スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

50.精神の危機

【二十八日目】究竟の瞑想中、ものすごく長いストーリーを経験した。
内容はたわいのないもので、ある日親戚の人たちと六時間ほどかけて会食の準備をしているというもの。しかし、これまでの瞑想中のヴィジョンと違っていたのは、瞑想をしている現実とまったく同じリアリティでヴィジョンが同時に進行したことだ。向こうの世界で、今は究境の瞑想の時間であると知りつつ六時間を経験した。つまり一時間の究竟の瞑想を経験しながらあちらの六時間を同時に経験したのである。
修行中に体験する世界はあまりにもリアルで、それを「アストラル体験」と呼んでいる。それはリアルではあるが、こちらの世界へ帰ってくればこちらのリアリティが勝っているから、「まるで現実のようにリアルなアストラル体験をしました」と言うことができる。しかし、今回は瞑想の一時間とアストラルの六時間がまったく同じリアリティで、二つの世界を同時に経験したのだ。この経験によって世界の土台が崩れそうな感じにとらわれる。
こちらをAとし、あちらをBとする。AはAと知り、またBも知っている。BはBと知り、またAも知っている。この場合、どちらが「現実」でどちらが「現実でない」といえるのだろうか? 
一つの意識が二つの世界を経験しているのか、それとも二つの意識が二つの世界を経験しているのか…。
いったい、なにをもって現実とアストラル、あるいは夢を区別すればいいのだろうか?
私はこの現実のリアリティが崩れ去るような、気が狂いそうな精神状態のなかに落ち込んだ。目の前の修行課題も、なにもかも自分から遠くなる。

【二十九日目】不安定な精神状態が続く。
断食をはじめて二十六日目。昨日から水を飲むこともやめる。
究竟の瞑想に入る。まず呼吸が止まり、上下左右の感覚がなくなる。次に瞑想空間が変化し、そして光が来る。
究竟中のアストラル体験が複数になってきた。
現実ってなに? 現実がわからない…。
不安のなかで、極厳修行中に尊師が言ったことをメモしたものを読み直してみる。

「ここはサットヴァ(*)の空間だから、君たちの持っているものが出てくる」
「ナーディ(*)の詰まり、嫌悪はこれだけ自己を苦しめるんだと認識しなさい」
「制約は自己が与えるもの。これだけの時間を自己のために使えることを喜ぶ――喜覚支をして修行すること」
「眠りをシャットアウトすれば変化身の体験をする」
「マントラを唱えるスピードが遅いのは煩悩的なせい。けがれがあるから。マントラのスピードが成就のスピードとなる」
「ヴィジョンは関係ない。一切とらわれるな。変化身、意識の連続、呼吸停止、肉体に対する執着を切る。雑念のない状態。詞章を早く正確に唱える」
「眠りも食欲も浮いてくるものはすべて現世。現世否定」
「意識がとばされる人は情報に弱いんだという認識をしなさい」
「真我以外のものを外的情報という。外的情報を捨断する」

ちょうど尊師が修行者の様子を見に来たので、自分の不安について質問する。
「湖があり、そこに藻が浮いているとしようじゃないか。この藻に光があたり光は水の中で分散する。これが意識の分散だ。どちらの意識も捨断しなくてはならない」というコメント。

【三十日目】究竟の瞑想中、長い物語を経験する。
そこは古代のヨーロッパのようだ。生き生きとその物語を生きている主人公と自分は完全に同化している。性別も性格も違うのに、ときには人間ですらない動物のときもあるが、「それは自分だ」と感じるのだ。
だから「私には古代ヨーロッパに生きた過去世があるのだ」と思う。
そういう体験はこれまでにもたくさんあるが、映画を見るような面白さはあっても、それも幻影だ。
修行に入ってから今日まで断食をしていたが、三十日を過ぎたら食をとるように尊師から言われる。断食のための修行ではないから三十日が限界とのこと。事実、数日前から食の煩悩が生起しはじめていた。
今日から食事をとる。人間は、眠らなくても食べなくても生きられることを身を持って体験した。

【三十一日目】究竟の瞑想中、弱い帯状の光がゆらゆらと上から降りてくる。次に、完全に透明な光が私の後方から二度射してくる。瞑想空間がスッと広がり変化する。きれいなレモンイエロー、きれいなブルー、そして、きれいな純白の四角い空間というか四角い色を見た。まるでタイルみたいな、今まで瞑想で見たことがない鮮やかな色だった。
強烈なエネルギーによる強い締めつけがあり、厚いエネルギーの固まりが私の両眼に圧力をかける。エネルギーを少し上にあげて眉間のアージュニャー・チャクラにその固まりを集めてみる。

【三十二日目】読んでいる詞章の紙がスポット光を当てられたように何度もとても明るくなる。
究竟の瞑想中、誰かが私の前に来たようだったが暗くて見えないと思うと、私のアージュニャー・チャクラ(眉間)から懐中電灯みたいに光が出て相手を照らし出した。私が光を照射したのだ。これにはびっくりした。

(*)サットヴァは物事を照らしだし明らかにする善性のエネルギー。ヨーガでいう宇宙を構成する三つのエネルギー(ラジャス・タマス・サットヴァ)の一つ。
(*)ナーディは人体の気の流れる管の名称。煩悩によって詰まったナーディを浄化することが修行のねらい。


51.地獄を見る

【三十三日目】眉間から光を発射した体験について質問する。
「アージュニャーから、そこからがまだまだ長いんだよ」というコメント。
今後の修行についてキサーゴータミー正悟師から発表があった。サマナの修行規定である立位礼拝六百時間がまだ終わっていない人は、残りをここで終わらせること。教学システム初級が終わっていない人は終わらせ、四つの秘儀瞑想をそれぞれ千回(各パートを千回の後に通しで千回)終わらせるようにとのこと。
今回の極厳修行でクンダリニー・ヨーガを成就した者は「正師」という称号で呼ばれるそうだ。霊的な体験だけでなく、これらの加行をすべて終わらせなければ、成就者と認められないということ。これが「アーナンダタイプで、煩悩捨断できている成就者」という意味なのだろう。立位礼拝は六〇〇時間に二八〇時間足りず、併行して秘儀瞑想も教学もやらなければならない。究境の瞑想をしているときが一番楽になっていたところに、高い山のような課題が突きつけられた。ちょうど「究境の瞑想に対するとらわれがある」とコメントされたところだった。とにかく淡々と目の前の課題に取り組むしかない。長い立位礼拝修行が始まる。

【四十二日目】立位礼拝十日目。あと少しで終わるのになぜか礼拝できず苦しい。こんなことならもうドロップアウトしようか…と、いつものようにゆれる思いが去来していた。
究竟の瞑想中、目を閉じると細かい黒い網点のようなものが見える。その網の向こうになにかヴィジョンのようなものが見えるので、なんだろうと思って網をくぐってみた。
黒い網のむこうは意外に明るく、そこで私は地獄の世界を俯瞰していた――。
身体のあちこちを切り裂かれ、もだえ苦しんでいるたくさんの人々、そのえぐれた傷からは血が流れ、真っ赤な傷口が細部までよく見える。その鮮明な赤い色が目に飛び込んできたので、明るいと感じたのかもしれない。私は終始上空から果てしなく広がる地獄世界を見ていた。
地獄は苦しみだけの世界というが、まさにそのとおりだった。苦しみと痛みの叫び、地獄の責め苦だけが続いている苦界。かつてそんな絵を見たから地獄のイメージが展開しているのだろうか? おそらく絵とは違って苦しみも痛みもビビッドにちがいない。そして、上空から見ていて感じられるのは、その世界のなんともいえないにおいだ。生臭いような表現できない嫌なにおいがしていた。でも、これまで他の修行者の地獄の体験でこのようなにおいにふれたものはなかったので、これについて質問した。
「においはあります。その体験は死生智(*)の智慧の一つであると同時に、きみが下向したときに行く世界だということです」というコメント。
立位礼拝の苦しさから下向意識にとらわれて、いつものようにゆれていたときだった。

【四十六日目】究竟の瞑想中、意識がすっと上昇して肉体から抜ける。
そして、抜けたところからすっと横に抜けていく。すると明るい世界が見えてきて、二人の男が旅をしている場面。一人は私だとわかる。何者かを追いかけているか、追われているかのどちらかのよう。季節は夏らしいが、時代、国籍ともわからない。
<以上、修行ノートからの抜粋>

結局、変化身の体験は、意識が肉体から抜けていく最初のところは認識できるのだが、肉体に意識が戻ってくるところは認識できなかった。
ダルドリーシッディは、立位礼拝の修行がはじまってから、自分では制御不能なほど激しいダルドリーが起きるようになった。立位礼拝をしていると強烈なエネルギーを感じるので、礼拝を中断して蓮華座をきつく組んでその場にすわらずにはいられない。するとエネルギーが爆発するように身体が激しくゴムまりのように飛び跳ねるようになった。それから瞑想をしている最中にふっと浮き上がるようなダルドリーシッディが起きるようになると、激しく床に身体を打ちつけて飛び跳ねることはなくなった。
「瞑想中に経験するダルドリーシッディが本当の空中浮揚の前段階だ」というコメント。
そして、いくつかの光への没入――。
私は加行をすべて終え、クンダリニー・ヨーガの四つの体験もほぼ終えて、最後に四日間のアンダーグラウンド・サマディに入ることになった。

アンダーグラウンド・サマディは、地中に埋められたステンレス製のチェンバー(小部屋)のなかで一人瞑想するというもので、完全密閉されたチェンバーは、修行者が四日間でどれほど酸素を消費するか外部からモニターされていた。煩悩があると呼吸の回数が増えて酸素を多く消費してしまう。理想は、瞑想中にサマディに入り呼吸停止の状態になることで、それが解脱の証明だとされていた。

(*)死生智とは仏教で認める六つの神通のうちの一つ。原始仏典では「天眼通」を「その魂が『死』んだ後来世どのような世界に転『生』するかを知る神通力」と説明していたので、オウムでは「天眼通」に「死生智」という訳語を当ていた。 六神通とは「神足通」「天耳通」「天眼通」「他心通」「宿命通」「漏尽通」。



52.地中の瞑想

アンダーグラウンド・サマディは第二上九で行われた。第二上九は、極厳修行をしていた第一上九から早足で歩いて二十分たらずの所にある。VICTORYという看板のある三角屋根の木造の建物と第六サティアンの大きな建物があり、コンテナがいくつか置かれている以外はところどころ雑草が生えているかなり広い空き地で、その一画にアンダーグラウンド・サマディのチェンバー(小部屋)は埋められていた。
一九九二年二月五日未明、あたりは暗く寒く、いつもすぐそこに見えている富士山もまだ闇のなかだった。私がチェンバーに入るときにサクラー正悟師が立ち会ってくれた。正悟師はいつもの明るい笑顔で「がんばってね!」と軽く言って、教祖が修法したドリンクのイニシエーションを渡してくれた。チェンバーの天井部分にある入り口から中に入るとすぐに蓋が閉められ、上からどさどさと土をかける音がして、アンダーグラウンド・サマディがはじまった。
チェンバーのなかは、これまで経験したことのない独特な静けさに包まれていた――。
辺鄙な場所の地中に埋められたステンレス製の空間に一人きりでいる状況は、棺おけに入って埋められているのと似ているかもしれない。とはいっても三メートル四方もあるチェンバーは棺おけよりずっと広くて快適だろう。はしご段を降りて内部の様子を見回してみると、酸素消費量を計測するらしい機械があり、その近くに毛布が二枚と電気ストーブとポータブルトイレとトイレット・ペーパーが何個か無造作に置いてあった。
「やっと一人きりの空間で修行できるんだ…」
私はやる気満々で瞑想修行をはじめることにした。

極厳修行中に教祖が「ここはサットヴァの空間だから、君たちの持っているものが出てくる」と言ったとおり、第二サティアンの道場は潜在意識がむき出しになる場所だった。しかし、地中に埋められたチェンバーのなかは、道場よりもはるかにサットヴァ――普段は深く隠されている私の本質が恐ろしいまでにあらわになる空間だった。おそらくそれは死後に経験する「バルド」(*)に近いものなのだろう。そこでは「オムライスが食べたい」と思う瞬間より早く、オムライスの皿がすごいスピードで飛んできた。「ハンバーグが食べたい」と思う間もなくハンバーグの皿が飛んできた――そんなイメージそのものがガツンと直撃するあからさまでダイレクトな空間。そこで瞬時に動くイメージを止めることもよけることも、もちろんコントロールすることなどできるはずもなく、サマディに入るどころか二日間は食の煩悩に翻弄され、次の二日間は怠惰な意識が出てきてまったくやる気が出なかった。
「もういいや…ねてしまえ…」
道場で修行していたときは、どんどん意識が鮮明になっていったのに、肝心要のアンダーグラウンド・サマディのチェンバーのなかでは、なにもかも面倒くさくて、かったるくて、どうでもよくなって、まったく修行ができなかった。ときどき正気に戻ってなんとか立て直そうとするのだが、ガス欠の車が動かないように、どうにもこうにも瞑想にならない。ずっと憧れていた独房修行は完敗だった。あの極厳修行での意識の鮮明さ、光への没入、変化身の体験はいったいなんだったのだろう? でも、これも自分なんだろうな…。
私は情けなさを感じると同時に「バルドは甘くないな…」とつくづく思った。
そんな状態でも規定の酸素消費量はクリアしたらしく、四日間過ごした地下のチェンバーから出ると、私はクンダリニー・ヨーガの成就者となり「正師」と呼ばれることになった。
長期の修行によって体重は十キロ以上減っていたが、身体は非常にエネルギッシュで心は平安で幸福だった。出てきた私を迎えてくれたサクラー正悟師が言った。
「今回の成就者ではあなたが一番変わったわね」
成就したという霊的な実感はあったが、人格が変わったかどうか私にはわからなかった。

これが私の経験した極厳修行であり、クンダリニー・ヨーガの成就だ。
この経験を振り返ってみると、今あのような修行をやれといわれてもできないと思う。教祖がグルとして近くにいたこと、修行の指導をしてくれたからできたことだと思う。横になって眠ることなく、三十日間ほとんど食べなければ死ぬ可能性だってあるだろう。多くの修行者が命をかけて修行して、自己を超えてなにかをつかもうとしていた。あの極厳修行にどういう価値があったのか、それは経験した者にしかわからないだろう。
いや、経験した者にもわからないのかもしれない。
「極厳修行にどんな意味と価値があるのか」と尋ねられたら、私はこう答える。
「はっきりとはわからない。だって、極厳修行で経験したことは私というものを完全に超えていたから。ただ言えることは、だれもがいつか経験する死のバルドは、想像以上に大変なものだと思う」と。


(*)バルドは中有ともいわれる。魂は死後四十九日間のバルド(中間状態)を経験して、次の世界へ転生すると考えられている。



<メールをいただきました。貴重なご意見、了承を得て掲載します。>

元TD師様

こんにちは。初めましてではありませんけど、訳あって匿名でメールしてます。
元TD師のブログ、いつも読んでます。私もいま書かれている極限修行の場にいました。読みながら感じたことを伝えたくなったのでメールしました。

「アーナンダタイプで、煩悩遮断ができている成就者」という言葉がありましたけど、これが心に止まりました。意味を考えると深遠で。
アーナンダタイプというのは、霊性は高いけど煩悩遮断ができていないということですよね。それって大量成就のときの人たちの特徴なのかもしれません。
あのときの修行はそれとはアプローチの仕方が別というか、霊性だけでなく精神性の向上もねらったものだとあらためて気づきました。
これって初期の独房修行の頃への回帰だったようにも見えます。
霊性の向上と、精神性の向上は、修行における車の両輪のようなものだと思います。大量成就のときの修行は、一方だけに特化しているのでかなりいびつというか。
でも思い返してみると、その直後には必ず、精神性の向上につながる修行というか環境がいつもちゃんと用意されていた気がします。
世間からのバッシングのようなものです。
考えてみたら、最初の独房修行の頃とか、この極限修行の頃って、オウムの歴史の中では珍しく平穏な時代でしたよね。
そういうのって、そのときどきの修行のやり方にも関係しているのかなと。

そんなふうに思えてつい伝えたくなりました。

これからもブログの更新、がんばってください。


元修行仲間



53.極厳修行とバルド

一九九二年二月九日、アンダーグラウンド・サマディから出て私の極厳修行は終わった。
記録をたどって気がついたのだが、極厳修行の期間は偶然にも魂が死後経験する「バルド」と同じ四十九日だった。成就するまでの期間は人それぞれだったが、私の修行が四十九日間だったことはとても意味深く感じられる。

極厳修行では横になって眠ることなく、極端な小食か断食をしながら徐々に深い瞑想へ入っていき、サマディという肉体的な死の状態(呼吸停止)を目指す。つまり、瞑想修行とは死を経験すること、死後トレーニングとも言えるのだが、それは言うほどたやすいことではなかった。瞑想に入っていくと、最初は雑念の渦に巻き込まれて、一瞬気絶したようななにも覚えていない状態になる。やがて修行が進んでくると、非常にリアルな夢やヴィジョンを見るようになる。
「ヴィジョンは関係がない。一切とらわれるな」
教祖はそう言って、詞章に集中し続けることでヴィジョンの向こうにある「光」を体験するよう指導したが、潜在意識の強い欲望(煩悩)が作り出すリアルなヴィジョンに巻き込まれずにいることは難しかった。
教祖が極厳修行を「狂うか、解脱するか」と表現したことは決して大げさではない。ある中年の男性修行者は突然「頼むから独房に入れてくれ!」と叫んだ。性欲の煩悩に翻弄されて、同じ道場で修行している女性修行者に飛びかかりそうになったからだ。彼は修行を抜け出して家へ帰ってしまった。(再び修行に戻って来たが)
ある修行者は、修行場の小さなシンクに置かれていた手洗い用のレモン色の石鹸を長いことじっと見つめていた。後で「食の煩悩が出て、とにかくなんでもいいから食べたくて、本当に石鹸を食べるところだった…」と言っていた。
私も意識が分裂して気が狂いそうになった。

「東大三人組」と呼ばれていた若い男性のうち二人も修行に入っていた。厳しい受験戦争を勝ち抜いただけあって、たいへん優れた集中力で修行していたが、私は彼らが成就するのは難しいんじゃないか…と思っていた。私のすわっている場所からは彼らが修行している姿が見えて、「自分」というものを強く持って修行しているのがよくわかったからだ。自我意識が弱まらないと、深い瞑想に入って内的体験をすることは難しい。「我」が強かった私にはそれがよくわかった。もし、トラックごと海に落ちるという事故がなかったら、絶対に極厳修行に耐えられなかっただろう。事故は私という存在を大きく揺るがす出来事で、あのときのショックでエゴが弱まった状態で修行に入ったから、最初から苦もなく修行ができて体験が深まっていったのだと思う。それでもアンダーグラウンド・サマディではなにもできなかった。

最初四十人でスタートした極厳修行は、途中から修行に入ってくる人もかなりの数いて、総数は八十人くらいだっただろうか。そのなかから最終的に二十人ほどが「正師」と認定された。成就認定された人たちのなかには、同じ海に転落したガフヴァ・ラティーリヤ正師(当時・端本悟死刑囚)やイシディンナ正師(当時・林泰男死刑囚)もいた。極厳修行は一年近く続けられたが、成就認定される者が出なくなり修行は終わった。そして、これを最後に「狂うか、解脱するか」という極厳修行は行われなくなった。その後は、一九九四年に行われた「キリストのイニシエーション」で薬物(LSD)によって体験し、体験内容によって成就が認定され、多くの成就者が誕生した。
薬物によるイニシエーションは、オウムの「ヴァジラヤーナの時代」と時を同じくしている。

*松本麗華著『止まった時計』(講談社)には「父は自分が達成した『解脱』が、当初は弟子の誰もが達成できるものと信じていましたが、実際に指導してみると、思い通りの結果を出す者がおらず、だんだんあきらめていったのではないかという印象が、現在のわたしにはあります。解脱者がどんどん多くなって世界宗教となり、救済ができると真剣に考えていたのに、弟子の修行が思ったように進まず、人間はなかなか救われないという認識に変わっていったのではないかと。」
オウムの修行が、極限修行から、完全な他力であるPSI(パーフェクト・サーヴェーション・イニシエーション)、薬物イニシエーションへと変化していったことからも、このような可能性は考えられるように思う。その後、弟子の現状に合わせて方法を変えていったという印象がある。

本日よりコメント欄を開けました(承認制)。
ご意見・ご感想、事実訂正などありましたら、よろしくお願いいたします。



54.成就記事と体験

成就して編集部に戻ると、自分の成就体験談を書く仕事が待っていた。
体験談は教団機関誌の目玉でもあり、サマナや信徒の目標となるものだったから、私は修行中のノートをもとにできるだけ正確に体験を書き、記事の最後には成就によって「グルに対する帰依が深まった」というそれっぽい一文を入れた。もちろん嘘ではなかったが、「ちょっと、かっこよくまとめたな」と思った。
記事は編集の総責任者ヤソーダラー正大師(教祖の妻)に上げられ、おおむねオーケーということだったが、私の信徒時代の部分に少し注文がついた。
「もっとバクティをやっている場面を入れてください」
信徒教化のためにそういう場面を入れたいんだなと思って、バクティはほとんどしなかったけれど、そういう場面を少し加えた。(私が信徒時代に積んだ功徳は友人をたくさん入信させたことだけ)
自分の記事を仕上げると、他の成就者の体験談を書く仕事がまわってきた。あまり知られていないことだが、実はオウムの成就者が自分で成就体験を書くことはほとんどない。みんなすぐにワークに戻って活動していたので、編集部でインタビューをして、それをもとに編集部で記事を書いていた(編集部の成就者は自分で体験を書いた)。例外は、ヤソーダラー正大師とマイトレーヤ正大師だった。二人ともそのまま掲載できる原稿を書くことができ、寄稿したものは編集部といえども手を入れることは禁じられていた。
成就体験を取材してみると、体験にはかなり幅があると感じた。なかには成就者本人に成就したという明確な認識がない場合もあった。
「あまり体験がはっきりしなくて、成就したって感じがしないんですよね…」(*)
そんなことを平気で言う人もいて、さすがにそれは書けないから、その人の人生物語を根ほり葉ほり聞いてなんとか記事を仕上げたが、相手が二十歳そこそこの若さだとライフ・ヒストリーにドラマもなくてかなり苦労した覚えがある。
たしかに成就の「四つの体験」の認識は成就者によってばらつきがあり、「成就には差があるのだろうか?」とも思ったが、私はそのことで相手の「成就」を疑ったことは一度もない。たとえ本人が「はっきりわからない…」と言っても、極厳修行を経て成就した人に会えば、エネルギーが「上に抜けている」ことははっきりと感じられたからだ。極厳修行を終えたとき、その人は本当にピッカピカに光っていて成就したことは一目瞭然だった。

(*)成就した人が「あまり成就したという気がしないのですが」というようなことを教祖に質問している説法テープを聴いたことがある。(それは教祖が成就した人たちに祝福を与えているときだったかもしれない)。教祖は「私だったら修行をやり直します」と言った。質問者(成就者)は黙っていた。教祖はもう一度「私だったら、修行をやり直します」とはっきり言った。質問者は黙っていた。



55.成就者となって

クンダリニー・ヨーガの成就者は「師」と呼ばれ、白いクルタ(インド風の宗教服)を着る。
オウムの修行者にとって、それはあこがれでありステータスだった。師になれば、サマナだったときの雑魚寝状態から専用スペースか個室が与えられ、ワークで必要ならば専用車を持つことができ、一つの部署のリーダーとなってサマナを管理するようにもなる。成就者に与えられるこのような特権は「利得と供養と名声」といわれて、一歩間違えば修行者にとって致命的な堕落へ通じる道であると教えられていた。

クンダリニー・ヨーガの成就者になってみて、私にも「成就」が実際どういうものなのかわかってきた。相手のことがなんでもわかる超能力者にはならなかったが、とにかくエネルギッシュになった。内側が熱で充実しているというのだろうか(修行用語ではツモが常時起きている状態)、クンダリニーが覚醒した人とそうでない人を、「原子力で動く車」と「ガソリンで動く車」ほど違うと聞いていたが、まさにそんな感じだった。
あるとき深夜に高速道路をノンストップで五時間運転して富士に戻ってきた私は、駐車場に車を止めると運転席のシートを倒してそのまま眠ってしまった。三月の富士はまだ寒く、夜明け前には零下ということも珍しくなかった。三十分ほど仮眠して目覚めてみると車の中は冷えきっていた。そのとき身に付けていたのは、綿のクルタに綿の靴下にサンダルだったのだが、気温が下がるほどに私の身体、特に一番冷えるはずの足先は炭が赤く燃えているときのように、深部からじわじわと不思議な熱を発していた。
また、支部で信徒さんの面談をしたあとのことだった。そのまま面談室で蓮華座を組んでいると意識がとんで、私は石がごろごろころがっている大きな河原にいた。さっきまで話をしていた信徒さんが、事故で壊れたような赤い乗用車から出てきて大きな川を歩いて渡ろうとするのが見えたので、「危ないですよ」と大声で呼びかけた。しかし、なぜか声は届かないようだった。次の日、その信徒さんが交通事故で亡くなったことを聞いた。
このように、成就によってエネルギッシュで超健康体になり霊感が鋭くなった。
日常的にはチャクラが感応した。人と対峙すると、下から二番目のチャクラから五番目のチャクラのどれかが痛むような反応があった。信徒さんと対応するときには、二番目のチャクラが痛めば「あなたは情の人ですね」「性欲で引っかかっていませんか」、四番目のチャクラが痛めば「あなたはプライドが高いですね」などとそのチャクラの特徴を言った。
それが本当にそういうことなのかどうか、正直に言うとわからない。
しかし、成就者と信徒さんとの関係においては、それはひとつの神秘力の表現として使われたし、ステージの下の者にしてみれば反論できないことだった。

成就してすぐに三百人規模の海外ツアーが行われ、私も取材のために参加することになった。チャーター機に乗り込むと、いつもどおりステージ順、成就順、出家順に座席に座った。古参の師が先頭で、最近成就した私たちが成就者の一番後ろだった。
そのとき、教祖が言った。
「正師を一番前にしなさい」
今回成就した「正師」が古参の師と交代して最前列に座った。信徒時代からあこがれていたアーナンダ師やシャンティー師より前に座ったのだ。そのときの気持ちを、私はとてもよく覚えている。陶酔というのだろうか「私はやった」「彼らより上だ」「私は正師だ」心の底から喜びがわいて、完全にプライドと高慢に陥り、師の最前列に座って世界の頂点に立ったような自分に酔いしれていた。
教祖はそうやって餌を投げては弟子たちの反応を見ていた。
こんな心の働きは、教祖でなくてもだれの目にも明らかだったと思う。正師が師より前に並ぶように言われたのは、それが最初で最後だった。「大師」が廃止されたように、やがて「正師」という称号もなくなった。

「私は成就者である」「私は上だ」と思った瞬間に落下する。成就してすぐに私は落下したのだと思う。ダラムサラで師の人格を疑った私だったが、師になったとたんに同じ穴のムジナになっていたのだ。
修行に入っているときは、エゴを抑さえ、煩悩を捨断し、グルや神々といった自分より高い存在を意識する。そういう状態でクンダリニーという原子力のようなエネルギーを使って、深い瞑想を体験していく。修行から出て自分より高い存在から意識を外した瞬間、強力なエネルギーは修行者のエゴを満足させる方向に無意識のうちに使われはじめる。分析心理学ではこの状態を「エゴ・インフレーション(自我肥大)」というが、オウムでは「魔境」といった。魔境とは修行者が無意識のうちに自分の煩悩を満たしていく状態だ。
成就、あるいは神秘体験には、このエゴ・インフレーション、魔境という状態が例外なくついてくる。それを理解していた修行者は当時どれくらいいただろうか。私はまったく理解していなかった。成就後しばらくはわからなかったが、やがて私は破滅に向かっていくことになる。
今振り返ってみれば、それは神秘世界を探求する利他心なき修行者、菩提心なき成就者に定められた運命だったと思う――


56.教勢の拡大

一九九一年夏、教祖は「救済元年」を宣言して教勢の拡大に乗り出した。
「朝まで生テレビ」(*)の宗教討論会に、教祖をはじめとするオウム真理教のメンバーが出演して注目を集めると、教祖は雑誌やテレビで多くの著名人と対談するようになった。私はカメラを携えて教祖に同行していた。
マスメディアに登場しても教祖の態度や話す内容は変わらず、ビートたけし氏と対談するときの教祖は弟子や信徒さんと話すときとまったく同じだった。ビートたけし氏の方はといえば、教祖と対面して少年のようにはにかんだ笑顔を見せて、「いいよなあ…」「なんか、いいよなあ…」と一人つぶやいていた。(*)
「たけしって、まるで弟子みたい。誰か入信案内しに行けばいいのに」
私はファインダーをのぞきながら「いいよなあ」を連発するビートたけし氏を見て思った。
山折哲雄氏との対談では、教祖が太っていることに氏がやんわりとふれた。高名な宗教学者でも「痩せたヨーギーより、ふっくらとした(代謝が落ちた)ヨーギーが尊い」という見方を知らないんだなあ…と意外に思った。宗教学者は宗教について論じるが、瞑想して宗教的な体験をしているわけではないし、まして大勢の弟子を指導して体験させるわけでもない。私は撮影をしながら「宗教学者と宗教家は別次元なんだな」と思った。
この時期、中沢新一氏、島田裕巳氏、荒俣宏氏などとも対談し、教祖は宗教家として脚光をあびるようになった。秋の学園祭シーズンには、東京大学、京都大学、北海道大学、東北大学、大阪大学、横浜国大、千葉大学、名古屋大学、信州大学、東京工業大学、気象大学など、全国の主要な大学で講演をおこなった。テレビの影響もあって、講演会には大教室に入りきらないほど多くの学生が押し寄せた。私は教祖の説法を聴きながら、ちょっと不満に思っていた。
「こんなに大勢の学生の前なんだから、冗談の一つでもとばしてもっと若い人にウケることを話せばいいのに」
いつものように教祖の講話の内容はいたって真面目で、仏教真理と修行と解脱について学生にもわかるたとえを織りまぜながら話していた。

九一年から九三年、日本のバブル経済が崩壊していくとき、オウム真理教は教勢を拡大していった。多くの著書の出版、「死と転生」「創世期」などダンス・オペレッタの全国公演(*)、マンガやアニメーションの制作、歌曲の作詞・作曲など、教祖が先頭に立ってマハーヤーナ(大乗)的な活動が盛んに行われ信徒数は飛躍的に伸びていった。海外ではロシア支部の開設、オウム真理教オーケストラ・キーレーンが結成され来日コンサートを行った。
長い髪とヒゲ、赤紫色のクルタを着て仏教真理を語る教祖を、なぜあのとき社会は受け入れたのだろうか。出家という世間から隔絶された環境にいた私には、あの時代の空気はわからない。ソビエト連邦が崩壊した後のロシアで五万人もの信徒を獲得したように、時代が大きく動くとき、人は新しい価値観を認めるのかもしれない。


(*)一九九一年九月放送。テレビ朝日。
(*)ビートたけし氏とは二度の対談がある、九一年テレビタックル、翌年雑誌での対談。事件後のビートたけし氏の教祖に対する発言は否定的なものだ。(否定的ではなかったというご指摘をいただきました。コメント欄をご参照ください)
(*)「死と転生」は死後のバルドを歌と踊りで表現した舞台。ロシアとスリランカでも上演された。「創世期」は仏典に描かれた宇宙の創世を、歌と踊りとアニメーションで表現した舞台。




57.聖地巡礼

九一年から九二年にかけて、教祖は頻繁に海外の「聖地」を訪れた。教祖にとっての聖地は、ブッダゆかりの地とブッダの教えを今なお実践しているところで、ブッダの国インド、テーラヴァーダ仏教のスリランカ、チベット密教のチベットやブータンなどだった。これらの旅に私はカメラマンとして同行した。教祖と一緒にどこかへ行くことは、弟子としてはうれしいことだし、それが海外であればちょっと気分は高揚する。しかし、普通の観光旅行とは違って、経典を探し買い集めたり、聖地を巡礼して修行をすることが目的で、街を散策して美味しいものを食べたり、買い物をしたりするような自由時間はもちろんなかった(そもそもサマナに自由時間はないのだが)。

ブッダゆかりの聖地を調査するインド旅行でのことだ。ブッダの生誕地といわれているルンビニーを訪れたとき、教祖は「ここは違うな」と言った。
「聖地というものは独特なヴァイブレーションがあるものだけど、ルンビニーに関してはそれがなかった。仏教は心の教えだから聖地だと思って礼拝すれば効果があるのは事実だが…」
ルンビニー全体の霊的なヴァイブレーションを感じ取っての発言だった。
ブッダが悟りをひらいたブッダガヤー、雨期に滞在したサヘート、晩年修行をしたギッジャクータ山などを訪ねては、教祖はその場にふさわしい説法をし、全員でストゥーパを礼拝し、花や果物やお香、そして歌や踊りを供養した。
旅の終わりに訪れたのはクシナーラーだった。ブッダはこの地で病に倒れ入滅したとされているが、クシナーラーのどこだったのか詳細は不明だった。教祖はブッダが入滅するときのエネルギーは特別なものだから、時間を超えて今でもその場所に残っているはずだと考えていた。クシナーラーに着いたのは夕方だった。食事をすませると、どうやら説法もないようだったので、旅の疲れがたまっていた私は部屋に入るなりベッドに倒れ込んで眠ってしまった。そして、夜中に大声で起こされた。
「尊師が今からブッダの入滅ポイントを探しに行かれるから。急いで! カメラを持って、懐中電灯を忘れないで!」
私は眠い目をこすりながらつぶやいた。
「やれやれ、またか…」
昼も夜も関係なく、いつも突然動き出すのがオウムだった。なにがはじまるのかよくわからないまま、とにかく私はカメラバッグをひっさげて部屋を出た。
こうして深夜を過ぎてから、人家の明かりも街灯もないインドの田舎で、二千五百年前にブッダが入滅したポイントを探しに出かけることになった。
教祖は自分の体にロープを巻きつけて高弟にそれを引かせ、杖代わりの竹刀を持って、真っ暗な夜道を三十人ほどの一団を引き連れて歩いた。仏典翻訳チームのヴァンギーサ師が、『大涅槃経』の訳文を読み上げて入滅前後のブッダの足取りを伝える。教祖はそれを聞き、話し合いながら歩き、やがてある地点で歩みを止めた。
「この辺だねえ。ここは真昼間みたいに光が強いねえ…」
意識のなかでなにかを探っているような表情で、教祖はしばらくそこにたたずんでいた。
そして、弟子たちが見守るなか、右脇腹を下に右手を枕にして頭をのせ、ブッダが入滅したときと同じポーズをとって、道の真ん中に長々と横たわった。
「ここだ」
この決定的な瞬間に、みんなは懐中電灯で教祖を照らし出して「写真! 写真!」と言った。私は真っ暗闇のなか、ぼんやりとした懐中電灯の光しかない最悪の撮影条件のもとで写真を撮らなければならなかった。「真昼間みたいに光が強いといわれても、ねえ…」と言いたい気持ちをおさえて、一台のカメラは超高感度フィルムで、もう一台はフラッシュを使って「とてもじゃないけど写真にならないよねえ…」と半ばやけくそになりながら撮影した。みんなは素晴らしい瞬間に素晴らしい写真が撮れると信じているようだったが、私は暗闇で教祖が腕枕をして寝転んでいるだけの、ずいぶん間の抜けた写真になるだろうと思っていた。

次の日、供養を担当しているサマナと教祖が示した場所に行ってみると、そこは車が砂ぼこりをまいあげて走っていく幹線道路の真ん中だった。暗闇の中で探しあてたブッダの入滅ポイントは、今はあっけらかんとした日常のなかにあった。乾いた道路の土、通り過ぎる車の大きなエンジン音、その向こうには牛が草を食むのどかな風景が広がっている。そして、私の脳裏には暗闇の中で静かに横たわっている教祖の姿――ここは二千五百年前にブッダが大涅槃(ねはん)した場所なの? 現実と遠い過去が交錯して、なんとも不思議な感じがした。
道路の真ん中では供養のしようがないので、道の端で花と果物と踊りの供養をすることになった。夜と違って日光のもとで撮影できるのはありがたかったが、ファインダーをのぞいて見るその場所に神聖なものはなにもなかった。ブッダ入滅のヴァイブレーションを感じ、見ることができなければ、そこはただのほこりっぽいインドの田舎道にすぎなかった。


(*)経典にはブッダの四つの聖地を巡礼する利益が書かれている。四つの聖地とは、ブッダ生誕の地ルンビニー、悟りをひらいた地ブッダガヤー、初めて法則を説いたサールナート、そして入滅の地クシナーラー。
(*)教祖は信徒とブッダとの縁が深まるようにインド巡礼ツアーを企画し、三百人を越える規模でインドやスリランカへの聖地巡礼ツアーが行われた。
(*)現在の「マハー・ニルヴァーナ・ストゥーパ」のある場所がブッダ入滅の場所であるという考古学的な証拠はない。




58.ワークと仕事

ブッダゆかりの地の調査から帰国すると、教祖は聖地で「頭陀修行」をするために、四十名ほどの弟子を連れて再びギッジャクータ山へと向かった。
七月はじめのインドの気温は四〇度を越え、湿度は日本並みという過酷な暑さだった。
「頭陀修行」は、宿泊していたバンガローからギッジャクータ山までの六キロを経行(きんひん)し、山頂で、お香、果物、歌、踊りの供養、合い間に説法を聴いて、夜間から早朝にかけて瞑想修行をするというものだったが、私は修行に来ているという意識はまったくなく、取材班として良い写真を撮ることしか考えていなかった。日本では、教祖を撮影する機会は支部で説法しているときしかなく、いつもぱっとしない室内写真しか撮れなかった。でも、海外なら教祖も行動的になり、さまざまな表情が撮れる。なにより太陽光の下で異国の風景を背景にして自由にカメラが向けられるのだから、良い写真が撮れるチャンスがあるはずだと思った。
バンガローに着いて修行がはじまると、すぐに私が思い描いていた修行イメージとは違うことに頭を抱えた。まず、帽子がいけない。炎天下の経行に必要なのはわかるが、一行がかぶっている白い帽子は被服班が手作りしたもので、つばに張りがなく、汗をかくにつれてどんどん垂れ下がってきて顔が隠れてしまうのだ。その姿はとても写真にならない。そして、初日はどしゃぶりの雨が降ってきて、濡れて垂れ下がった帽子とTシャツ姿のメンバーは、「聖地での修行」というイメージにはほど遠いものだった。
「写真、どう?」
スッカー師が写真がうまく撮れているか心配して聞いてきた。
「うーん。現像してみないとなんとも言えませんが…どうもこれというものが…」
経行する姿、ギッジャクータ山に登って山頂で供養する姿、説法を聴く弟子たち、私はいろんな角度から一行の修行をひととおり撮っていたが、それだけではなにか物足りないような気がしていた。
「全体を俯瞰するような絵が一枚ほしいんです。だからギッジャクータ山の隣の山、あそこへ登って山頂で修行している様子を上から撮りたいんです」
私は隣の高い山を指差して言った。
スッカー師はちょっと面食らったようだった。ギッジャクータ山では、いつ説法がはじまるか、いつイニシエーションがはじまるかわからない。だから、ずっと教祖の側にいなければと思うのが普通の弟子なのだが、そのときの私は撮影に没頭していて、教祖も被写体でしかなかった。
「あの隣の山に登って撮ってきます。この状況を一枚で説明できる写真が、どうしても必要だから」
そう言うと、スッカー師は渋々許可を出した。私は重いカメラバッグを肩にかけて隣の山へと続く道を一目散に駆け登って行った。
息を切らしながら三十分も登っただろうか、木々が途切れて少しひらけた場所に出たので、下をのぞいて見ると、案の定そこからギッジャクータ山の様子が手に取るように見えた。
「わぉ…」
大勢の白いTシャツを着たメンバーのなかにピンクやオレンジ色のクルタを着ている人もちらほら見える。その中心に、白い帽子をかぶって赤紫色のクルタを着た教祖の姿が指先ほどの大きさにはっきりと見えていた。
「やった! これこそ求めていた一枚だ…」
私は眼下に見える教祖と弟子たちの一団を広角レンズで数枚撮った。
「山の周囲は潅木が広がっている緑の原野だったんだなあ…」
ギッジャクータ山では、教祖の一挙手一投足を気にかけていたので、周囲の風景が目に入らなかったのだろう。でも、ここからは全体が実によく見えた。私は自分の目のつけどころの鋭さに内心にんまりとしながら、しばらくみんなの様子を見下ろしていた。動きはあっても声は聞こえてこなかったので、教祖と弟子たちが何だかとても遠くに感じられた。
そして、急いでギッジャクータ山へ戻ると、しばらくしてスッカー師は教祖にこう言われた。
「これから全員バンガローへ戻るが、取材班だけここに残って夜の瞑想時間まで荷物番をしなさい」
昨日は荷物番を残すことはなかったのだから、修行者意識のない取材班を教祖がわざと山に置き去りにしたのは明らかだった。古参のスッカー師はすぐにグルの意思を外してしまったことに気づいてがっくりと肩を落としていたが、私は絶対に必要だと考えていたイメージどおりの写真が撮れたことに大いに満足していた。

自分の価値観でワーク(奉仕)をしてもエゴは落ちない、グルの意思を考えながらワークをすればエゴから離れる。教祖は弟子がどういう意識でワークをしているのかをよく見ていた。私は良い写真を撮ろうと努力したことを今も後悔していない。良い写真が撮れたからといって、給料が出るわけでも、ほめられるわけでも、私の名前が写真に載るわけでもない。でも、純粋な思いで仕事をしていたら、いつかきっと純粋なものへと導かれるのではないだろうか…。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。