59.ガンガーの祝福

サマナのインド修行から三か月後、三百人をこえる信徒さんと仏跡を巡礼するインド・ツアーが行なわれた。教団はじまって以来の大規模な海外ツアーだったこともあり、取材班は万全の態勢で臨んでいた。ところがツアーの日程が進むにつれて、取材班の責任者スッカー師の表情はくもりがちになっていた。参加者への取材は順調に進んでいたが、教祖の映像がなかなか撮れなかったからだ。ツアーのあいだ教祖は列車内でひたすら神々に果物を供養して、おりてきた大量の供物はそのまま参加者のイニシエーションとして配られた。教祖の顔色はみるみる黒ずんでいき、イニシエーションによってエネルギーを交換している様子がそばで見ているとよくわかって、とてもカメラを向けられる状況ではなかった。それでなくてもインドの列車の照明は暗すぎて、写真もビデオもまともに撮れるようなチャンスはなかった。
「撮影のために特別時間を取ってもらえないか、尊師にお伺いしてみるわ」
体調を気遣って様子をみていたスッカー師も、迷った末にとうとう教祖に相談しに行った。
「明日の朝バラナシに着いたとき、撮影の時間を取ってもらえそう。数時間停車するみたいだから」
巡礼ツアーでは、信徒さんの修行の様子や集合写真を撮ることで忙しく、教祖も一人になることがなかったので、私は写真を撮ることは半ばあきらめていた。信徒さんから離れて撮影のための時間を取ってもらえるなら、教祖らしい写真が一枚でも撮れるかもしれない。

バラナシに着いたのは未明だった。
あたりがぼんやり白みはじめてくると、有名なガート(沐浴場)の観光客相手のボートを三そう借りて、教祖とマンジュシュリー正悟師、カメラ担当のスッカー師と私、ビデオ・カメラ担当のI君とN君がそれぞれボートに乗り込んで、ガンジス川の上で撮影することになった。
「聖都バラナシ、聖なるガンガー。ロケーションは最高だな…」
そう喜んだのもつかの間で川岸を離れるとすぐに、地面の上なら自分の足で走り回って好きなアングルで撮れるが、ボートの上ではそうはいかないことに気がついた。
「舟の上で撮影するなんて、だれが考えたの…」
教祖の後ろにボートをつけられて、どうやっても背中しか撮れない状況にあせった。
「あっち! あっち!」
スッカー師が手振りを交えて大声で指示するうちに、インド人の船頭にも意図が伝わったのだろう、教祖の撮影がしやすいようなポジション取りをしてくれるようになった。

まだ明けやらぬ静かなガンジス川には朝もやが漂っていた。船頭がボートをこぎ、中央にマンジュシュリー正悟師がカメラを持ってすわっていた。ときおりオールが水面を打つ音がこだました。教祖は船尾でリラックスしていたが、すぐに表情が変わって蓮華座を組みなおしマントラを唱えはじめ、その音に合わせるようにさまざまな手印を組みだした。写真を撮りながら、私はファインダー越しにあたりの変化に気づいた。
「光が…。こんなの、見たことない…」
私は息を止めて高速でシャッターを切った。朝日が昇ってくるにつれて、水面にかかっていた朝もやは精妙なフィルターのようになったのか、朝の光が透過してあたりはさまざまな色に染まっては変化していった。最初は一面輝く朱鷺色に染まった。こんな光の色はこれまで見たことがなかった。総毛立つような感覚のなかで、私は二台のカメラを駆使して写真を撮った。次に光は輝く薔薇色に変わった。全身が震えそうになるのをがまんして、私はファインダーに額をぎゅっと押し当ててシャッターを切り続けた。
教祖はマントラのスピードを上げて次々と多彩な手印を繰り出している。昇りつつある太陽のエネルギーと連動しているかのように、マントラのヴァイブレーションが力強く響いてくる。あたりは薔薇色からオレンジ色に染まって、オレンジの輝きが増したと思った瞬間に、今生まれたばかりの太陽の輝く透明な光に包まれた。
あっという間にフィルムを使い果たして、私はあわてて二台のカメラのフィルムを新しいものと交換した。教祖はずっとマントラを唱えて流れるように手印を組んでいた。いったいぜんたいどうしてこんなに多くの手印が次々と繰り出せるのだろうか、どこでだれに習ったものか、そもそも習っておぼえたものなのかどうか…この人はいったい何者なんだろう…と思いながら、完全に昇った太陽の光の中で、私は少し落ち着きを取り戻しながら写真を撮っていた。列車内では黒ずんでいた教祖の顔はすっかり輝いていた。マントラが終わり、教祖は再びリラックスした表情で中空に視線を送りなにかを感じているようだった。このとき遠くを見るようにして微笑んでいる教祖を撮った一枚は、顔に光がきれいにまわってやわらかな表情をよくとらえていた。背景にはガートの建物が写って異国の雰囲気があり、この写真は大判のポスターにも使われた。

聖都バラナシのガンジス川で、わずか二十分ほどで撮った写真にはいいものがたくさんあった。私なりの傑作もあったかもしれない。にもかかわらず、私には良い写真を撮ったという満足感はなかった。なぜなら、テクニックも、感性も、意図も、あのときなにも働く余地はなく、私はただシャッターを切っていただけだった。あの神々しいまでの光の到来は、どんなフィルムにも写し撮ることはできない。カメラなんか放り出して、圧倒的な奇跡のなかに、ただそこにいるだけで本当はよかったのかもしれない。


60.言ってみればそれだけのこと…

教祖と縁のあった高名な宗教家には、パイロット・ババ、ダライ・ラマ法王、カル・リンポチェ帥、テーラヴァーダ仏教のアーナンダ・マイトリー長老などがいた。彼ら以外にも、チベットやブータン、スリランカを訪れた際に、教祖は現地で評判の高い修行者と会って、瞑想体験について、経典の解釈について意見を交わしていた。宗教家に限らず、ブータン、スリランカ、ロシア、国賓として迎えられたラオスなどでは、国王や政治家とも会談した。外国の要人と会って握手をしている写真は教団にはくがつくので、私はそういう写真をたくさん撮影した。そのなかで一番印象的だったのはブータンのジグミ・シンゲ・ワンチュク国王(*)だ。民族衣装の上に明るい黄色の布をまとった精悍な顔立ちの国王が謁見室にあらわれると、一瞬でその場を支配する強烈なオーラを感じた。
「これこそ、本物の王様だ…」
ダライ・ラマ法王や、カムトゥール・リンポチェ、さまざまな宗教家との会見の場に居合わせても特別なものは感じなかったが、ブータン国王は、そのまま馬にまたがって弓を持って狩に出かけたとしても不思議ではない武人の風格があり、統治者である王の威厳があった。
写真を撮るのも忘れて王様に見惚れていると、当時九歳のアーチャリー正大師がすっと寄ってきて、ささやいた。
「お姉さん、目が、ハートになってるよ…」

また、スリランカを訪問したときの忘れられないエピソードがある。そのとき通訳を務めたのはシンハラ人の男性で、年齢は三十代後半、浅黒い肌で大きな黒い瞳で名前は知らない。彼はシンハラ語を日本語に通訳するために雇われていた。
訪問先から首都コロンボへ戻るバスでのことだった。立ち寄り先の多い急ぎの旅だったのでバスの席は特に決まっておらず、乗り込んだ順にバラバラに席についていた。私は前から三列目の通路側にすわって、教祖は通路を隔てた四列目の席にすわっていた。すでに陽は落ちて車内も暗く、疲れがたまっていた私たちは、動き出したバスに揺られるといつものようにすぐに眠ってしまった。
ふと、教祖の話し声が聞こえてきた。どうやら教祖は後ろの席にすわっている通訳と会話しているようだ。私はうとうとしながら聞くとはなしに話を聞いていた。
「私は小さい頃から僧にあこがれていました。瞑想して、解脱する人にです。今、私は結婚して子どもも一人います」
「お子さんは、いくつですか?」
「まだ五歳です。女の子です。私は、家庭を守り、子どもを育てなければなりません。でも、修行したいという小さい頃からの夢は、今も忘れていません。解脱する望みも捨てていません。年をとったら、森に入って修行者になりたいと思っています。老人になってからでも、できますか?」
「できますよ。結婚していても、修行することはできますよ。私もそうでしたから」
「尊師さま、教えてください。解脱というのは、それは、いったいどんなことですか? どんなふうになることなのですか?」
「それは…経験が根づかない…というのかなあ。たとえばね、なにかを食べるとします。そうすると、それが美味しければ、その美味しさを求めてまた食べたいという心の欲求が生じますね。解脱すると、肉体と心とは分離されていて、味覚はあって美味しいと。しかし、次に、またそれを食べたいという気が起きない。一度食べる、そのときは新鮮です。そしてまた食べてもはじめてのように新鮮。一回一回が新鮮です。だから絶えず、一回目の感覚です。解脱の状態というのは、言ってみればただそれだけのこと…ではあるのです、けれども、ね…」
教祖の言動を記録するのがワークだった私は、思わず教祖に言った。
「尊師、それテープにとっておかないと…」
「なんだ、聞いていたのか。さすがだな」
見渡すと暗いバスのなかで起きていたのは、教祖と通訳と私だけのようだった。

「言ってみればそれだけのこと…」を、通訳の男性がどこまで理解したのかはわからない。私は教祖の説明を聞いて、解脱した人というのは十二縁起の二番目の「行」、オウムでは「経験の構成」と訳しているものが、止滅しているんだなと思った。一回限りのたった一人の通訳の質問にも、教祖は弟子に答えるように話していた。国王でも法王でも大臣でも通訳でも信徒でも、だれを相手にしても教祖の態度はまったく変わらず、話す内容はダルマ(法)についてだけだった。
少なくとも、私が見ていたあいだ、例外は一度もなかった。


*十二縁起の法→「無明」「行」「識」「名色」「六処」「触」「受」「愛」「取著」「有」「生」「苦」
<オウムの訳語>
十二の条件生起の段階→「非神秘力」「経験の構成」「識別」「心の要素‐形状‐容姿」「六つの感覚要素と対象」「接触」「感覚」「渇愛」「とらわれ」「生存」「出生」「苦しみ」

*お会いしたのはブータンの前国王。二〇〇六年長男の現国王に譲位。


61.まぼろしの托鉢修行

托鉢修行をするという計画が持ち上がったことがある。一軒一軒まわって食べ物やお金の布施を受ける、いわゆる乞食(こつじき)だ。すぐに立ち消えになったのであまり知られていないが、「托鉢鉢」がサマナ全員に配られたので持っていた人は多いだろう。男性用と女性用でデザインが違うステンレス製の鉢は、どちらも底に梵字のオウム字がプレス加工されたしっかりとした造りだった。製造したのはCSI――コスミック・サイエンス・インスティチュートで、ときに「コミック・サイエンスか?」と思わせたCSIにしてはなかなかの美しい出来栄えだった。同時に托鉢用の青色の袈裟も試作されたのだが、どういうわけか托鉢修行は立ち消えになり、サマナは配られた鉢をどんぶり代わりに使ったり供物を入れるのに使ったりしていた。
托鉢鉢を見ると、「なぜ托鉢修行は立ち消えになったのだろう?」と不思議に思うことがあった。今となっては疑問は解けないが、そのような試みがあったことは書き残しておこうと思う。

一九九一年から、成就者だけを集めた「尊師と集う会」が月一回開催されるようになった。師のなかには、成就して一年、二年と経つうちに向上心を失い、率先して買い食いをしたり、性欲の破戒(*)をしたり、制服を着用しなくなるなど、意識が堕落する者が出てきて、教祖は成就者を再教育するために法則を説き、個々の質問に答え、指導する機会を設けたのだ。
あるとき、「尊師と集う会」から戻ってきた師が、困った様子でつぶやいた。
「大変なことがはじまることになった…」
「なにがはじまるんですか?」
「托鉢修行…」
「たくはつぅ?」
「ふぅ…富士宮まで歩いていくのかなぁ…東京のほうがお布施は集まるよね…」
困惑しながらも、どこへ行って托鉢しようか考えをめぐらしているようだった。
「サマナもやるんですか?」
「いまのところ師だけ、でもそのうち…」
「えー、そんな修行は嫌だなあ…」
その頃、サマナの性欲の破戒が問題になり、富士では男性も女性も容姿にとらわれないように坊主頭にすることが流行っていた。上長も「修行が進むから」と言って剃髪したばかりだった。
「頭をまるめて托鉢するなんて、まるで南伝大蔵経の世界だな…」と私は思った。

教祖は托鉢修行についてこう言っていた。
「オウムの修行者は足腰が弱いので、ブッダの時代にあったような托鉢修行を取り入れようと思う。ブッダの高弟サーリープッタ尊者が托鉢に行けばたくさんのお布施が集まったというからね。托鉢は修行者の徳のバロメーターにもなる。自分の食い扶持くらいは自分で得るようにしようじゃないか。どうだ、きみたち、楽しい修行だと思わないか」
このとき成就者は、師、正悟師、正大師合わせておそらく一〇〇人前後はいたと思う。托鉢用の袈裟と鉢を作らせていたのだから本気でやらせるつもりだったのだろう。でも、成就者たちが嫌がったので立ち消えになったに違いない…私は長いことそう思っていたのだが、托鉢修行に行ったことがあるという先輩成就者が詳しいことを教えてくれた。

「師の人たちが托鉢をしたことは、確実に一回はあります。何年だったか覚えていませんが、東京本部にいた師に突然指示があって驚きました。それで、初詣でにぎわう神社仏閣に托鉢に行ったんです。“徳のある師がたくさんの布施を集める”といわれていたのですが、結果をみると、ダントツでたくさんのお布施を集めたのはV師でした。V師は水商売の女性に人気があって、商売帰りの女性からたくさんの布施が集まったんです。次が坊主頭のB師でした。B師は頭をなでられたと言っていました。長髪だったアーナンダ師は最下位でした。私はけっこう托鉢を楽しんでしまって、宗教的なことをやっているはずなのに意識はどんどん外側に向いて、修行にはなりませんでしたね。V師が一番というのは、お釈迦様の時代のように宗教的な徳で布施が集まるというより、どう贔屓目に見てもスヴァディスターナ・チャクラ(性エネルギーを司るセンター)のエネルギーが強いためという印象でした。
そのとき托鉢修行をした師が、その後高い確率で性欲の破戒をしているので、そのことが立ち消えになった理由なのかもしれませんね。東京本部の師の托鉢修行はこのとき一回きりでしたが、その後、性欲の破戒をしたサマナが坊主頭になって托鉢修行をしたことはありました。」

ブッダの時代や、スリランカやタイで行っている托鉢修行を今の日本で取り入れても、人々が「カッコイイ男性だ」「カワイイ娘だ」と思って布施をするなら、出家修行者もそんな意識に巻き込まれてしまう。教祖は実際に弟子に試させて、現代では托鉢は修行にならないと判断したのかもしれない。

(*)出家修行者は戒律を守ることが修行の土台だった。サマナ同士で恋愛関係になった場合、ザンゲして修行をやりなおすか在家に戻るかどちらかだった。特に、性エネルギーを昇華して達成するクンダリニー・ヨーガの成就者の破戒は、長期間の修行に入るか場合によってはステージ降格など厳しい律が課せられた。



62.支部活動へ

私は富士の編集からパソコン通信を使った布教活動(オウム真理教ネット)に異動することになった。異動の理由は、編集部での権力闘争に敗れて左遷されたようなものだった。この闘争については、教祖が説法で「TBとTDの戦い」と言って取り上げ、教材にも使われたのでサマナならだれでも知っている。大まかにいえば、成就者として編集部に戻ってしばらくすると、一人のサマナが反抗するようになった(よく考れば彼女は私に似た性格だった…)。言うことをきかせようと、同じ時期に成就したTB正師と結託して戦っているうちに、お互いに嫌悪が増大して、権力闘争に発展して私が負けたということだ。
成就者といっても煩悩がなくなったわけではないので、なにかのきっかけで嫌悪や愛著などの煩悩に引っかかると、クンダリニー・ヨーガを成就してエネルギーが強くなっているだけに、結果は悲惨なものになってしまう。そういうときには法則を学び直し、とらわれている煩悩について思索し、修行して乗り越えていかなくてはならないのだが…。
パソコン通信「オウム真理教ネット」のホストは、東京世田谷の上町にあるオウム出版営業部が入っている一軒家の一室にあった。私はそこでインターネットを通じた入信活動を一人ですることになった。一九九二年インターネットの黎明期、オウムはいち早くパソコン通信を使って布教活動をはじめていたが、ネットの人口はまだそれほど多くなかったので、閑職にまわされた私はひどくプライドが傷ついた。ただ、編集部で私と権力闘争をして勝利したTB正師がその後すぐに破戒して下向したことを考えると、上町で一人でこもっていたのは、頭を冷やすにはちょうどよい環境だったのかもしれない。
そして、一か月もすると世田谷道場へ異動になった。クンダリニー・ヨーガの極厳修行を終えたとき、希望する部署を書いて出すように言われて、私は「支部活動」を希望したのだが、それを聞いた教祖は少し考えて「支部は、まだ早いな…」と却下したので、このタイミングで世田谷道場に配属されたのは意外だった。

信徒時代に通っていた世田谷道場に成就者として配属されるのは、ちょっと誇らしい気持ちがした。そして、成就者として体験談を発表したり、勉強会で説法をすれば傷ついたプライドはすぐによみがえった。(全然懲りていなかったようだ…)
救済の最前線である東京の道場は、多くの信徒や一般の人が出入りして活気があり、富士の閉鎖的な生活とはまったく違っていた。支部の役割ははっきりしていて、お金と人を集めること、集めた人を教化し修行させることだった。具体的には、「来道させる」「布施を集める」「教学させる」「入信を増やす」「イニシエーションを受けさせる」「出家させる」ことが、活動のすべてと言ってもよかった。特に布施と入信の結果を出そうと皆懸命で、それは普通の会社で営業成績を競うことと変わらなかった。
編集部で厳密に法則に沿って書くことを教え込まれていた私は、支部ではずいぶん乱暴に法則が説かれているのに驚いた。成就者のなかには、自分の法則を説いているような個性的な人もいてびっくりした。それでもオウムという強烈なエネルギー磁場のなかでは、「グルを意識しましょう」「帰依ですよ。帰依」「徳を積みましょう」「布施をしましょう」「導きましょう」「カルマですね」「縁がありますね」「解脱するしかない」「救済、救済」という単純なセリフだけで、人とお金はおもしろいように動いた。信徒は、真理に導きたい友人・知人を成就者に会わせ、成就者はとにかく入会させ、できるだけ早くイニシエーションを受けさせ、オウムのエネルギーと結びつけようとした。その流れに入れさえすれば、自然に霊的な覚醒が起きることを、成就者はもちろん信徒も身をもって経験していた。

私は世田谷道場でたくさんの入信案内をするようになり、どういう人がオウムに入って、どういう人が入らないかが、ぼんやりとわかるようになった。もともと真理を求めている、解脱に興味があるような人は本を読んで勝手に入ってきた。そして、人として大地に根を張っていないような感じの人、世間の枠に入りきれない苦しさを感じている人は入った。若い人に多いが、家庭や仕事を持っていてもそういう人はいる。その人たちに、「修行であなたは変わる」「解脱すればあなたは変わる」という話をして、背中を一押しすると、まるで一陣の風に舞い上げられた木の葉のように、ひゅっとオウムの世界に巻き込まれた。
私は自分とよく似た人を相手に入信案内をしていた。


63.予言とハルマゲドン

「修行であなたは変わる」とは別の入信案内のキーワードもあった。
「予言」と「ハルマゲドン」だ。
教祖は最初から「三万人の成就者を誕生させることでハルマゲドンを回避する」という目標を掲げていたので、世紀末に起きるだろう破滅とオウムの活動は常に結びついていた。「ヨハネの黙示録」「ノストラダムスの予言」の解読、「転輪聖王獅子吼経」の翻訳など、予言の研究や占星学の研究は途切れることなく続けられていた。九一年から九二年は、「死と転生」の公演や仏跡巡礼、教祖が積極的にメディアに出るなど、外向的な宗教活動がくりひろげられ、予言の話は鳴りを潜めたかのようだったが、九三年に入るとハルマゲドンまでにあまり時間がないという雰囲気が教団を包むようになり、秘密裏にヴァジラヤーナ活動が再開されていた。(*)
予言にはまったく関心がなかった私は、その手の話は半ば聞き流していたが、かなり多くの信徒・サマナが予言を信じていた。ある在家信徒と車に乗って、導き(勧誘)の打ち合わせに向かっているときのことだった。熱心に導きをしている彼女は、運転しながら世田谷の街並みを見て言った。
「このビルやあの家々がガラガラと崩れ去る様子が目に浮かぶんです。だから一日も早く友人知人に気づいてもらいたくて」
彼女の脳裏には、ハルマゲドンで壊滅する街のイメージがありありと映し出されているようだった。私は彼女の横顔を見ながら思った。
「本気でハルマゲドンを信じているんだ。私、そこまで信じていないし、興味もないんだけどなぁ…」
信徒を指導する立場なのになんだか申し訳なかった。

事件後、私はなぜあれほど多くの人が、予言やハルマゲドンという話にある意味とり憑かれたようになるのか考えた。
ハルマゲドンに惹きつけられる人は、自分を堅牢な甲羅のようなもので包んでいるからこそ、無意識にそれを破壊したいという力が強く働いて、ハルマゲドンを畏れつつ期待するのではないだろうか。だとすると、ハルマゲドンを信じる人はハルマゲドンを起こす人にもなりうる。
また、予言を信じる人についておもしろいことに気づいた。予言を信じる人は予言が外れても決してそれを問題にすることがなかった。予言を信じて、それが外れたら教祖を信じられなくなりそうなものだが、奇妙なことに、予言を信じる人は結果がどうであれ何度でも予言を信じた。
株価の暴落、自然災害、彗星の接近、太陽の黒点活動、あらゆることがハルマゲドンの前兆だと言われたが、たとえそのときハルマゲドンが起きなくても、次こそ起きるだろうというムードがあった。一九九九年七の月に人類が滅亡するというノストラダムスの予言が外れたときは、さすがにショックを受けた人もいたが、また新たな破滅のストーリーが始まるのだ。二〇〇〇年問題についても、コンピュータが誤作動すると世界が大混乱するといって騒いでいた。事件後、上からの指示でサマナや信徒は何度荷物をまとめて待避させられたことか。予言を信じる人というのは、予言された状況に魅せられているのかもしれない。だから予言の結果には関心がないのだろう。
破壊されなければならないのは、世界でも街でもなく、なにかを強く信じる人の「とらわれた心」ではないかと私は思う。

(*)上祐氏は、教祖がマスコミの取材を受けなくなったことについて次のように書いている。
「1992年頃、いわゆる『新々宗教ブーム』に乗って、麻原に対するマスコミの取材が相次いだときのことだ。麻原は新々宗教ブームの旗手として、日本の宗教界で大いに成功する流れに乗ろうとしていた。
だが、麻原は、私に言った。
『この流れに乗ってはいけない。これは悪魔の誘いだ』
その後、麻原はマスコミの取材を受けなくなり、1993年からは、炭疽菌製造からサリンへと、ヴァジラヤーナ活動に没入していく。」(『17年目の告白』p156)


64.黙示録の神とキリスト

九三年当時をふり返ってみると、オウムがどういう宗教だったのか、教祖がなにを考えていたのか、私はあまりにもわかっていなかったと思う。オウムは仏教やヨーガと同じ真理を説き、私たちを解脱に導き救済する宗教だと単純に考えていた。だが、教祖は「キリスト」についても語っていた。教祖がキリストと自分の運命についてふれるのは、『サンデー毎日』による反オウムキャンペーンがなされた一九八九年にさかのぼる。教祖は説法でこう語っている。

「一九八九年九月終わり、グリーンクラフトで休んでいるとき、サハスラーラから『ドン!』と、妙なエネルギーが入ってきた。そして、『イエス・キリストになれ』という言葉があった。これは何かというと、『さらし者になれ』という意味だね。それからサンデー毎日がスタートした。私はイエス・キリストはさらし者だと考えています。そして、そのとおり、さらし者になってきた。私の役目は、さらし者だからそれでもいい。」

「イエス・キリストになれ」という啓示を受けた教祖は、二年後の一九九一年十一月に『キリスト宣言』という書籍の出版をとおして、自らがキリストであること(または、キリストになること)を宣言する。
この本の表紙について、教祖は強くこだわっていた。
「十字架にかけられたキリストを描き、キリストの顔をできるだけ私に似せてリアルに描くように」
デザイン担当のマハー・カッサパ師にこう厳しく指示したという。
私は、編集部とデザイン部とを頻繁に行き来していたので、なん度もやり直しながら教祖の顔に似せて仕上げようとする師の様子が目にとまった。
「リアルに表現したら、どうやってもかっこいい表紙にはならないのにな…」
グルの意思を実現しようと黙々と作業するマハー・カッサパ師を、ちょっと気の毒に思って見ていた。
一九九三年三月には、「キリスト礼拝祭」というサマナ向けの祭典がおこなわれ、教祖は大きな木製の十字架を用意させて、壇上で磔刑のキリストを演じて弟子たちにそれを見せた。
「なぜ、尊師はこういうことをするのだろう?」
とても不可解な思いで、私は壇上の奇妙な「キリスト」を見ていた。
教祖がいつものとおり本気だということはわかったが、そこにどんな意図があるのかはわからなかった。

このようにオウムのなかでは、東洋のヨーガ・仏教と西洋の「キリスト」が入り混じるようになっていた。ただ、宗教は「真理」に至る道だと教えられていた私たちにとって、それは決して矛盾ではなかった。ブッダも真理を説き、イエス・キリストも真理を説き、ヨーガや仙道が目指したのも真理であり、道は違うように見えても、真理という頂をめざしている「宗教はひとつの道」ということだ。
それにしても、仏教――なかでもテーラヴァーダ(上座部仏教)を最高の道と説いていた教祖が、「キリスト」を語ることの意味を深く考えてみる必要があったと今は思う。(1)
教祖は聖書の『ヨハネの黙示録』を解読したとき、そこに出てくる「神」(人の子のような者)が、これまで教祖を導いてきたシヴァ大神にそっくりだと驚いていた。
「私がアストラルでお会いするシヴァ大神と同じだね。シヴァ大神は本当にこういう姿をしているんだよ。足まで垂れている衣を着ていらしてね、全身が光り輝いているんだ。髪の毛もヨハネの言っているとおり真っ白だよ。そして何よりも、シヴァ大神の口からは意外にも牙がつき出しているんだ。」(2)
オウムの主宰神であるシヴァ大神の姿を、教祖が具体的に明らかにしたのはこのときだけだ。
『ヨハネの黙示録』にはこう書かれている。
             *     *     *
「そこで私は、私に呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。
それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。
その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(第一章十二~十六章)『聖書』(日本聖書協会刊行)
             *     *     *
オウムの主宰神であるシヴァ大神については、それ以外に「ヒンドゥ教のシヴァ神とは違う」「最高の意識の持ち主」「救済者を救済なさるお方」などと言われていた。
教祖はこんなことを言ったことがある。
「あなたがたはシヴァ大神に会えるわけではない。あなたがたには私しかいないんだよ。だから目の前にいるこの私に帰依しなさい」
このようにオウムの信仰の系譜は、弟子はグルである教祖に帰依し導かれ、教祖は弟子を導くグルであると同時に、自らもまたシヴァ大神に帰依し導かれるひとりの僕(しもべ)でもあった。教祖は黙示録にも描かれている「神」の働きかけによって、すなわち神的体験・神秘体験に導かれて「キリスト」になる道を進んでいく。それを「啓示」と呼ぶのか「妄想」と呼ぶのかはともかくとして。(3)
かすかにではあるが、私にはわかるような気がする。私が最初に見た双子のヴィジョン、「やっときたね」というあの声を聞いたからこそ、私は同時に現実に出合っていたオウムに入っていった。このような共時性のなかで、人は拒絶することができない運命を感じる。
神的体験・神秘体験がどれだけ決定的な影響を人に与えるのか、それを知る人はいったいどれほどいるのだろうか。


(1)『南伝大蔵経』の翻訳・研究の結果、ブッダの教えの四乗(ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナ)を包含するのがテーラヴァーダだととらえていた。
(2)月刊『マハーヤーナ』一九八八年十二月。
(3)ある精神科医の話として聞いたところでは、統合失調症患者には「私はキリストだ」「私は神だ」と言う人はたくさんいるが、彼らが抱いている妄想は、せいぜい隣の人にそっと「実は…」とささやく程度で、多くの人を巻き込むほどのエネルギーはないという。