34.総選挙

一九八九年十月に出家した私が、最初に経験したイベントは「総選挙」だった。
出家した弟子にとって選挙は思いがけないことだから、教祖は富士のサマナを全員集めて意思を確認した。その一部始終がビデオ撮影され、私のように討議の後に出家したサマナにも経緯がわかるよう、道場で大きなスクリーンに映して観る機会が設けられた。
選挙に出る大きな理由は、一つでも議席を獲得して政治的な影響力を持てば、なかなか認可が下りないオウムの病院や学校の建設が実現し、マハーヤーナ(大乗)の救済が進むということだった。同じ年に「被害者の会」の親が政治家に働きかけて、オウム真理教の宗教法人認証が遅れたことも影響しただろう。
「オウム真理教は君たちと私によって成り立っている団体だから、君たちの意向を無視するわけにはいかない。半数以上が宗教は宗教として純粋に救済すべきだと考えるなら、それでもいいと考えている。多数決によって選挙に出るか出ないかを決めたいと考えています」
教祖は、賛成・反対両方の意見を堂々と述べるように言った。
サマナは、賛成・反対の意思を起立して表明し、それぞれの立場から意見を述べることになった。教祖の意向が出馬にあったので、賛成百二十名、反対五十四名と賛成派の数が多く、賛成派は「グルがそう言うのだから何が何でも賛成だ」と言わんばかりの勢いで意見を述べた。
一方、反対派は、今飛躍的に伸びている宗教活動に集中する方が、結果的に早く救済が進むという主張だった。両方の意見を聞いて、賛否の人数を確かめることを繰り返すうちに、賛成派が大多数を占めるようになった。反対意見を翻さなかったマイトレーヤ大師が、「大多数が出馬に賛成している以上、賛成意見の立場に立って、成功するように全力を尽くすべきだ」と言うと、最終的には全員が賛成にまわり、出馬することが決まった。教祖は選挙について機関誌にこう綴っている。
「透明な、飛躍に富んだ未来を、もし君たちが考えるとするならば、ここで私たちは宗教という観念から離れなければならない。大切なことは実践である」

このような討議をへて、オウムは「真理党」を結成し選挙戦に突入した。
東京23区を中心とした選挙戦で、信徒とサマナは、ビラ配り、ポスター張り、電話かけ、街頭パフォーマンス、宅訪(各家を訪ねて投票をお願いする)などを極限で行った。
選挙用のさまざまな出版物を作るために富士の編集にいた私も、最終局面の総動員戦では東京に召集されて、電話かけや街頭でガネーシャ帽(ゾウの頭の帽子)をかぶってビラ配りなどをした。最初から長期間にわたって選挙バクティをしていた信徒・サマナは、見るからにぼろぼろで疲労困憊していた。
「どんな極厳修行より、選挙のときのバクティの方がきつかったよね」
修行の猛者がそう振り返っていた。
しかし、そこまでしても結果は全員落選という惨敗だった。
選挙の結果について教祖は、「投票箱のすり替えがあった」と言って、裏工作があったことを匂わせ、実際に投票した人の数を調査するよう命じたが、「投票した」「投票しなかった」ということを明言してくれる人は少なく、調査はうやむやになった。
私は「そんなばかなことがあるわけがない」と思った。でも、「そんなばかな」「まさかそんなことが」と一瞬考えても、声をあげて異をとなえることもせず、教祖に不審の目を向けることもなかった。「投票箱のすり替えなんて、ばかげている」と思うなら、そんなことを言う教祖は「ちょっとおかしいのではないか?」と、なぜあのとき考えなかったのだろう。
おそらく、「解脱・悟り」「救済」という大きな目的の前では、「あれ?」っと思う小さな疑問や、なんとなく抱く違和感をスルーしてしまうのだろう。
そして、次々と大掛かりな活動が指示され、神秘的な体験をともなうオウムでは、ささいな“ほころび”のようなものに目を向けて、立ち止まって考えることはできなかった。それが積もり積もっていけば、現実から大きく乖離することになるだろう。


*選挙活動をした1989年、2月田口修二さん殺害。11月坂本弁護士一家殺害。


35.ステージ制度

当時、「レインボー・ステージ」というステージ制度があった。
サマナは「ブフー」からはじまる六段階のステージ(1)、その上に「ラージャ・ヨーガ」からはじまる六段階の解脱のステージがあり、これら十二のステージの上に、教祖が到達した「最終解脱」があった。
各ステージには、修行内容や食事回数、睡眠時間、あるいは次のステージへの指針が定められていて、例えば、第一段階のサマナは一日二食で五時間の睡眠、第五段階以上は一日一食で三時間の睡眠とされていた。ただ、それはあくまでも一つの目安であって、すべて自己管理に任されていたから、調子が悪いと言って一日寝ている人や、どこかへ行ってしばらく姿を見せない人など、いろいろだった。
解脱の六段階のステージは以下だった。

第一ステージはラージャ・ヨーガ「意思のヨーガ」。称号は「スワミ」サマナ服の帯の色は黄色。
第二ステージはクンダリニー・ヨーガ「生命エネルギーのヨーガ」。称号は「師」白いクルタを着用。
第三ステージはマハームドラー「ジュニアーナのヨーガ」。称号は「正悟師」ピンク色のクルタを着用。
第四ステージは慈愛の「大乗のヨーガ」。称号は「正大師」緑色のクルタを着用。
そして「報身のヨーガ」「コーザル・ヨーガ」の六段階と「最終解脱」。

ラージャ・ヨーガを成就するとホーリーネームが与えられ、ステージが上がるごとに称号とクルタ(制服)の色が変わっていく。ただし、クンダリニー・ヨーガ以降の成就の道はなかなか険しく、弟子が到達した最も高いステージは第四段階の「大乗のヨーガ」で六人だけだった。(2)
私がいた富士道場の中二階には、マチク・ラプドゥンマ(チベット密教の聖者)、マハーカッサパ(ブッダの弟子)、パタンジャリ(ヨーガ根本教典の編纂者)、サラスヴァティー(弁才天)、ヴァンギーサ(ブッダの弟子)などという、聖者や神様のそうそうたるホーリーネームを持つクンダリニー・ヨーガの成就者たちがいた。
あるとき、彼らが一緒に話していると、そのまわりが光輝いて見え、「成就者って神様みたい…」と驚いたことがある。
古参の成就者は、厳しい修行を乗り越え、戒律を守り、ワークに優れ、リーダーとしてサマナの手本になっていたから、当時のステージ制度はうまく機能していたと思う。
このようなステージ制度のなかで、多くのサマナは日々のワークで功徳を積みながら、「早く極厳修行に入って成就するんだ」という明確な目標をもって生活していた。

(1)サマナの六段階は「ブフー」「ブハー」「スワハ」「マハー」「ジャナー」「タパー」(1990年頃まで)。
(2)「大乗のヨーガ」成就者は、ウマー・パールヴァティー・アーチャリー正大師(三女)、マハーケイマ正大師(石井久子)、ヤソーダラー正大師(妻・松本知子)、マイトレーヤ正大師(上祐史裕)、マンジュシュリー・ミトラ正大師(故村井秀夫)、ミラレパ正大師(新実智光死刑囚)。

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36.あちら側とこちら側

富士山総本部道場の道路を隔てた向かい側には、富士宮農協の簡素な売店があった。
ある日、その店の駐車場でオウムに子どもを奪われたと主張する「被害者の会」の親が十数人ほど集まって、拡声器を使って子どもの名前を呼んでいた。どうやら弁護士らしい人物が主導している様子だった。
やがて総本部道場に向かって、こぶしを上げて「子どもを返せ!」「子どもたちを返せ!」というシュプレヒコールがはじまった。
父親や母親たちは、拡声器をまわしてかわるがわるわが子の名前を呼んでいたが、そのうちに用意してきた野外用グリルに火をつけて、鉄板でバーベキューをはじめた。そして、こちらに向かって呼びかけてきた。
「おいしいわよー。食べにいらっしゃーい」
「肉も食べなきゃ、身体をこわすよー」
「焼きそばもあるよ、出てきて食べなさーい」
私は二階道場の窓からときおり駐車場を眺めていた。
煩悩(欲望)と闘おうとしている子どもに対して、親たちは「修行なんかやめて、こっちに来ておいしいものを食べなさい」と呼びかけている。その場にいたサマナや、騒ぎを聞きつけてわざわざ見に来たサマナで窓際はいっとき人だかりができた。なかには「うちの親、来てるよ…」とつぶやいて苦笑いを浮かべているサマナもいたが、ほとんどは一瞥してすぐにまたワークに戻っていった。
まだオウムの生活に馴染んでいなかった私でさえ「それはちょっと違うんじゃないか…」と思った。修行のために質素な食べ物を選んでいることがわからないのだろうか。バーベキューのおいしそうな匂いにつられて、餌に引き寄せられる動物のように子どもが建物から出てくる、家に帰ってくると、本気で思っているのだろうか。
あちら側にいる親とこちら側にいる子どもを隔てているのは、たった一本の道路だった。でも、そこにはとうてい埋めることのできない深い溝があるように思えた。
当時はバブル経済絶頂期、欲望がどんどん膨らんでいた日本社会のなかで、オウムは徹底的に煩悩を否定する教えを説いた宗教だった。今思えば農協の駐車場のあの光景は、「親と子ども」「社会とオウム」の決定的な対立と断絶を象徴していたのかもしれない。



37.過去世とカルマ

編集部のワークは、教祖の説法を忠実に文字に起こし流布することが中心で、自分の考えで書くということは許されず、常に教祖が説く法則にそった記事が求められた。
私は内心「書きたいことが書けないのはつまらない」と思っていた。
社会生活では、自分を表現するのはごく普通のことだが、修行者がそうすることは「エゴだ」と言われ認められなかった。やりきれなくなった私は、ワークをボイコットして車の中にたてこもったこともある。そのまま運転して現世に帰ってしまえばいいのに、泥だらけでぬかるんだ駐車場まで、教祖がわざわざ様子を見にやってくる姿を見たら、いろんな感情が混ざり合って涙が出て止まらなくなった。
サマナとして半年が過ぎて、オウムにも教祖にも特別不満はないのに、帰依することにつまずいたままの私は、どうしようもない息苦しさと居心地の悪さを感じていた。

ところで、『サンデー毎日』の記事以来、オウムウォッチャーと呼ばれる人たちがマスメディアに登場して、オウム批判を繰り広げるようになった。そのなかに江川紹子さんという女性ジャーナリストがいた。週刊誌に掲載されていた江川さんのオウムを批判する発言を読んでいるとき、突然ひらめいたことがあった。
「江川紹子さんが今やっているようなことを、過去世でやっていたのかもしれない…」
オウムと縁はあっても、なかなか帰依できない自分のカルマには、そういう過去世がぴったり当てはまるような気がした。
「私って、過去世で江川紹子のような人だったのかも…」
実は、対象を批判することも称賛することも、対象との縁が深まるという意味では同じなのだ。憎みあった者同士が、来世夫婦になるという転生談はよく聞いていた。もし過去世で私がある宗教を激しく批判したら、その縁によって今生同じような宗教と出合って、素直に信じることができずにあら探しばかりしている、という可能性は十分考えられた。
本当にそう思えたので、編集の師に「過去世で江川紹子だったような気がする…」と言ってみた。オウムウォッチャーたちを天敵のように思っていた上長は、さすがに「そうかもね」と同意はしなかったが、私の顔をじっと見て、それを否定もしなかった。

第一段階のラージャ・ヨーガの修行に入る前、私は大揺れにゆれていた。富士で行われた教祖の説法が終わり、いつもの質問の時間になった。
「どうすれば極厳修行に入れてもらえますか」
説法に関係ない質問をしてしまうほど私は追いつめられていた。
そのとき教祖はこう言った。
「心にさみしさがあるからね。さみしさがあるから、出家も遅れた」
追いつめられていたからか、あるいは教祖の言葉が真実を言い当てたからか、「さみしさ」という言葉が胸に深く突き刺さったように涙があふれ出してきた。自分のこの反応に私は狼狽し、すぐに強く打ち消した。
「だれだって、人はさみしいもの。さみしさを抱えて生きているのは当たり前のこと。たとえ私にさみしさがあったとしても、それは誰もが同じだから、言い当てられたわけじゃない」
私はそう思いたかった。そうではないだろうか? 
しかし、「悲しみがある」でも「憂いがある」でもなく、教祖は私に「さみしさ」という言葉を投げかけた。こみ上げてくる涙は止まらなかった。
修行に入りたいという訴えが功を奏したのか、私は富士道場で行われる七日間の「懺悔(ざんげ)の詞章と蓮華座の極厳修行」に入るように言われた。
このとき修行に入っていなかったら、私はオウムを去っていたと思う。


38.スワミになる

「懺悔の詞章と蓮華座の極厳修行」は富士の二階道場で行なわれた。百人ほどのサマナが祭壇の前からサマナ番号の順番に整然とすわり、一人畳一枚分のスペースが与えられた。
「懺悔の詞章」は、オウムの詞章のなかでは一番長いもので、原稿用紙にして三枚ほどある。修行者は、蓮華座(結跏趺坐)を組んですわり、譜面台を立てて、B四判の一枚の紙に二段組みで印刷された詞章を、声に出してできるだけ早く正確に読む。昼の供養(食事)と「究境の瞑想」(意識を広げる瞑想)の時間以外はずっと詞章を唱え続け、その修行が七日間続く。
正面に置かれた大きなスピーカーから、詞章を唱える教祖の音声が大音響で流れてきて、いよいよ極厳修行がはじまった。

修行が二日目に入ると、読んでいる詞章の白い紙の上にちらちらと光が見えはじめ、やがて、ブルー、ピンク、グリーンのきれいな光の帯があらわれるようになった。
「まぼろしを見ているのかな?」
目を開けたままで光が見えるのが意外で、何度も目をこすってみた。
「これが光を見るということなのかな?」
鮮やかな蛍光グリーンの光がよく見えていたが、「光を見たからって、それがどうしたの?」という感じだった。
三日目を過ぎると座法を組んだ足が痛くてたまらなくなった。組みかえ組みかえ誤魔化していたが、そのうちに三十秒も組めなくなってしまった。足のどこが痛いというのではなく、足全体がじんじんしびれるように強烈に痛かった。
修行監督がやってきて、とんとんと竹刀の先で床をたたいて言う。
「しっかり蓮華座を組んで」
座法がまったく組めなくなって、また外していると、とんとんと床をたたかれ「蓮華座!」と言われる。
「うるさいな。痛くて組めないんだってば!」
ものすごい怒りが出てきて、むかついて、監督の師を睨みつけた。
修行中に出てくる足の痛みや嫌悪・怒りの感情は、「地獄のカルマ」の解放だと言われていた。足がひどく痛むのは、臍から下に向かって流れている気(アパーナ気)が強まり、意識が足に集中しているからだ。蓮華座をしっかり組み続ければ、下方に向かう気の流れが撤退し、痛みと嫌悪と怒りの感情も消えて、地獄のカルマは一旦切れる。

三日、四日と単調な修行を続けていると、七日目には、私の身体は一本の上昇する太い気の柱に包まれて、強い力で全身が固定された。そして、頭上になにかがあり、それが降りてくるような感じがした。
「光だ」と思った。
エネルギーの塊のような球体が頭上にあって、そこから光が今まさに降りてくる予感がした。私の身体はますます固定され背筋は弓なりになっていた。
「もう少しだ」と思った。
すぐそこに光があって降りてくるはずなのに、なぜか降りてこない――。
そこで私の極厳修行は終わった。「おかしいな、だれかに止められた?」と思った。
いったいだれに止められたのだろう。「グルだ…」と、なんとなく思った。

七日間の極厳修行は終わり、修行中の体験を書くように言われた。私は詞章を読みながら見ていた光、意識の変化、強い気の柱に固定されたことを書いて提出した。終わってみると、一週間眠らないで極厳修行をやり遂げた充実感、身体が軽くなってエネルギーが強まった感じはしたが、「成就した」という実感はなかった。
「あの光が降りてきていたら、成就なのかもしれないな…」
そう残念に思っていたら、私はラージャヨーガを「成就した」と判定されて、成就者の印である黄色い帯とホーリーネームをもらって「スワミ」となった。
うれしいようなちょっと物足りないような思いだった。期待した成就体験でなかったのは、第一段階のラージャ・ヨーガだからだろう。最後に光に包まれたならクンダリニー・ヨーガの成就となり、そのとき私が望んでいる「解放」がやってくるのかもしれない。
そう思った私は、次のクンダリニー・ヨーガの成就を目指そうと、再びサマナ生活に向かうことにした。

*通称「懺悔の詞章」は、正式には「ヴァジラヤーナの懺悔の詞章」である。
*第一段階のラージャ・ヨーガの成就は、宇宙を構成する三つのエネルギー(ラジャス・タマス・サットヴァ)の光、赤・白・青を霊視することとされていた。

【追記】
「ヴァジラヤーナの懺悔の詞章」は、潜在意識に深く入る強烈な詞章として恐れられてもいた。「あれを唱えると、カルマが解放しすぎて大変なことになるから…」と言って、唱えるのをやめた人もいたほどだ。極厳修行中も、詞章の文字がまったく読めなくなる人や、言葉がぜんぜん出てこなくなる人がいた。大きなスピーカーの前に立って、スピーカーに耳をくっつけていぶかしげな表情をしている人もいた。
「なにしているの?」
不審に思った修行監督が近づいてたずねると、
「いったいどうして、ここから落語が聞こえてくるんでしょうか…?」
大真面目な顔で何度も「なぜ、落語が…」とつぶやいている。流れてくる詞章がどうしても落語に聴こえるので、スピーカーまで確かめに来たらしい。潜在意識に突っ込んだときに人はどうなるか、ということがよくわかった。
「懺悔の詞章」が素晴らしい修行だったことは間違いないと思う。


39.専属カメラマン

ラージャ・ヨーガを成就すると、写真を少し学んだことのある私に「今後は尊師の写真を撮るように」という指示があった。それまで教祖の写真は、デザイン班の古参の成就者マハーカッサパ師が撮ってきた。エネルギーに敏感なオウムでは霊的ステージを重んじ、たとえば教祖の椅子に触れていいのは「師」以上、というようなステージの違いによる禁忌があった。カメラマンは被写体に意識を集中するので、被写体の教祖との間で自然にエネルギー交換が起きてしまう。そのためステージの高い成就者が撮影するのがオウムの常識だった。
「スワミなのに、本当に私が撮ってもいいのかなあ…?」
ワークの指示を聞いて、私はちょっとびっくりした。
「がんばって功徳積んでね」
指示を伝えてくれた師は自分のことのように喜んでくれた。
「でも、尊師が私をカメラマンに指名したんだよね…」
そう思い直し、私は気を引き締めて新しいワークに取り組むことにした。

こうして「尊師説法会」の撮影、教祖と信徒さんが一緒に写真におさまる「永代帰依祈願」というイニシエーションの撮影のために、私は北は札幌支部から南は那覇支部まで、撮影機材を積み込んだ車を運転してどこへでも行った。
支部では、機関誌に必要な信徒さんの体験談を集め、支部活動の様子を取材した。なかでも欠かせない仕事は、「ダルドリーシッディ」という蓮華座を組んだままで自然に跳び上がる信徒さんを撮影することだった。
ダルドリーシッディは、「空中浮揚」の前段階といわれ、修行で身につく六つの超能力(六神通)のなかで、唯一目に見える超能力だ。修行で身につく超能力をアピールするために、機関誌の口絵に信徒さんのダルドリーシッディの写真を毎月欠かさず掲載していたので、ダルドリーの写真はある程度撮りためて、各支部の信徒さんを満遍なく取り上げるようにしていた。
「今度、高知支部へ行きますが、そのとき信徒さんのダルドリーの写真を撮りたいのですが」
「わかりました。三、四人集めておいたらいいですか?」
前もって電話で依頼しておくと、支部ではダルドリーシッディが起こっている信徒さんたちに声をかけて集めてくれた。
ダルドリーシッディは、激しい入出息をともなう呼吸法で息を止めている(クンバカ)とき、突然ぴょんと跳び上がる。ドンドン、ドンドンと数回激しく跳びはねる人もいた。そのころ、私はまだダルドリーシッディを経験したことがなかったので、たくさんの信徒さんが跳びはねる姿を撮影しながら思っていた。
「こんなにたくさん、しかも新人でもダルドリーが起きるなんて、やっぱりオウムは普通じゃないな…」
オウム全体では、おそらく何百人もがダルドリーシッディを経験している。
こうして全国の支部をまわり、さまざまな撮影をすることは、富士で説法のテープ起こしをするより忙しく、「自分はオウムとは合わない」などと考えている暇はなくなった。
写真を撮るワークは私に合っていた。教祖についていろいろなところへ行きながら、私はいつも撮影者という傍観者でいられて、「帰依している」「帰依していない」ということを考えなくてもよかった。

写真を撮り始めて二年目だったろうか、インドに行った。
海外の聖地を訪れると、教祖はその場に合わせた説法をした。日本では聴いたことのない内容の説法も多く、弟子は一言一句聴き逃すまいと必死にメモをとっていた。それが弟子本来の姿だろう。私は、もっと良いアングルはないか、太陽光線の具合い、影はどうなっているかなどと考えながらファインダーをのぞいていた。いつでもどこでも私は良い写真を撮ることしか考えていなかった。
ブッダゆかりの地ギッジャクータ山を訪れたときのことだった。
「これは秘儀的な説法だな」
そう思いながらシャッターチャンスをうかがっていると、いつもと違う思いがよぎった。
「私って、いつもファインダー越しに尊師を見ているなあ。弟子ならできるだけグルのそばに行きたい。一歩でも近づきたいと思うよね。いつも一定の距離をおいてこうして観察しているなんて、私は相当臆病で、本当の弟子とはいえないな…」
そのときはじめて、われ先にと教祖に向かっていく弟子たちを少しうらやましく思った。
「でも、純粋に、真っすぐにグルに向かって行くなんて、私には恥ずかしくてできないわ…」
一瞬の気の迷いを振り払い、私はすぐにまたシャッターを切った。

教祖の写真を、私は何万カット撮ったのだろうか――


*白いクルタを着た教祖の写真はマハーカッサパ師が撮影した。一九九〇年以降、青紫のクルタと赤紫のクルタを着た教祖の写真の多くは私が撮影した。



40.オースチン彗星

オウム事件の背景とされる教え「タントラ・ヴァジラヤーナ(真言秘密金剛乗)」は、教祖の説法を紐解いてみれば明らかだが、オウムのごく初期(一九八六年)から説かれていた。教団が最初に破壊活動を行ったのは、「神言秘密金剛菩薩大予言セミナー」いわゆる「石垣島セミナー」の裏で行われていた「ボツリヌス菌散布計画」だったようだ。もちろん計画全体を知っていたのは数人で、九九パーセント以上のサマナ・信徒は夢にも知らなかった。(1)

「今日は、君たちに重大な発表があります。サマナ全員、外国、あるいは本島から離れたところで、少し長めの修行を君たちにプレゼントしようかと考えています。一週間ぐらいの間には、オウム真理教大移動をはじめたいと思います」
ある日、こんな意外な言葉から説法がはじまった。
「これは私の予言として聞いてほしいんだけど、今太陽系を突っ切ってきている彗星、オースチン彗星が、この地球に最も近づくとき、人類に前代未聞の大きな変化が起きるはずだ。私たちはその天変地異から逃れるために、ノアの箱船にならなければならない」
教祖はサマナに向かって大災害の予言をして、パスポートのない人はすぐにとること、家族や縁のある人に連絡して危険を知らせ修行の旅に誘うように言った。
パスポートの準備をするということは海外に避難するのだろうか?
聴いていたサマナに衝撃が走った。どんなことが起こるのか、どこへ避難するのか、具体的なことはまったくわからなかったが、地球規模の一大事が起きる可能性がたかまっているので、全員避難するということだった。
「縁のある人に連絡しなさい。そのために事務の電話を自由に使ってもよろしい」
という教祖の言葉に一人のサマナが質問した。
「親に連絡してもよいのでしょうか?」
「連絡してかまわない」
サマナは、クンダリニー・ヨーガを成就するまで親族と連絡をとることは原則禁止されていたが、このときは親への連絡も許された。
翌日、富士の事務の電話にはサマナが列を作った。
「絶対に親を説得するわ」
「親は信徒なの?」
「信徒じゃないけど、なんとか説得する。死んでほしくないもの」
「私はどうしても知らせたい友だちがいるの」
大惨事から救いたい人の顔を思い浮かべて、サマナたちは真剣な面持ちで電話の列に並んでいた。私は田舎にいる両親に連絡しようか迷った。
「大きな天災が起こる可能性があって、危険だからどこかへ逃げなければならない」
教祖の予言を頭から信じたわけではないが、ここまで言うのだから万が一なにかが起きるかもしれない。「あのとき知らせていたら」と後悔するのは嫌だなと思ったが、こんな曖昧な話をして信徒でもない両親が動くはずはなかった。
私はオウムに導いた友人には電話した。
「支部でも説明があると思うけど、一週間ほどの予言セミナーがあるから参加してね」
「うーん、一週間はねえ、仕事があるしねえ」
世界を揺るがす大災害が起こるかもしれないとき、仕事があるからというのは理由にならない気がした。私は迷っている友人に言った。
「あなたがそうやって仕事に忠義を尽くしても、なにかあったとき仕事はあなたを助けてはくれないよ」
「とにかく、支部で説明を聞いて考えてみるよ」と友人は言った。

教祖の予言は全国各支部に伝えられ、支部ではオースチン彗星接近による災害から避難するためのセミナー参加を信徒に強く訴えた。一九九〇年四月、こうして信徒・サマナ約一五〇〇人が参加した「石垣島セミナー」がはじまった。(2)

(1)国民的作家の司馬遼太郎は、「オウムは宗教団体ではなくテロ集団と見なすべきだ」という発言をしたが、これは大きな間違いだ。弟子と信徒のほとんどは、事件についてまったく知らなかったから、オウム=テロ集団とは言えない。事件に携わっていたのはごく一部で、全体像を知っていた人間は更に限られていた。事件後も多くの弟子は教団関係者の犯行だと理解しがたかった。
(2)石垣島セミナーの参加人数は一三〇〇人、一五〇〇と諸説ある。早川紀代秀著『私にとってオウムとは何だったのか』(ポプラ社)によれば一五〇〇人となっている。同書に「プラント建設から外されて石垣島セミナーに行く方に回された」とあるので、セミナー現場にいた早川さんの「参加者一五〇〇人」を採用した。




41.ノアの箱船

富士にいるサマナに「出発するように」という指示が出た。部署ごとに割り当てられたバスと車に分乗して、噂ではどうやら私たちは大阪に向かうようだった。相変わらず最終目的地など詳細はわからないままだったが、サマナはいつものように疑問を抱くこともなく、車が動き出した途端みんな眠りに落ちてしまった。
大阪の港について指定のフェリーに乗り込むと、大広間のような二等客室に全国各地の信徒さんが大勢乗っていた。いったいどこでセミナーがおこなわれ、いつまで続くのか、私たちの最終目的地は外国かもしれず、もしかしたら世界の終わりがくるかもしれない――信徒もサマナも先行きのわからない状況に置かれていた。すぐにあちらこちらに輪ができて、なにが起きるのだろう、どこへ行くのだろう、どうなるのだろうと低い声で話し合っていた。
私は、信徒さんの様子を撮影しておこうと、数枚写真を撮ってはみたが、自分の意思とは無関係に目的地もわからず動かされる状況に、胸がざわつくような嫌な感じがしてすぐに撮影を止めた。そして、デッキに出たり船内の様子を見たり、話の輪に加わったりしていた。私が電話をした友人も、どうにか仕事をやりくりしたらしく参加していた。
「神言秘密金剛菩薩大予言セミナー」は、いかにも意味ありげな名前だったが、まったく中身のないものだった。フェリーで沖縄へ行き、そこから石垣島へ渡り、体育館に泊まったりテント泊をしたり、修行をしながらなにかが起きるのを待ち続け、悪天候の砂浜にやっと姿を見せた教祖の説法を聴き――そのとき空は黒い雲に覆われて強い風が吹き、たしかに終末のムードはあったが――そしてまた船と車を乗り継いで富士へ帰ってきただけだった。
石垣島の浜には、オウム真理教大移動の情報を聞きつけた記者や江川紹子さん、新聞社のヘリコプターも飛んで来て、翌日のスポーツ紙の一面には、「オウム真理教」「石垣島」「大移動」という見出しと、砂浜に大勢集まって説法を聴いている信徒の写真が大きく掲載された。

予言は当たらなかったが、帰りの船中で印象的なことがあった。行きの穏やかな船旅とは違って、帰りは天候が荒れてフェリーはひどく揺れた。気分が悪くなった私は横になっていた。大きく揺れる船のなかで吐気をがまんしていると、近くで話しているサマナの声が聞こえてきた。
「動物も連れてきたんだよ。この下、船底にね。馬がいるんだよ」
「えー、どこの馬なの?」
「オウムの馬だよ」
「えー、オウムに馬なんていたの! どうして? だれかがお布施した馬なの?」
「知らないけど、乗っているんだよ、馬が…」
「知ってる、知ってる、犬も猫もいるみたい」
「オウムにいる動物ぜんぶ連れてきたらしいよ」
船酔いの苦しさのなかで、「馬がいる」「動物ぜんぶ連れてきた」という言葉がぐるぐると回って、私の脳裏はさまざまな動物でいっぱいになった。
大きく船が揺れる。嵐の大海原を進んでいる大勢の人間と動物たちを乗せた船――それはまさに教祖が予言した「ノアの箱船」のようだった。(1)

「石垣島セミナー」は不思議なセミナーだった。
一五〇〇人もの信徒・サマナ、そして馬や犬や猫まで大移動したが、予言された天変地異はなにも起こらなかった。それなのにセミナーのあと五〇〇人もの信徒が出家した。これはいったいどういうことだろう? 石垣島セミナーは、スポーツ新聞が一面で大きく取り上げたため、その期間職場を休んだ信徒は嘘がばれて出家するしかなくなったという説もある。でも、予言が外れたのだから教祖に不信を抱いて離れていくのが普通の感覚ではないだろうか。
選挙での大敗と投票箱すり替え陰謀説。
オースチン彗星接近による大災害の予言が外れたこと。
私たちはこのような現実に直面して「あれ?…」と思うことはあっても、なぜかその疑問を突き詰めることはなかった。現実に基づいて考え、自分の意思で判断する力は非常に弱くなっていたといえるだろう。私は、石垣島セミナーのあと出家した友人に聞いてみた。
「考えてみるとよくわからないんだけど…なぜ、石垣セミナーのあと出家しようと思ったの?」
「あのセミナーはおもしろかったね。いい大人が大勢で、何をするのかも、どこへ行くのかもわからずにフェリーに乗っているんだから。そんなこと現実にはありえないでしょう。行き先のわからない船に乗っていると、現実にかかえている問題が遠い世界のことのように思えてきて。それまでにも価値観は変化してきてたけど、『出家したい』とまで思えなかったのね。でも、石垣セミナーに参加して、最後の糸が切れちゃったんだろうね。日常の何もかもが色あせちゃって、元の現実に戻ることのほうがよほど不自然で、むなしいと思った。ハルマゲドンの話もあったけど、やっぱりみんな、心では解脱と悟りを求めて出家したんだと思う。出家の動機はいろいろあったにしても、解脱と悟りを求めていない人は一人もいなかったと思う」

(1)石垣島セミナーには五頭の馬と犬や猫を一〇トントラックに乗せて連れて行った。馬は血清を作るために購入され富士で飼われていたものだった。セミナー中ずっと動物の世話をしていたサマナもいた。
オウムは、教義においては仏教を信奉して修行していたが、教団活動の根底にはハルマゲドンやキリストの登場など、聖書の神話が息づいていた。


42.シャンバラ精舎

石垣島セミナーが終わるとすぐに、教団は熊本県波野村に十五ヘクタール(東京ドーム約三個分)の土地を入手して、「シャンバラ精舎」を建設することになった。
「シャンバラ」とは、チベット密教の理想の仏国土の名前だ。オウムにはもともと「日本シャンバラ化計画」という日本全国の主要都市に支部を持つ計画や、「ロータスヴィレッジ構想」という仏教に基づいた理想郷を建設する計画があったので、いよいよオウムの街の建設がはじまるのかと思った。
シャンバラといえば、教祖が作曲した「シャンバラ・シャンバラ」という曲もあった。静かな瞑想曲が多いオウムの音楽のなかで、めずらしくアップテンポでリズミカルな曲調からは、荒々しい神々の動きによって翻弄される人間の姿がイメージされる。そして、シャンバラ精舎の建設は、やはり平穏な仏国土とはかけ離れたものだった。波野村を乗っ取られるのではと危機感を抱いた村民は、激しい反対運動をくりひろげ、右翼や暴力団を雇って建設を妨害し、地元警察は隙あらばサマナを逮捕しようと待ち構えていた。電気・水道・ガスなどのライフラインが村民の圧力で使えないなかで、火山灰の原野を開墾して造成するという過酷なワーク。そこに送り込まれたのは、石垣島セミナー後に出家した多くの新人だったので、耐えられずに逃げ出す人も少なくなかった。

同じ頃、教祖はパーリ語仏典の翻訳に力を入れはじめていた。
最初は『阿含経』など北伝の経典翻訳を試みたが、どうもブッダ本来の教えとは思えない内容だったらしい。そこで、南伝の経典を翻訳することに決めて、編集部から多くの人材が経典翻訳部門へまわされ、『南伝大蔵経』をパーリ語の原典から翻訳するチームが結成された。教義編纂の中心だった編集部から主要な人材を投入するほど、教祖は原始仏典の翻訳を重要視していた。私も、他の編集部員と一緒に南伝チームに移ることになった。
シャンバラ精舎にプレハブ棟が建つようになると、富士山総本部の多くの部署が阿蘇へ移動することになった。
「こんなに大勢が移動したら、富士はからっぽになりそう、オウムの本拠地は阿蘇になるのかな?」と心配になった。
出発当日、富士山総本部を出る時刻は、何時何分何秒まで正確に決められていた。ワゴン車に乗り込んで出発を待っていると、南伝チームのリーダーのヴァンギーサ師がカウントダウンをはじめた。
「三分前、二分前、一分前…五、四、三、二、一、はいスタート!」
オウムで開発した「大宇宙真理占星学」で割り出した、吉日・吉時・吉方位に阿蘇に出発するんだなと思った。

夜中に富士を出発して、波野村に着いたのは夕方だった。
シャンバラ精舎の敷地に入っていくと、車一台通るのがやっとの林道の脇に、泥だらけの男性サマナが携帯無線機を持って立っている。無線機からは「B地点に右翼の車…B地点に応援頼みます…」「応援頼みます。応援頼みます…」という声がとぎれとぎれ聞こえる。まるで野戦場にいるような雰囲気だった。
運転手が窓を開けると、警備のサマナが言った。
「この先で、村民との衝突が起きていますから、ちょっと待っていてください」
「なんだか物騒なところだなあ…」と思った。
到着してみると、建設途中のシャンバラ精舎は想像以上に過酷な環境だった。夜は富士より寒く、昼間は蒸し暑く、火山灰を多く含む土地は、雨が降ればひどくぬかるみ、乾けば砂が舞い上がった。この細かい火山灰の砂が、南伝チームのパソコンのハードディスクを次々とダメにしていった。
シャンバラ精舎にはさまざまな部署があった。建築班をはじめとして、洗濯と食事を担当する生活班、毎日タンクローリーで水を汲みに行く水班、動物を飼育する「動物班」、石垣島セミナーの出家で増えた子どもたちの「子ども班」、成就者が出ない停滞ムードの修行班、食堂の一角には「動物コーナー」が作られ、食の戒律が守れない人向けに好きな食事が提供されていた。プレハブ棟を結ぶひどくぬかるんだ道を、ゴム長靴をはいて少し背を丸めて歩くサマナの姿は、修行者というより開拓民のようだった。
「ここは流刑地みたいだなあ…いったい、いつになったら富士へ帰れるんだろう…」
私はとても前向きな気持ちにはなれなかった。
教祖は一か月に二度ほどやって来て説法した。
「このような厳しい環境は修行者にとっては素晴らしい。私はこういう土地が好きだ」と語って、なかなか成就者の出ない修行班を叱咤激励し、「涙のシークレット・ヨーガ」と銘打って、戒律が守れないサマナの懺悔を受けていた。

私はどのくらいシャンバラ精舎にいたのだろうか。蒸し暑く、底冷えがして、ぬかるんでいて、室内は砂っぽく、暗い所だったという印象しか残っていない。後で師から聞いたことだが、富士から阿蘇への出発時刻はたしかに「大宇宙真理占星学」で割り出したそうだが、その時間は「吉」ではなく「凶」だったという。
「えっ…」と、私は絶句した。一瞬意味がわからなかった。
師が、ぼそっとつぶやいた。
「カルマ落とすためでしょ…」
それなら阿蘇で良いことなんか起きるはずはない。占星術をそんなふうに使うのは、教祖くらいではないだろうか。
五〇〇人もの出家者を迎え入れて重くなった教団のカルマを、シャンバラ精舎は確実に落としてくれた。


43.ダラムサラ

はじめて撮影のワークで海外ツアーに参加したのは、ダライラマ法王に会うためにインドのダラムサラを訪れた旅だった。ダラムサラは、ネパールとの国境に近いチベット亡命政府のある町だ。オウムで最初の海外旅行だったこと、大変な旅行だったこと、クンダリニー・ヨーガの成就者に幻滅したことでよく覚えている。
成田空港からデリーに着くとまずホテルで一泊した。翌日は、チャーターしたバス二台を連ねて、インドの舗装されていないでこぼこ道を、夜を徹して休みなく走り続ける強行軍だった。
海外旅行は、クンダリニー・ヨーガの成就者へのご褒美という面もあったので、同行者のほとんどは「師」の人たちだった。ラージャ・ヨーガを成就したばかりの私は、いつでもどこでも師の最後尾のそのまた末席についていた。ダラムサラに向かうバスでも、機材を入れたカメラバッグ二個を持って一番後ろの座席にすわった。しばらく走っているとひどい悪路になって、私の座席シートは上下するバスに合わせて三十センチも飛び上がり、とてもまともにすわってはいられなくなった。飛び上がり方は後ろの席ほど激しく、座席シートは何度もはずれてひっくり返りそうになる。私はカメラをショックから守るために胸に抱えたまま、激しく揺られ、飛び上がり、座席から放り出されないよう必死だった。

夜中の強行軍のあいだ一睡もできず、ダラムサラに到着したときにはへとへとに疲れ果てていた。途中の食事はデリーのホテルで持たされた軽い弁当だけだったので、すぐに夕食をとることになった。オウムでは、いつでもどこでも例外なくステージ順だ。飛行機でもバスでも席順はステージ順、食事のときの席の並びもそうだった。教祖に近いところから成就者は成就した順に、サマナなら出家した順に席につく。
ダラムサラでの最初の夕食はチベット料理だった。
「モモですよね。モモ」
だれかが言った。
前回のダラムサラ旅行にも同行した先輩サマナが教えてくれた。
「モモはチベットの餃子のようなもので、尊師がお好きなの」
末席から見ると、たしかに焼きそばのような麺や餃子のようなもの、野菜炒め、焼きめしなどが大皿で運ばれていた。料理を取る順番もステージ順で、末席にはほとんど空になった皿しか回ってこない。モモなどというものは、一個も見ることも味わうこともなかった。
テーブルのかなたでは教祖とステージの高い成就者たちが談笑している。最初に教祖の料理が取り分けられ、皿が回され、成就者たちがステージ順にすごい勢いで取って食べる。男性が多いので皿はみるみる空になっていく。食べながら彼らは教祖の方ばかり見ている。どんな話も聞き逃さないように、いつ自分の名前が呼ばれるかと心待ちにしながら、そして回ってくる食べ物を皿に山盛りにして次々に口に入れていた。
末席に回ってくる寂しい皿と、ステージの高い成就者たちを見ながら、私はつくづく思った。
「ああ、この人たちは上しか見ていないんだな。下の者に十分な食べ物が回っていないことを、見ることも考えることもない…」
ものすごい疲労感と空腹を抱えて見たこの光景が忘れられない。

クンダリニー・ヨーガの成就者たちの振る舞いを見て、私は彼らの人間性を疑っていた。では、「クンダリニー・ヨーガの成就」という目標そのものも疑っただろうか。
教祖の説法にこんな解説があった。
「解脱と悟りは車の両輪のようなものでどちらも必要だ。真我が無明に入っていくプロセスを経験的に理解するのが解脱であり、それを論理的に理解するのが悟りである」
「まず解脱することだ。悟りは時間がかかるから、解脱を経験した後で長く時間をかけてやるしかない」
そんな説明を思い出して、彼らはクンダリニー・ヨーガで成就し解脱したが、悟ってはいないのだと納得することにした。「霊的な体験」と「人格」はまったく別物。解脱と人格はなんの関係もないことを目の当たりにした夜だった。

食事は終わったが私は空腹のままだった。上長の師が近づいてきて、不機嫌な顔の私に声をかけた。
「どうしたの?」
「ほとんど食べるものがありませんでした」
仏頂面で訴えると、彼女はすぐに私の不満を教祖に話してもどってきた。
「尊師、なんでも好きなものを食べるようにって。何が食べたい?」
盲目の教祖は弟子の不満顔を見ることはできないが、不満の声を聞けばすぐに対応してくれた。
私は「モモ」と答えた。
彼女はもう一度私を食堂へ連れて行って、マネージャーに掛け合った。モモは一個も残っていなかった。残っている食べ物はパンだけだという。「もういいですよ」と言いたいところだったが、あまりの空腹にパンを頼んだ。
出てきたのは味気のないとても堅いパンだった。
「堅くて、不味いパンだなあ…」
そう思いながら、私は水で流し込むように飲み込んだ。

次の日、教祖と弟子全員がダライラマ法王と謁見し、私はその様子を写真に撮った。
教祖と法王が会うのはこれが最初ではないようで、法王は親しげに教祖に話しかけ、別室で教祖と通訳だけで内密に話をする時間も取った。謁見の最後には、法王からカタと呼ばれる白い布を一人一人首にかけてもらって祝福を受けた。
法王庁から出ると、ある師が言った。
「こまっちゃうんだよねー。これ…」
そう言って早々にカタを外していた。たとえダライラマ法王であろうと、みんなグル以外のイニーションは受けたくないようだった。
そこにいるだれ一人として、法王とお会いできて光栄だと思っている様子はなかった。