のようなものだという「大いなる空性」(マハームドラー)を悟ることが、クンダリニー・ヨーガの次のステージの課題だ。
私が「マハームドラーだ!」と叫ぶと、次の瞬間彼らは一枚の紙切れのように外側にペラっと倒れた。そしてすぐさま、また同じ人物たちがあらわれて「マハームドラー、マハームドラー」とはやし立てながら私のまわりを回転する。回転速度が頂点に達すると、私は「マハームドラーだ!」という強い言葉を投げかける。すると彼らを含む私をとりかこむ世界は、ぺらぺらの紙になって倒れてしまう。
私はシールドのなかで意識がある間ずっと、現実だと思っている世界が実体のない紙芝居のような世界に変わるという経験を繰り返していた。
「終りました」と告げに来たヴァジラティッサ師に「どうでしたか?」と聞かれた。
「疲れましたよ…」
私はため息とともに言った。どのくらい時間が経ったのかわからなかったが、「マハームドラー!」という短い叫びを繰り返してエネルギーを使い切ったような感じがした。
「裸になって暴れて、シールドから飛び出す人もいるんですよね…」
座法を組んだままヴィジョンを見て叫んでいた私の状態は、まだましだと言いたい様子だった。
キリストのイニシエーションの最後は「温熱修行」だった。薬物の影響が残らないように、五十度の温かい飲み物を一リットル飲んで、四十七度のお風呂に十五分間入る温熱修行を、休憩を入れながら数回くり返した。
ユニットバスがぐるりと十ほど並べられた大きな部屋で、看護師資格を持つ師が監督して温熱修行が始まった。私が入ったユニットバスは、ちょうど監督がいる場所から死角になっていた。温熱修行も二巡目に入って監督の師も疲れていたのだろう、一人一人の様子を見にくる気配はなかった。
「あれ、これなら見えないな…」
温熱修行に限らず苦行が苦手だった私は、首までお湯につからないで十五分間をやり過ごし、最後はバスタブの端に腰掛けて足だけ湯につけていた。(2)

私にとってキリストのイニシエーションの体験は、極厳修行の内的体験ほど微細なものではなかった。「尊師、尊師」と教祖を呼び続けた人や、「救済、救済」と叫んでいた人もいたようだから、私が「マハームドラーだ!」と叫んでいたのは、マハームドラーの悟りを得たいという思いが強かったせいかもしれない。他の人たちの体験談を聞いてみると、キリストのイニシエーションによって良くも悪くも強烈な体験をしたようだった。
イニシエーションの体験は教祖に報告され、内容によってステージ昇格が認められ、一年以上ぶりに多くのクンダリニー・ヨーガの成就が認定された。
教祖は、その後も大勢のサマナと信徒に薬物イニシエーションを続けるが、その数は延べにして最低でも三千五百人を超え、もしかすると五千人以上になるかもしれない。(3)何千人もの人間の潜在意識の扉をこじ開ければ、そのすべてのカルマは教祖が背負うことになる。膨大なカルマを背負うことが「キリスト」と名づけられたイニシエーションの本当の目的だったのだろうか。

キリストのイニシエーションとほぼ同時に「省庁制」がスタートする。省庁制について、一般に「教祖に権力を集中させた」と言われているが、それは逆で、それまで教祖に集中していた権力を大臣を置くことで分散させたものと思われる。そうして教団の運営からは距離をおいて、カルマを背負って「キリストになる」自らの運命を歩みはじめたと考える方が実態に合っている。元幹部の話では、それまでは教祖に直接聞くことができたが、省庁制がはじまってからは「今後は大臣を通すように」と言われ、教祖との間に距離ができたと感じたそうだ。林郁夫受刑囚も同様のことを著書に書いている。
キリストのイニシエーションに並行して、教祖はサリンやVXガスなどの化学兵器(毒ガス)による外部攻撃を行っていった(六月二七日松本サリン事件)。世紀末、世界の終わりにカルマを背負って「キリストになる」という宗教的信念のもとに、教祖は破滅へと突っ込んでいったのではないだろうか。


(1)教祖は「LSDは、なぜか徳が減らないんだよ」と言ったそうだ。薬物を使うと徳が減るというデメリットがあるが、LSDにはそういうことがないと評価していた。
早川紀代秀死刑囚の著書によると、LSDの原料はロシアから持ってきたものである。
(2)温熱修行は危険なので、必ず医療関係者が付き添うよう決められていた。
(3)薬物イニシエーションを受けた正確な人数はわからないが、六月から翌年二月頃までずっとおこなわれていた。受けた人の体験談など、すべての資料は強制捜査の前に破棄された。
薬物イニシエーションの体験は、その人の潜在意識の体験であり、すなわち死後体験(バルドー体験)だと考えられていた。
オウムでは修行によって徐々に潜在意識へアプローチしていたが、キリストのイニシエーションでは薬物によって一気に潜在意識に入れた。修行の土台がない人は、気絶状態でなにも覚えていなかったり、ひどく暴れたりもしたが、多くの人が意識の深層を体験した。
一九九四年二月には、ロシアのオリンピックスタジアムでロシア人一万二千人を集めて「グルヨーガ・マイトレーヤ・イニシエーション」がおこなわれた。宗教的には、これまでにない規模のカルマを教祖は背負ったことになる。


71.行方不明

Tさんは子どもを連れて出家したシングル・マザーだった。私と彼女は直接の知り合いではなく、私の友人の知り合いの紹介でオウムに入会したという縁だった。
入会してほどなく、Tさんは幼い子どもを連れて出家した。ところが、富士に行って二か月もしないうちに、彼女が配属された部署から「Tさんがいなくなった」と、世田谷道場にいる私に連絡が入った。住んでいた東京に戻っていることはわかっているから、縁のある私が彼女を説得して富士に戻してほしいという依頼だった。
出家者が突然いなくなること(下向)は珍しくなかった。私自身、出家と現世の間で心がゆれる状態がよくわかっていたので、ゆれるサマナを説得して教団へ戻すことは得意だった。それに、出家者はもともと崇高なものを求めているから、現世に戻りたいというのは一時的に煩悩に翻弄されているだけで、冷静になれば再び修行に向かうようになるものだ。

Tさんに連絡すると、話しに来るのが私一人なら、という条件で会うことを承諾してくれた。
次の日、私は彼女と会って、Tさんの気持ちを聞きながらときどき法則について話した。穏やかに話しながらも、私が考えていたことは結局のところただ一つだった。
「とにかく富士に連れ戻せばなんとかなる」
それは、信徒が友人・知人を導くにあたって、とにかく支部で成就者に会わせればなんとかしてくれる。出家者ならば、ゆれているサマナがいればとにかくステージの上の人に会わせる、できれば教祖に会わせればなんとかしてくれる、そう思うことと同じだった。
案の定、Tさんは少し不安定になっているだけに見えた。冷静に考えて行動しているなら、子どもをどうするか考えているはずだが、Tさんは教団に残したままの子どものことをまったく気にかけていなかった。
私は、「子どものことを考えて、もう一度修行してみたら」とうながした。
Tさんは少し考えてから、「もう一度、修行してみようかな…」と言った。
「ただ、富士に戻るのは一日待ってほしい」と、Tさんは条件をつけた。
彼女の気が変わらないうちに富士に連れて行きたかったが、彼女は頑として譲らなかった。これ以上押しても無理だと判断した私は、「明日迎えに来るね」と言い残して帰った。
世田谷道場にもどった私は、富士に電話した。
「まあなんとかなりそうです。明日には富士に連れて行けると思います」
そう知らせると、Tさんの上長は行き先の変更を伝えてきた。
「イニシエーションを受けさせるから、富士ではなく上九のクリシュナナンダ師(林郁夫受刑囚)のところへ直接連れてって」

その頃、上九の第六サティアンでは薬物を使ったイニシエーションが行われていて、杉並区野方にあったオウム真理教附属医院の医者や看護師の多くが、第六サティアンに常駐するようになっていた。下向したサマナが教団に戻った場合、心が落ち着くまで修行に入るのが普通だったが、Tさんが修行に入るのではなくイニシエーションを受けると聞いて、私は少しうらやましく思ったことを覚えている。サマナならだれもがイニシエーションを受けたいと思うものだ。
次の日、私は車を運転して約束通りTさんを迎えに行き、どこにも寄らず中央高速をとばして第六サティアンへ連れて行った。クリシュナナンダ師に「よろしくお願いします」と言って、Tさんをシールドルームに残して東京へ戻った。クリシュナナンダ師は、臨床経験の少ない若い医師が多いオウムには珍しく、医師としてのキャリアを持っている人物だ。
それからしばらくして、私は用事で上九に行くことになった。
「Tさんどうしたかな。落ち着いて修行に向かう気になっただろうか」
そう思って、Tさんの様子を見るつもりで第六サティアン三階のシールドルームにいるクリシュナナンダ師を訪ねた。
シールドルームの重いドアを開けたクリシュナナンダ師は、疲れたような表情のない青白い顔をしていた。
「Tさん、どうですか?」
私は気軽に尋ねた。
Tさんと言ってもクリシュナナンダ師はぴんとこないようだった。
「十日ほど前に私が連れてきた、ほら、ゆれていたサマナです」
そう言うと、彼は表情を一変させて怒鳴った。
「余計なことを聞くんじゃない!」
そしてシールドルームのドアを力まかせにバタンと閉めた。
私は驚いて、閉ざされたドアの前でしばし呆然としていた。
クリシュナナンダ師は、誰の目から見ても温厚で、善良で、知的な紳士であるだけでなく、社会的にも成功した優れた医師だった。その彼が突然表情を一変させ怒りをあらわにしたのだ。部下であるサマナ相手なら理解できなくもないが、私は彼と同じ成就者だったから少しむっとした。
なにか聞いてはならない事情があるのだろうと思いなおし、Tさんの様子を確認するのをあきらめて東京へ戻った。

九五年三月のオウムへの大がかりな強制捜査以降、多くの信徒・サマナが、警察・検察・公安から事情聴取された。私もTさんについて任意で事情を聞かれた。Tさんの足取りは、私が上九に連れていってから途絶えたまま行方不明だということだった。
Tさんを説得して一緒に上九へ行った経緯を、私は包み隠さず二人の刑事に話した。
事件直後は信徒の微罪逮捕が横行していたので、Tさんに関わるなにかで私も逮捕される覚悟をしたが、結局それが事件になることはなかった。
私はTさんに対する自分の行動を思い返して、違法なことはなにもなかったこと、Tさんの身になにかあったとしても、「私に責任はない」と何度も自分にいいきかせた。
私はときどき考える。
崇高で善きものと信じていた宗教が、気がついたら邪悪なものになっていた。それならば、なかにいた自分もまた知らぬ間に悪に染まっていたのだろう。はたして私が悪に染まったのはいつだったのだろうか。クリシュナナンダ師の怒鳴った顔、目の前で閉ざされたシールドルームの扉が思い出される。私は行方不明のTさんに対して、「責任はない」「悪いことはなにもしなかった」と自分にいいきかせ、「Tさんのことは忘れよう」と思った。
オウム事件の数は多く、裁判を迅速に進める必要性から小さな事件は起訴されなかった。
Tさんは行方不明のままだ。あのとき上九のシールドルームで行方不明になったのなら、薬物イニシエーション中なんらかの理由で死亡したことも考えられる。私の意識にその可能性が何度も浮かんだが、そのたびに、もしTさんがイニシエーション中に亡くなったとしても、それはTさんのカルマであり、私に責任はないのだと思った。そうやって、自分を守るためにTさんを意識から切り離した瞬間、私はなにかを失ったような気がする。
教団が裏で数々の悪をなしていたとき、多くのサマナ・信徒と同様に私もまったくそれを知らなかった。だから、私は潔白なのだとずっと思ってきたのだが、はたして本当にそうだといえるのだろうか…。